第16話

 午後2時になった。芙蓉之間(ふようのま)において、手持ち無沙汰(ぶさた)で待っていた景元(かげもと)ら大目付の元に、儀式を終えた寺社奉行らが戻って来た。そこには景元(かげもと)ら大目付を手持ち無沙汰(ぶさた)にした下手人とも言うべき耀蔵(ようぞう)の姿も勿論あった。耀蔵(ようぞう)は寺社奉行、奏者番(そうじゃばん)、留守居(るすい)に続いて芙蓉之間(ふようのま)に足を踏み入れると、景元(かげもと)を見やった。景元(かげもと)も耀蔵(ようぞう)の視線に気付き、思い切り睨(にら)んだ。すると耀蔵(ようぞう)は景元(かげもと)の睨(にら)みに冷笑で応えた。景元(かげもと)の忍耐も限界に近付きつつあり、思わず立ち上がりかけた。するとそばにいた直恒(なおつね)がそうと察して景元(かげもと)の袖(そで)を引っ張り、景元(かげもと)が立ち上がろうとするのを制した。景元(かげもと)は思わず後ろを振り向き、直恒(なおつね)を見た。


「ここまで蔑(ないがし)ろにされて腹が立たないのか…」


 景元(かげもと)はそう目で尋ねた。すると直恒(なおつね)は悲しげな笑みを浮かべると、頭を振って見せた。他の大目付にしても同様であった。ここまで蔑(ないがし)ろにされて腹が立たないわけがなかった。だがここで今、景元(かげもと)が問題を起こせば景元(かげもと)のみならず、大目付全体の責任となるやも知れなかった。少なくとも忠邦(ただくに)と耀蔵(ようぞう)はそう画策(かくさく)するに違いなかった。景元(かげもと)は無念の思いで立ち上がるのを…、耀蔵(ようぞう)に掴(つか)みかかるのを諦めた。


 南町奉行の耀蔵(ようぞう)、北町奉行の阿部(あべ)正蔵(しょうぞう)に続いて芙蓉之間(ふようのま)に足を踏み入れた公事方勘定奉行の跡部(あとべ)良弼(よしすけ)は景元(かげもと)の存在に気付くと、「おや?」という顔をして近付いて来た。


「これはこれは遠山殿。本日は何ゆえ、儀式に…、白書院にて行われし、恐れ多くも上様と日光門主の遣(つか)いとのご引見(いんけん)の場と、それに御座之間(ござのま)にての、御三家の遣(つか)いの恐れ多くも上様への拝謁の場に姿を見せられなんだ?いや、遠山殿に限らず、大目付のお歴々にも言えることだが…、上様も首をひねっておられたわ…」


 良弼(よしすけ)は景元(かげもと)と向かい合う格好で着座するなり、そう尋ねた。


 やはり上様もご存知なかったのだ…、それどころか無断欠席したと思わせたのだ…、景元(かげもと)はそう確信しながら、良弼(よしすけ)の質問に答えた。


「鳥居(とりい)殿より命じられたのでござるよ」


「鳥居(とりい)殿より?一体、何を命じられたと?」


「ご老中、水野様よりのご命令として、儀式に参加するには及ばぬと…」


「何と…、そはまことかっ!」


「まことでござる。もっとも鳥居(とりい)殿より直に命じられしはこの遠山にあらずして、この芙蓉之間(ふようのま)に先着せし岡村殿を始めとする他の相役(あいやく)のお歴々でござるが…」


 景元(かげもと)はそう言うと、直恒(なおつね)らの方を見た。それに対して、景元(かげもと)と良弼(よしすけ)のやり取りを耳にしていた直恒(なおつね)らはうなずいた。


「何と…、許せませぬな…」


 良弼(よしすけ)は我が事のように怒って見せた。無論、改革への「抵抗勢力」、すなわち、


「反・水野派」


 に向けてのパフォーマンスの一つに過ぎなかったのだろうが、それでも今の景元(かげもと)には、いや他の大目付の面々にしてもそれだけでも…、良弼(よしすけ)が怒ってくれるだけで少しは気が晴れた。


 良弼(よしすけ)も耀蔵(ようぞう)の方を見た。耀蔵(ようぞう)は先ほどの景元(かげもと)の時とは違い、忠邦(ただくに)の実弟である良弼(よしすけ)に対しては冷笑を浮かべるわけにもゆかず、思わず目をそらした。


「このこと、直ちに上様にお知らせをいたしましょうぞ」


 良弼(よしすけ)は再び、景元(かげもと)の方を見やると、そう提案した。だがその提案に対して景元(かげもと)は頭を振った。


「いや…、上様への告げ口は控えられた方が宜(よろ)しかろう…」


「何ゆえでござるか?」


「左様なことをいたさば、水野様までが責(せめ)を問われるやも知れぬからでござるよ…、恐らくは此度(こたび)の仕業(しわざ)は鳥居(とりい)めが発案せしことで、水野様はそれに引きずられたに過ぎ申さず。なれど上様がそのことを…、水野様の命令により我ら大目付が儀式に欠席したとあらば、鳥居(とりい)めは無論のこと、水野様まで責(せめ)を問われるやも知れず…」


 景元(かげもと)は水野様、こと忠邦(ただくに)の実弟である良弼(よしすけ)に気遣ってそう答えたのである。


「なれどこのままでは、遠山殿を始めとする大目付のお歴々は儀式に無断欠席いたしたと、上様は左様に誤解されるやも知れず…」


 確かにそれは頭の痛いところであった。これで大目付が景元(かげもと)一人ならばそれでも良かったのだが、景元(かげもと)には直恒(なおつね)ら相役(あいやく)…、同僚がいた。景元(かげもと)は直恒(なおつね)らを見やった。すると直恒(なおつね)らは皆、「それでも構わぬ」と言わんばかりにうなずいてみせたので、景元(かげもと)は拝むように頭を下げると、良弼(よしすけ)の方を見返し、


「一向に構わぬ」


 と答えた。ここで忠邦(ただくに)の実弟である良弼(よしすけ)に一点、貸しを作っておくのも悪くない…、咄嗟(とっさ)の判断によるものであり、景元(かげもと)のその判断を直恒(なおつね)らも支持した。


「かたじけない」


 良弼(よしすけ)は頭を下げると、


「愚かな兄に代わり、この通り、謝り申す」


 何と景元(かげもと)ら大目付に平伏(へいふく)までしてみせたのだ。これには景元(かげもと)らも予想だにしておらず、正に、


「度肝を抜かれた…」


 思いであり、他の者…、寺社奉行らの目もあることゆえ、景元(かげもと)は慌てて良弼(よしすけ)に頭を上げさせた。事実、寺社奉行らも一体、何事かと、良弼(よしすけ)が景元(かげもと)ら大目付に対して平伏(へいふく)している様(さま)に視線を注ぎ、それゆえ景元(かげもと)は慌てて良弼(よしすけ)の頭を上げさせたのであった。


「この遠山…、それに相役(あいやく)も皆、気にしてはおりませぬゆえ…」


 景元(かげもと)は直恒(なおつね)らを見やりつつ、良弼(よしすけ)にそう声をかけた。直恒(なおつね)らにしても、その通りだと言わんばかりにうなずいた。


「かたじけない」


 良弼(よしすけ)は再び、頭を下げた。但し、会釈(えしゃく)程度であった。


「それに第一、跡部(あとべ)殿が謝られることではあるまいて…」


 それは景元(かげもと)の本音であった。耀蔵(ようぞう)と忠邦(ただくに)、とりわけ忠義面して、己ら大目付を蔑(ないがし)ろにしようと言い立てた耀蔵(ようぞう)が謝るべきであったからだ。


 だが耀蔵(ようぞう)が謝ることは勿論なく、無論、反省することもなく、さらなる「遠山いじめ」を…、それは即(すなわ)ち、「大目付いじめ」に他ならないのだが…、やらかしたのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る