第20話

 その晩、景元(かげもと)は中々、寝付けなかった。今日の屈辱が中々、忘れようにも忘れられなかったからだ。屈辱とは勿論、またしても耀蔵(ようぞう)から侮辱を受けたこと、そして何よりそんな耀蔵(ようぞう)からの侮辱に対して、やはりまたしても己自身では片をつけることが出来ずに、良弼(よしすけ)に頼ってしまったことであった。


「だがあの場合、どうすることも出来なんだ…」


 殴り合いの喧嘩ならば勝つ自信はあったが、口論ともなるともうお手上げである、そして今の己は殿中にて殴り合うなど到底、許されぬ身なれば、あの場合、良弼(よしすけ)に救われるより他に道はなかったのだ…、そう己に言い訳して寝ようとしたものの、やはり寝付けなかった。単なる言い訳にしか過ぎないことを景元(かげもと)自身、一番良く分かっていたからだ。


「やはり…、良弼(よしすけ)などに頼らず、己自身で片をつけるべき問題であった…」


 二度も耀蔵(ようぞう)から侮辱を受け、そして二度とも己自身で片を付けられず、良弼(よしすけ)に頼ってしまったそのことは既に江戸城内にて噂となって広まったに違いない。特に今日の場合は、周囲に旗本のみならず、諸大名までいたのだから尚更(なおさら)であろう。


「遠山も大したことがない…」


 そう噂されているに違いなかった。無論、景元(かげもと)の被害妄想かも知れないが、しかし景元(かげもと)には被害妄想だと一蹴(いっしゅう)することは出来なかった。江戸城内における役人同士の確執(かくしつ)は諸大名や旗本にとっては格好の「酒肴(しゅこう)」であったからだ。それゆえ仮に被害妄想ではなく、真実、格好の「酒肴(しゅこう)」としてそのように…、


「遠山も大したことがない…」


 諸大名や旗本らがそう噂し合っているとすれば、それはとりもなおさず、


「完全に舐(な)められる…」


 それに他ならなかった。そして一度、舐(な)められてしまうと、余程(よほど)のことがない限り、挽回(ばんかい)は不可能であった。極論すれば、


「役人人生を終えるまで舐(な)められっぱなし」


 で終わることにもなりかねなかった。景元(かげもと)には…、かつて「金さん」として桜の彫物を背に暴れ回っていた景元(かげもと)には耐え難(がた)いことであった。


 だがそれ以上に、景元(かげもと)を苛(さいな)んでいたのは、


「上様を裏切ってしまった…」


 との気持ちであった。上様、こと将軍・家慶(いえよし)は景元(かげもと)への大目付への左遷人事を発令する折、景元(かげもと)を大名並みに扱ってくれたのみならず、


「遠山よ、これからはそなたの信念に従い、生きるが良いぞ」


 家慶(いえよし)は極めて異例のことではあるが、旗本に過ぎぬ己に対して直々にそう声をかけてくれたのだ。大名ですら、将軍から直々に声をかけてくれるなど、そうあることではなく、それが旗本ともなれば尚更(なおさら)であった。それだけ将軍・家慶(いえよし)は景元(かげもと)のことを気にかけていたのだ。


 だが景元(かげもと)は将軍・家慶(いえよし)からのその言葉を裏切ってしまった。景元(かげもと)が己の信念に従うならば、あの場でバシッと耀蔵(ようぞう)にやり返すべきであったのだ。だが景元(かげもと)はそうはせず、良弼(よしすけ)に…、己を大目付に左遷した張本人である忠邦(ただくに)の威光を背にしている良弼(よしすけ)に二度までも助けられたのであった。景元(かげもと)は内心、忸怩(じくじ)たるものがあった。


 景元(かげもと)は思わず身をよじり、「だが…」と言い訳を重ねてみようとした。


「それでは己の信念に従うとしても、俺はやはり口論は苦手だ…」


 景元(かげもと)は良弼(よしすけ)のように弁が立つほうではなかった。口よりも先に手が出る方であった。無論、今の景元(かげもと)は手を出すような真似はしなかったが、それでも相変わらず口の方は苦手であった。それに反して良弼(よしすけ)は口が達者であったので、兄が忠邦(ただくに)との威光もあるが、それに加えてその口達者ぶりで耀蔵(ようぞう)を言い負かしたのであったが、到底、景元(かげもと)には真似のできることではなかった。景元(かげもと)が己の信念に従うとしたら、それはやはり、


「拳での決着…」


 それに他ならなかった。だが…、と景元(かげもと)はそれが不可能であることを充分過ぎるほどに自覚していた。


「大目付である今の俺はそんな軽挙妄動は出来ねぇ…」


 大目付が景元(かげもと)一人なら軽挙妄動に及んでも誰にも…、少なくとも相役(あいやく)、同僚に迷惑をかけることはないだろう。だが、大目付は景元(かげもと)一人ではなく、直恒(なおつね)を始めとする4人もの相役(あいやく)がいた。ここで景元(かげもと)が軽挙妄動に及べば、最悪、直恒(なおつな)ら4人の相役(あいやく)に迷惑をかけることになるやも知れなかった。場合によっては、連帯責任を取らされる恐れすらあった。そのことが景元(かげもと)に軽挙妄動をとらせることを躊躇(ためら)わせていたのだ。


 だがそれからすぐに景元(かげもと)は、「いや…」とそれもまた単なる言い訳に過ぎないと否定した。相役(あいやく)に迷惑をかけるのが嫌だと言うのなら、大目付を辞任してから軽挙妄動に及べば良いだけの話である。それならもう大目付ではないのだから、相役(あいやく)に迷惑をかけることはない。そうしないのは景元(かげもと)が、


「今の地位を失いたくない…」


 それに汲々(きゅうきゅう)としていたからだ。かつての「金さん」の面影(おもかげ)は今の景元(かげもと)にはもうどこにもなかったのだ。そこにあるのは如何(いか)に役人人生をまっとうするか、そのことに汲々(きゅうきゅう)とするだけの小役人の姿しかなかった。

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