第21話
翌日、景元(かげもと)は寝不足のまま、御城へと向かった。だが大目付は特に仕事はなかったのでウトウトしていても誰からも咎(とが)められることはなかった。
「俺はこのまま…、一生、朽ち果てるようにして役人人生を終えるのか…」
景元(かげもと)はウトウトしながら、ふとそんなことを思い、目が覚める思いであった。だが、目が覚めたところで大目付という閑職(かんしょく)に左遷され、もう誰からも相手にされない「現実」に変わりはなかった。
そうして一日を終え、御城を下がって愛宕下(あたごした)にある屋敷に帰ってみると、困惑顔を浮かべた妻女のけいが景元(かげもと)を出迎えた。
「殿様…」
「如何(いかが)いたした?」
「それがその…、殿様にご来客が…」
「俺に客だと?」
「はい。ですがその…」
けいの歯切れは悪かった。こういう時は急(せ)かしてもますます口を貝にさせてしまうだけだと、景元(かげもと)は分かっていたので、極力、穏(おだ)やかに、「構わぬ、申せ」と促(うなが)した。
「はい、それがその…、かなりの無頼漢(ぶらいかん)でして…」
「無頼漢(ぶらいかん)…」
昔の悪仲間だろうか…、景元(かげもと)はそう思った。
「それでその無頼漢(ぶらいかん)は今、この屋敷に?」
「はい。その身形(みなり)はきちんとしておりましたゆえ…」
けいは言い訳気味にそう言った。なるほど、身形(みなり)の悪い、例えばヤクザ風なら門前払いを喰らわしたに違いないが、身形(みなり)が良い来客ともなると、そうはいかないだろう。だが身形(みなり)の良い無頼漢(ぶらいかん)などそういる者ではなかった。景元(かげもと)の脳裏(のうり)におぼろげながら、ある男の顔が浮かんだ。
「殿様のことを兄貴と称して…、それも金兄ぃに会いに来たと…」
それで景元(かげもと)にはその無頼漢(ぶらいかん)が誰なのか、見当がついた。己のことを兄貴、金兄(きんに)ぃなどと呼ぶ者は景元(かげもと)が知る限り、この世で唯一人(ただひとり)しかいなかった。
「貞坊(さだぼう)の野郎、一体、何しに…」
景元(かげもと)はそう思いつつ、「会おう」とけいに告げると、その「無頼漢(ぶらいかん)」が通された奥座敷へと向かった。
奥座敷においてその「無頼漢(ぶらいかん)」は上座で居心地悪そうにして着座して待っていた。そして、景元(かげもと)が姿を見せるなり、立ち上がって景元(かげもと)の元へと歩み寄った。
「兄貴、久しぶりだなぁ」
無頼漢(ぶらいかん)、あるいは貞坊(さだぼう)と呼ばれる男は景元(かげもと)にそう声をかけるとそれまで己が座っていた上座を景元(かげもと)に明け渡そうとした。だがそれを景元(かげもと)は丁重に拝辞(はいじ)した。
「いえ、伊勢守(いせのかみ)様、どうぞ…」
景元(かげもと)は内心…、貞坊(さだぼう)と呼んだのとは対照的に、丁重に応対した。するとその男は哀(かな)しげな表情を浮かべると、
「そんな…、伊勢守(いせのかみ)様だなんて…、他人行儀はよせやい」
実に子供のような物言いをした。実際、その男は子供のように今でも天真(てんしん)爛漫(らんまん)そのものであった。
「いえ、そうは参りませぬ。伊勢守(いせのかみ)様は大名なれば、どうぞ上座に…」
景元(かげもと)は改めてそう言うと、無理やりその男…、伊勢守(いせのかみ)様と呼んだ男を上座に座らせ、己は下座に着座すると向かい合った。
「俺はもう、大名じゃねぇよ。だから昔みたいにまた、貞坊(さだぼう)って呼んでくれよ」
その男はそう甘えて見せた。確かに男の言う通り、男はもう大名ではなかった。
その男の名は景元(かげもと)が口にした通り、「伊勢守(いせのかみ)」の官職名を持つ、内田(うちだ)正容(まさかた)なる大名であった。今はもう隠居しており、「伊勢守(いせのかみ)」の官職名を捨て、「楳嶺(ばいれい)」の号を用いていたが、隠居したとはいえ、元大名としての暮らし向きは保障されていたので、「身形(みなり)が良い」とけいが見たのも当然であった。そしてこの正容(まさかた)こそ、あの出来の良い正道(まさみち)の実父であった。
「もうあの頃とは違いまする…」
あの頃…、それは景元(かげもと)が「金四郎」を名乗り、そして正容(まさかた)はまだ石河(いしこ)貞吉(さだきち)を名乗っていた頃を指していた。
正容(まさかた)は今でこそ元大名、少し遡(さかのぼ)れば大名であったが、元々は旗本の三男坊として生まれた。但し、貧乏旗本の三男坊などではなく、4525石もの知行(ちぎょう)を持つ、いわゆる大身旗本である石河(いしこ)家の三男坊として生まれたのであった。
尤(もっと)も、大身旗本とは言え、三男坊であることに変わりはなく、その時点では家を継ぐこともなく、一生、部屋住(へやずみ)で終わる筈(はず)であり、その点では景元(かげもと)と…、金四郎(きんしろう)を名乗っていた頃の景元(かげもと)と同じ境遇にあった。
景元(かげもと)もとい金四郎(きんしろう)と、正容(まさかた)もとい石河(いしこ)貞吉(さだきち)の邂逅(かいこう)は遡(さかのぼ)ること31年前の文化9(1812)年であった。
その頃、金四郎(きんしろう)を名乗っていた景元(かげもと)は文化7(1810)年に家を出、町屋にて放蕩(ほうとう)無頼(ぶらい)の暮らしをしていた。家を継げない憂(う)さもあって家出をしたわけであり、実家からの援助も癪(しゃく)であったので実家からの援助も断り、自活(じかつ)していた。
当然、稼がなければならず、その頃の金四郎(きんしろう)はドブ浚(さら)いなどの肉体労働で汗を流して日銭(ひぜに)を稼ぎ、余裕が出来れば…、出来なくても借金してでも見栄(みえ)を張って…、仲間と共に悪所(あくしょ)に通ったものである。後年、下情に通じている奉行として知られることになった下地であった。
そして貞吉(さだきち)を名乗っていた正容(まさかた)と出逢ったのは正にその頃であった。但し、出逢いそのものは最悪と言えた。
貞吉(さだきち)はその時はまだ御齢(おんとし)12歳の少年であったが、知行(ちぎょう)500石取に過ぎない遠山家とは違い、大身旗本の三男坊ということでもう前髪を落としていた。尤(もっと)も、金四郎からみれば洟垂(はなた)れ小僧も同然であった。その洟垂(はなた)れ小僧に過ぎなかった貞吉(さだきち)もまた、金四郎と同様、家を継げない憂(う)さを抱え、その憂(う)さを晴らすべく、当時通っていた道場の門弟(もんてい)…、と言えば聞こえは良いが実際には愚連隊(ぐれんたい)も同然であった、その愚連隊(ぐれんたい)を引き連れて何と、深川の岡場所に出没していたのだ。但し、吉原でないところがまだ可愛いと言えた。如何(いか)に大身旗本の三男坊とは言え、まだ洟垂(はなた)れ小僧の分際ではそれほど親から小遣い銭を与えられていなかったのであろう。
尤(もっと)も、金がないのは金四郎も同様で、金四郎が率(ひき)いる仲間と貞吉(さだきち)が率(ひき)いる仲間が深川でかち合ったのである。その後は正に、「お定まりのコース」というやつで、道をあけろ、あけないで言い争いが起こった。当初は金四郎も貞吉(さだきち)を洟垂(はなた)れ小僧と看做(みな)して適当に受け流すつもりであったのだが、
「ドブくせぇんだ、この乞食(こじき)野郎がっ!」
そう侮辱(ぶじょく)されたので、叩きのめすことにした。金四郎が率(ひき)いる仲間は皆、ドブ浚(さら)いをして日銭(ひぜに)を稼ぐ仲間たちであり、その仲間を親の金でぬくぬくと暮らしている洟垂(はなた)れ小僧から侮辱される謂(いわ)れはなかった。これが金四郎一人なら見逃しもしようが、その時は金四郎の仲間もおり、仲間まで侮辱されたとあっては金四郎も黙っているわけにはゆかなかった。ここで黙ってやり過せば、仲間を見捨てることに他ならないからだ。
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