第18話

 景高(かげたか)は景元(かげもと)の姿に気付くと、手招きした。


「お知り合いかな?」


 最前列を歩いていた直恒(なおつね)もその様子に気付いたらしく、歩を止めると、景元(かげもと)の方へと振り返り、「お知り合いかな?」と尋ねた。


「はい。本家筋の遠山(とおやま)安芸守(あきのかみ)でござる。今は浦賀奉行を務めており申す」


 景元(かげもと)がそう答えると、直恒(なおつね)は「ああ…」と如何(いか)にも何か事情を知っているかのような顔をした。事実、直恒(なおつね)は「事情」を知っていた


「遠山(とおやま)安芸守(あきのかみ)殿と申せば、本城の小姓組(こしょうぐみ)番頭(ばんがしら)を務めていたのを、水野様や鳥居殿の画策により浦賀奉行へと左遷…、あっ、これは失礼、転任させられたとの専(もっぱ)らの評判でござるよ」


 直恒(なおつね)は慌てて言い直したのを、景元(かげもと)は苦笑で応じると、「確かに左遷でござるよ」と答えた。それにしても景高(かげたか)が本城の小姓組(こしょうぐみ)番頭(ばんがしら)から浦賀奉行に左遷させられた件は江戸城内でも噂になっていたらしい。


「まぁ…、その、せっかく本家筋に当たる遠山殿が遠山殿…、左衛門尉(さえもんのじょう)殿を呼んでおられるのだ。二人きり、つもる話もござろうゆえ、我らは適当な場所に座るゆえ、遠山殿も心置きなく…」


 直恒(なおつね)は気を利(き)かせてそう言うと、景元(かげもと)を除く3人の相役(あいやく)…、同僚を引き連れて、離れた場所に陣取った。景元(かげもと)はそんな直恒(なおつね)の厚意に感謝しながら、手招きした景高(かげたか)の元へと歩み寄った。


 景高(かげたか)の隣はたまたまあいていたので、景元(かげもと)はそこに座った。


「これはこれは景高(かげたか)様、お久(ひさ)しゅうござる」


 景元(かげもと)はそう挨拶すると会釈(えしゃく)した。


「いや、こちらこそ無沙汰(ぶさた)をしておって…、本来なればもう少し早くに景元(かげもと)殿の元へ挨拶に向かうべきところ、浦賀に転任してからというもの、何かと忙(いそが)しゅうて忙(いそが)しゅうて…」


 景高(かげたか)のその言葉に嘘はなかった。実際、浦賀奉行を始めとする遠国奉行は激務であり、とても余暇(よか)など望めない。今日のように五節句(ごせっく)の一つである上巳(じょうし)の節句(せっく)の祝いのために将軍に拝謁(はいえつ)するため…、ともなれば、それは公務の性格を帯びるので、任地である浦賀からこの江戸へ上京することも可能であったが、そうでない限りは任地を留守(るす)にすることは基本的に許されなかった。


「やはり遠国奉行ともなればさぞかしお忙しいのでござりましょうなぁ」


 景元(かげもと)が合いの手を入れた。


「ああ。何しろ領内すべてを支配せねばならぬゆえ…、尤(もっと)も、その分だけやりがいがあるがのう…」


 景高(かげたか)の言う通り、遠国奉行はその任地のすべてを支配する権限と責任を持ち、その点が江戸町奉行と違う点であった。どういうことかと言うと、江戸町奉行といえども、江戸の町をすべて支配できるわけではなく、いい例が、寺社地であり、寺社地は町方…、江戸町奉行の支配は及ばない一種の治外法権であった…、尤(もっと)も火附盗賊改方は寺社地であろうと踏み込める権限を持っていた…。


 だが遠国奉行は例え、寺社地であろうと堂々と踏み込むことが許されており、それゆえ江戸町奉行よりも遠国奉行の方が遥(はる)かに面白いと、そう公言する江戸町奉行経験者もいるほどであった。

それゆえ、「やりがいがある」との景高(かげたか)の言葉は決して強がり…、本城の小姓組(こしょうぐみ)番頭(ばんがしら)から浦賀奉行に左遷されたことを何とも思っていないと、そう強がっているわけではなく…、少しは強がってもいただろうが…、それ以上に正直な真情の吐露(とろ)と捉(とら)えるべきであった。


「確かに…、この景元(かげもと)が父も生前、同じことを申しておりましたゆえ…」


 それこそが景高(かげたか)は正直な真情を吐露(とろ)していると、そう捉(とら)えた最大の理由であった。


「おお、そうであったな。景元(かげもと)殿がご尊父はかつて長崎奉行を務めておいでであったな」


 景高(かげたか)は思い出したように言った。


「左様…、その父もやはり遠国奉行はやりがいがあると、同じことを申しておりました…」


 景元(かげもと)の父、遠山(とおやま)景晋(かげみち)もまた遠国奉行、それも長崎奉行を務めており、その後、作事奉行に栄転したのだが、


「やはり仕事の面白さという点では遠国奉行の足下(あしもと)にも及ばぬわ」


 倅(せがれ)の景元(かげもと)にしみじみ打ち明けたことがあり、景元(かげもと)はそれを今でも覚えていたので、景高(かげたか)の言葉が本心からのものだと、本能的に悟(さと)ったのはそういう事情からであった。


「まぁ、仕事が面白いのが唯一(ゆいいつ)の救いではあるがな…」


 景高(かげたか)はそう付け加えた。これもまた正直な…、痛いほど正直すぎる真情の吐露(とろ)であった。


「申し訳ござりませぬ…」


 景元(かげもと)は自然と謝罪の言葉が口をついて出ていた。


「何ゆえ、景元(かげもと)殿が謝られる?」


「いえ、そのとんだご迷惑…、噛み砕いて申せば、とんだとばっちりを受けましたる段…、まことに申し訳なく…」


「景元(かげもと)殿が水野様や鳥居(とりい)めに楯突(たてつ)いたので、景元(かげもと)殿ご本人が大目付に左遷されたのみならず、この景高(かげたか)までがとばっちりを受けたと…、左様に考えておいでなのか?」


 景元(かげもと)はうなずいた。


「されば気に病む必要はござるまい。景元(かげもと)殿はあくまで己の信念に従ったまで…、例え、この景高(かげたか)が景元(かげもと)殿の立場であったとしても恐らく…、いや、間違いなく、景元(かげもと)殿と同様、水野様や鳥居(とりい)めが主導せし改革なるものに楯突(たてつ)いたに相違なく…」


 つまり己も信念に生きる人間だと、景高(かげたか)は示唆(しさ)した。


「景高(かげたか)様からそのように仰(おお)せられますと、この景元(かげもと)も少しは肩の荷がおりると申すものにて…」


「それほどまでにこの景高(かげたか)が浦賀奉行に左遷されたことを気に病んでおられたのか?」


「左様…、この景元(かげもと)のせいでと…」


「ふむ…、それにしても景元(かげもと)殿憎しのあまり、本家筋に当たるこの景高(かげたか)からまず、人事において報復措置に出るとは…、水野様も鳥居めも尋常ではないのう…」


 景高(かげたか)はさらに声量を落とし、隣に座る景元(かげもと)だけに聞こえるようにそう呟(つぶや)いた。景元(かげもと)もまったく同感であった。


「ところで景元(かげもと)殿の前を歩かれていたのは…」


「相役(あいやく)の…」


 景元(かげもと)は直恒(なおつね)らを始めとする、4人の大目付の名を告げた。


「左様であったか…」


 景高(かげたか)はうなずくと、もう思いの丈(たけ)をすべてぶちまけ、納得したのか前を向いた。どうやら話はもう終わりのようであり、景元(かげもと)もそれに倣(なら)って前を向いた。すると遥(はる)か前方で新たに着座する者が景元(かげもと)の視界に入った。やはり景元(かげもと)の見知った顔であった。菊之間(きくのま)を殿中席とする小見川(おみがわ)藩主の内田(うちだ)豊後守(ぶんごのかみ)正道(まさみち)である。

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