第22話

 結局、金四郎と貞吉(さだきち)は河原で決着をつけることとなったのである。だがいざ、構えるとやはり洟垂(はなた)れ小僧を叩きのめすのも大人気ないと、金四郎はそう思い直すと、急に熱い心が醒(さ)めてゆき、やはり適当にやり過すことに決めた。


 だがそんな金四郎とは対照的に貞吉(さだきち)は全力で金四郎にぶつかってきた。無論、喧嘩慣れしている金四郎にしてみれば、かわすことなど造作(ぞうさ)もないことで、事実、貞吉(さだきち)の拳は空を切るばかりであった。だが貞吉(さだきち)は己よりも遥(はる)かに大きい金四郎に対して、恐れるでもなく全力でぶつかってきた。金四郎はそんな貞吉(さだきち)を相手にするうち、


「やはりここは一つ、本気で相手をしてやろう…」


 そう思い直すと、金四郎も構えると、まずは貞吉(さだきち)の肝の臓めがけて左拳を叩き込み、腹を抱えて嘔吐(おうと)する貞吉(さだきち)に対して、今度は両手で貞吉(さだきち)の頭を抱え持ち、貞吉(さだきち)の顔面めがけて膝頭を叩き込み、貞吉(さだきち)に涙と鼻血を噴出(ふきだ)させた。


 その時点で貞吉(さだきち)は完全にのびてしまい、一方、貞吉(さだきち)の取り巻き連中は恐れをなしたらしく、脱兎(だっと)の如(ごと)く、貞吉(さだきち)を見捨ててその場から逃げ出したのであった。そんな貞吉(さだきち)の取り巻き連中を金四郎の仲間は追いかけようとしたものの、のびている筈(はず)の貞吉(さだきち)が最後の力を振り絞って金四郎の裾(すそ)を掴(つか)んでそうは…、追いかけさせはすまいと、頑張っている貞吉(さだきち)の姿を金四郎は目(ま)の当たりにして、


「もう良いだろう」


 といきり立つ仲間を鎮(しず)めさせ、貞吉(さだきち)の取り巻き連中を追いかけさせることはしなかった。


 さてこうして貞吉(さだきち)一人が言ってみれば敵地に残された格好で、金四郎の仲間はさてどうするかとなった。当然、簀巻(すま)きにしてやれといった、過激な意見も出されたが、やはり金四郎はそんな過激な意見を鎮(しず)めさせ、貞吉(さだきち)を家まで送り届けることにした。金四郎の仲間はそこまでしてやる必要はないと声を揃(そろ)えたものの、必死で袖(そで)を掴(つか)む、血と泥に塗れた貞吉(さだきち)の姿を見下ろすうち、つい情が湧(わ)いた。


 そして金四郎はその時になって初めて貞吉(さだきち)に名と家を尋ねた。貞吉(さだきち)は反抗的な視線をよこして、「まずはてめぇから名乗るのが礼儀だろう」と息を喘(あえ)がせつつ、そう言い返した。あくまで反抗的な貞吉(さだきち)に金四郎は完全に情が移ってしまった。まるで自分を見ているようだったからだ。世の中のすべてが気に入らない…、そんな自分の姿を見ているような気分に襲われたからだ。


 ともかく金四郎は苦笑しつつ、「確かにお前の言う通りだな」と首肯(しゅこう)すると、自分の名と住んでいる長屋を告げた上で、改めて貞吉(さだきち)に名と家を尋ねた。


「俺は貞吉(さだきち)…、石河(いしこ)貞吉(さだきち)だ」


「そうか、で、どこに住んでる?」


「一ツ橋通りの小川丁だ」


 一ツ橋通りの小川丁の石河(いしこ)家…、金四郎はその時点でもしや…、と思ったものである。一ツ橋通りの小川丁と言えば、一等地であったからだ。御家人では住めぬ場所であり、考えられるとしたら、大身旗本以外には考えられず、知行(ちぎょう)4525石の石河(いしこ)家以外には考えられなかった。


「嫡男ってことはねぇよな…」


 金四郎はついそんな言葉が口をついて出てしまった。それに対して貞吉(さだきち)は鼻血を垂らしたまま、そっぽを向いたので、「ああ、やはりそうか…」と思ったものである。


 ともかく金四郎は貞吉(さだきち)をおぶってやることにした。だがそれを貞吉(さだきち)は断固、拒否した。


「馬鹿にするなっ!俺は侍だっ!」


 つまりは自分の力で立ち上がると言いたいらしく、金四郎はいよいよもってこの貞吉(さだきち)が気に入った。


 しかしその決意とは裏腹に、貞吉(さだきち)が受けたダメージは大きく、結局、立ち上がれなかったので、嫌がる貞吉(さだきち)をもう一発殴り、黙らせてからおぶると、一ツ橋通りの小川丁にある貞吉(さだきち)の屋敷へと向かった。


 当時は今のように表札が出ているわけではなく、どこが石河(いしこ)家の屋敷か、そこまではさすがに金四郎も分からなかったので、背負っている貞吉(さだきち)に指示してもらうことにした。そうして貞吉(さだきち)が指し示す方向を歩いて、ようやくお目当ての屋敷に辿(たど)り着くと、門前にていったん貞吉(さだきち)を地面におろすと、大門を叩いて中の者を呼んだ。


 やがて大門の脇門が開かれ、中から用人らしき侍が顔を見せると、金四郎に対して胡乱(うろん)な視線を向けて来た。当然と言えば当然の反応であり、金四郎はそれには気にすることなく、


「お宅のお坊っちゃんをここまで連れてきやしたぜ」


 そう告げて、地面におろした貞吉(さだきち)を指し示した。だが用人は大して驚くでもなく、


「ああ、左様で…」


 そう言うと、大門を開けるでもなく、脇門より、それも何と金四郎に貞吉(さだきち)をおぶらせて屋敷の中へと入らせたのだ。如何(いか)に嫡男ではないにしても、当主の実子である以上、脇門ではなく大門から入らせるべきところ、脇門から入らせるとは、この屋敷における貞吉(さだきち)の立場というものがこの時点で金四郎には察せられた。


 そうして金四郎は玄関まで貞吉(さだきち)をおぶって行くと、もうお役ご免とばかり、その場を立ち去ろうとしたが、それを用人が制止した。


「暫く待つが良い」


 用人はそう言い残すと奥へと消え、それから暫(しばら)くしてから紫の袱紗(ふくさ)に包まれた何かを抱(かか)えて戻って来た。それが何であるのか、金四郎には勿論、分かった。


「下郎、これを…」


 用人はそう言って、紫の袱紗(ふくさ)に包まれた何かを金四郎に押し付けようとした。今ならば、それなら遠慮なくと受け取っていただろうが、その時の金四郎は血気盛んであり、


「馬鹿にすんじゃねぇっ!」


 そう言って、紫の袱紗(ふくさ)ごと床に叩きつけた。すると、切餅(きりもち)が二つ、床に叩き付けられた勢いで、小判が散乱した。


「ぶっ、無礼であろうがっ!」


 用人はいきり立ったが、金四郎はそれ以上の勢いでもって、「無礼なのはてめぇだろうがっ!」と怒鳴り返した。


 それからすぐのことであった。どうやら金四郎の怒鳴り声が奥まで聞こえたらしく、当主の若狭守(わかさのかみ)貞通(さだみち)が玄関へと姿を見せたのであった。貞通(さだみち)は顔を真っ赤にしている金四郎のことを見下ろすように見つめると、「そこもとは…」と切り出したかと思うと、


「もしや、長崎奉行の遠山(とおやま)左衛門尉(さえもんのじょう)景晋(かげみち)殿が息(そく)ではあるまいか?」


 ズバリ当ててみせたのであった。これには玄関におろされた貞吉(さだきち)も目を見張ったものである。


 それに対して金四郎はこうなっては嘘をついても仕方ないと観念(かんねん)し、


「如何(いか)にも景晋(かげみち)が愚息(ぐそく)、金四郎なれど、嫡男ではござりませぬ」


 そう答えたのであった。


「左様か…、目許(めもと)がお父上にそっくりですぐに分かったぞ…、ああ、申し遅れたが拙者(せっしゃ)は留守居(るすい)年寄衆を相(あい)つとむる石河(いしこ)若狭守(わかさのかみ)貞通(さだみち)ぞ」


「その御名なれば、父より聞いたことがござりまする」


 父、景晋(かげみち)が江戸を発つ前…、即(すなわち)、金四郎もまた屋敷を飛び出す前、景晋(かげみち)からその名を聞いた記憶があったので知っていた。


「左様であったか…、それにしても如何(いか)に嫡男ではないにせよ、左様な放埓(ほうらつ)なる暮らし向きはいかがなものかのう…」


 てめぇには関係ねぇだろ…、その言葉が金四郎は喉元(のどもと)まで出かかったが、その代わり、


「それよりも貞吉(さだきち)殿にもう少し、目をかけられてはいかがでござろうか?」


 そう言い返したのであった。これに貞吉(さだきち)は今までにないほど目を見開いた。まさか金四郎からそう言ってくれるとは思いもしなかったのかも知れない。


 だが貞吉(さだきち)の実父である筈(はず)の貞通(さだみち)の答えは冷ややかなものであった。


「それはどういう意味かな?」


「俺が言えた義理ではござりませぬが、なれど貞吉(さだきち)殿が斯様(かよう)に放埓(ほうらつ)なる暮らし向きをするはひとえに、貞吉(さだきち)殿を構ってやらないからではござりますまいか?」


「ふむ…、確かにそこもとに言われる筋合いはないが、なれど斯様(かよう)な愚鈍(ぐどん)な倅(せがれ)を構ってやれと申されてもそれは無理と申すもの。せいぜい、小遣い銭には事欠かぬよう、気を配っているゆえ、それで充分であろうが。それ以上のことをしてやるつもりは毛頭ない」


 貞通(さだみち)は実の息子の貞吉(さだきち)を前にしてそう言い放ったのである。その余りの思い切りの良さに金四郎はほんの僅(わず)かだが、感心させられたものである。


 だがそれはほんの僅(わず)かに過ぎず、大部分は憤慨(ふんがい)に包まれた。


「それでは…、それでは余りに貞吉(さだきち)殿がお可哀想(かわいそう)ではござりませぬかっ!」


 金四郎はまるで己が貞吉(さだきち)の父になったかのような口振りで貞通(さだみち)に猛抗議したが、やはり貞通(さだみち)の反応は冷ややかそのものであった。

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