第26話
夕方、長屋に帰った金四郎は一人、侘(わび)しく金四郎の帰りを待っていた貞吉(さだきち)のために夕食の支度(したく)にとりかかった。そんな金四郎の背中に向かって、「兄貴」と貞吉(さだきち)が声をかけた。
「何だ?」
「屋敷に戻るんだな…」
どうやら貞吉(さだきち)なりにもう、何かを察していたらしく、覚悟を決めた口振りであった。
金四郎は手を止めると、貞吉(さだきち)の方を振り返り、そして、
「済まねぇっ」
金四郎は土間に膝(ひざ)を折ると、両手を突(つ)いた。
「兄貴…、よしてくれよ、そんな真似(まね)…、兄貴らしくねぇよ…」
貞吉(さだきち)は金四郎の手を取ると、立ち上がるように促(うなが)した。だが金四郎は中々、立ち上がることが出来なかった。無論、罪悪感からであった。貞吉(さだきち)を見捨てることになる、その罪悪感から…。
「済まねぇ…」
金四郎は尚(なお)も膝を折ったまま、頭を垂れた。
「謝ることねぇよ…、いつかは終わりが来るって、はじめっから分かってたことだから…」
貞吉(さだきち)のその言葉に金四郎は思わず顔を上げた。そこには泣き笑いをしている貞吉(さだきち)の顔があった。金四郎は後ろめたさと申し訳なさで思わず目をそらした。
「済まねぇ…」
金四郎は謝ると、畳に上がって箪笥(たんす)に向かうと、一番上の引き出しからそれまで…、貞吉(さだきち)と同居を始めてからこのかた2年間、石河(いしこ)家から仕送りとして届けられた金を取り出した。月に5両、年間60両の仕送りでそれが2年に及んで120両もの蓄(たくわ)えが出来た。日々の暮らしはドブ浚(さら)いなどの肉体労働で稼いでいたので、仕送りには一切手をつけなかったのでそっくりそのまま蓄(たくわ)えとなっていた。
120両ともなるとかなりの重みがある。金四郎はそれを袱紗(ふくさ)に包むと、貞吉(さだきち)に渡した。
「これは…」
「おめぇの実家の石河(いしこ)家から仕送られたもんだ。おめぇの金だ。受け取れ」
「受け取れって…、かなりの額じゃねぇか…」
「ああ。だがおめぇの金だ。だから好きに使え」
「好きに使えって…」
「おめぇも屋敷に戻るのも良し、このまま、長屋暮らしをするも良し…、仮に長屋暮らしを続けるとして、その時にはこの金が役に立つだろうぜ」
「兄貴…」
「済まねぇと思ってる。金で片をつけようだなんて、そんな真似をして…、でも今の俺にはそれ以外に片をつける術(すべ)がねぇんだ。許してくれ」
「兄貴…」
貞吉(さだきち)は頭を垂れる金四郎を見下ろすと、「本当にこの金、好きに使って良いんだな?」と確かめるように尋ねた。
「ああ。賭場(とば)ですろうと、それはおめぇの勝手だ。好きにしろ」
金四郎は頭を上げると、そう答えた。憎い実家からの仕送りとあって、貞吉(さだきち)のことだ、もしかしたら博打ですろうとするに違いない…、金四郎はそう読んで、先回して答えたのであった。
「分かった…」
だが貞吉(さだきち)はその金を博打でするような真似はしなかった。
金四郎から金120両もの金を受け取った貞吉(さだきち)は翌朝、その金を持って長屋から姿を消した。賭場(とば)に行ったか、あるいは実家に帰ったか、それは金四郎にも分からなかったが、ともかく、金四郎はあえて探し出そうとは思わなかった。
「俺に見捨てられる前に、見捨ててやった…、そんなところか…」
勝気(かちき)な貞吉(さだきち)の考えそうなことだと、金四郎はその時はそう、軽く考えていた。
だが実際には違った。金四郎がそれを思い知ることになるのはそれから10日以上経ったあくる日のことであった。
金四郎はけいとの縁談を受け入れると同時に、実家に帰ることを父・景晋(かげみち)に承諾した。そしていよいよ長屋を引き払う前日、貞吉(さだきち)が戻って来たのであった。
「貞坊(さだぼう)…、おめぇどこほっつき歩いてたんだ?」
金四郎は貞吉(さだきち)にそう尋ねた。金四郎は心なし、貞吉(さだきち)の顔色が悪いように思えた。
「さては賭場(とば)で全部すりやがったのか?」
金四郎は冗談めかしてそう言うと、貞吉(さだきち)の背中を軽く叩いた。だが貞吉(さだきち)はそれに対して決して演技ではなく、本当に痛がったので金四郎は驚いた。
「おい…、どうした?顔色が悪いが…」
金四郎はその時になって初めて貞吉(さだきち)の異変に気付いた。
「俺も…、兄貴に倣(なら)って入れてみたんだ…」
貞吉(さだきち)は息を喘(あえ)がせつつ、そう言うと、諸肌(もろはだ)を脱いで見せた。すると見事に咲き乱れる梅の彫物(ほりもの)が浮かび上がった。
「おっ、おめぇっ…」
金四郎は絶句した。と同時に、背中を軽く叩いただけで痛がった理由にも合点(がてん)がいった。
「おめぇ…、そのためにあの金を…」
「ああ…、江戸一番の彫師に彫ってもらったんだ」
貞吉(さだきち)はそう言うと、鼻をこすり、「へへっ」と強がってみせた。それが金四郎にはかえって痛々しく思えた。貞吉(さだきち)は元服(げんぷく)したとは言え、未だ14歳の少年に過ぎなかった。その少年に彫物(ほりもの)を施(ほどこ)すとは、如何(いか)に当人からせがまれたからとは言え正気(しょうき)の沙汰(さた)とも思われなかった。
「中々、彫ってくれなくってよ…」
貞吉(さだきち)は金四郎の内心の疑問に気付いたのか、そう答えた。
「当たり前だ」
だが実際には貞吉(さだきち)の背中には見事な梅の咲き乱れている。最終的には貞吉(さだきち)に押し切られたのであろう。何より、金の効果が絶大に違いなかった。
「もしかしてあの金を…」
「ああ。全部使った」
そう答える貞吉(さだきち)は相変わらず苦痛で顔を歪(ゆが)めていたものの、どこか晴れ晴れとした色も浮かんでいた。
一方、金四郎は「馬鹿野郎…」と思わず貞吉(さだきち)を殴りつけようとしたものの、今の貞吉(さだきち)を殴り飛ばせば、それこそ貞吉(さだきち)の命にかかわると、金四郎は本能的にそれが分かっていたので、手を上げることはしなかった。第一、己も同じように桜吹雪の彫物(ほりもの)を入れているのである。貞吉(さだきち)を叱り飛ばす資格はどこにもなかった。
その代わり、金四郎は諭(さと)すように言った。
「今さらこんなことを言っても詮無(せんな)いことだが…、これから後悔するぜ?」
「彫物(ほりもの)を…、入れたことをか?」
「そうだ」
「それなら絶対に後悔しねぇぜ」
「なぜ、そう断言出来る?」
「だって、これで兄貴と本当の意味で兄弟になれたから…」
貞吉(さだきち)は真っ直ぐに金四郎を見つめてそう答えた。
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