第12話

 今月は幸いにも南が月番であった。尤(もっと)も北が月番でないからといって、それで北町奉行所がお休みというわけではなく、民事事件の処理は受け付けないというだけであり、それゆえ刑事事件については相変わらず処理しなければならず、例えば外役である定町廻同心なども勿論、江戸市中を廻って、目を光らせていた。


 だがそれでもこれ以上、民事事件が増えないだけでも今の景元(かげもと)にしてみればありがたかった。景元(かげもと)は公用人の高橋(たかはし)祐右衛門(ゆうえもん)と赤間(あかま)丈右衛門(じょうえもん)、高林(たかばやし)忠太夫(ちゅうだゆう)、それに目安方の高橋(たかはし)貢助(こうすけ)と浅野(あさの)従兵衛(じゅうべえ)と、玄関取次の山本(やまもと)兵輔(ひょうすけ)と小林(こばやし)孝兵衛(こうべえ)、懸川(かけがわ)喜藤太(きとうた)の8人を呼び寄せた。彼ら8人は皆、内与力(うちよりき)であった。内与力(うちよりき)とは奉行の家臣のことであり、彼ら8人は皆、景元(かげもと)の家臣であったのだ。それゆえ、景元(かげもと)が北町奉行所を去る折には、彼ら8人の内与力(うちよりき)も一緒に、であった。


 景元(かげもと)は奉行たる己の執務室に彼ら8人を呼び寄せると、大目付への異動が決まったので後任に引継(ひきつぎ)をしなければならないので、その引継(ひきつぎ)のための判例の整理を手伝ってくれるようにと命じた。


 すると8人の内与力(うちよりき)、もとい家臣は皆、えも言われぬ表情をした。遂にその日が来たか…、そんな思いからであった。主(あるじ)の景元(かげもと)が常々、忠邦(ただくに)の推し進める「改革」に面従(めんじゅう)腹背(ふくはい)の態度を取り続け、ささやかな抵抗をしていたことは彼らも家臣として勿論、承知していた。だから大目付に「栄転」…、実際には体(てい)の良い厄介(やっかい)払(ばら)いをされたのだと聞かされても、彼ら家臣はそれほど驚きはなかったものの、それでもやはり胸に込(こ)み上げてくるものがあった。


「さぁ、時間がないぞ。急げ」


 景元(かげもと)は努(つと)めて明るく振舞(ふるま)うと、引継業務…、判例の整理に取りかかった。8人の家臣、もとい内与力(うちよりき)もそんな主(あるじ)の姿を目(ま)の当たりにして、判例の整理を手伝うべく取りかかった。


 そうしてそれから2時間近くが経過した午後4時過ぎ、景元(かげもと)は判例の整理を中断した。午後4時過ぎにはそろそろ外役の同心が市中見廻りを終えて奉行所に帰って来る頃であり、同時に宿直の与力や同心らが奉行所に出勤して来る頃でもあり、つまりは全員が揃(そろ)う時間帯であり、景元(かげもと)はその時間帯を利用っして彼ら全員の与力、同心に対しても己が大目付へ異動になるので北町奉行でいられるのもあと僅(わず)かであることを伝えるべく、判例の整理を中断したのであった。景元(かげもと)は内与力(うちよりき)…、家臣らに対しても中断して少し休むようにと命じたのだが、8人の家臣は皆、休むことなく続けると申し出てくれたので、景元(かげもと)は家臣らに感謝した。


 さて一方、与力と同心らは奉行の景元(かげもと)より大事な話があるからと、そう告げられて全員招集がかかったことに緊張していた。一体、何が告げられるのかと、皆、緊張して景元(かげもと)を出迎えた。景元(かげもと)はそんな、緊張に包まれた与力や同心らに対しても、やはり己が大目付に異動になるので北町奉行でいられるのも残り僅(わず)かであることを伝えた。すると彼ら与力や同心は皆、ガッカリした。それは演技ではなく、本心からのものであった。


 景元(かげもと)の家臣である内与力(うちよりき)とは違い、彼ら与力や同心は皆、町奉行所に所属していた。つまり奉行の景元(かげもと)とは直接の雇用関係はなく、それゆえ町奉行は町奉行所に所属する与力や同心らと心を通わせることなくその任期を終えるのが一般的であった。


 だが景元(かげもと)は町奉行所に所属する与力や同心らとも心を通わせるべく、常日頃から自腹で食事を振舞(ふるま)うなどして、与力や同心らのハートを掴(つか)むことに腐心(ふしん)しており、この辺りは長谷川平蔵を髣髴(ほうふつ)とさせるものがあった。


 尤(もっと)もそれには金が必要であり、景元(かげもと)自身は知行(ちぎょう)僅(わず)か500石の小禄の旗本に過ぎず、本来ならそんな金はない筈(はず)であったが、江戸町奉行ともなると、江戸の豪商からの付け届けも何かと多く、それが原資となっていた。景元(かげもと)は基本的に付け届けを求めることはしないものの、向こうから付け届けを持って来たら受け取ることにしていた。無論、付け届けを受け取ったからと言って、法を枉(ま)げてまで有利に取り計らうようなことは一度たりともしなかった。つまり付け届けと言っても挨拶程度のものである。それでもそれら挨拶程度の付け届けも重なると結構な額となり、与力や同心らに食事を振舞(ふるま)えるだけの額に相当する。奉行たる己の元に届けられたそれら付け届けを私(わたくし)することなく、与力や同心らに食事を振舞(ふるま)うための原資として、すべてそのまま充当すれば、与力や同心らの士気も高まり、擬似主従関係とでも言ったものも生まれるに違いない…、そんな景元(かげもと)なりの読みからであり、その読みは見事に当たり、北の与力や同心はまるで、遠山家の家来のようだと、専(もっぱ)らの評判であった。


 その主(あるじ)と慕(した)う景元(かげもと)がもうすぐいなくなる、となれば与力や同心らがガッカリするのも当然であった。


「それで後任のお奉行は一体、どなた様で?」


 年番与力の東條(とうじょう)八太夫(はちだゆう)が尋ねた。年番与力とは奉行所内にて庶務や経理を掌(つかさど)る内勤のポストであり、わけても八太夫(はちだゆう)は景元(かげもと)が最も目をかけていた与力である。


「されば大坂町奉行の阿部(あべ)遠江守(とおとうみのかみ)正蔵(しょうぞう)殿だ」


「阿部様…」


「左様」


 順当な人事か…、誰もがそう顔に書いてあった。


「されば残り僅(わず)かだが、宜(よろ)しく頼む」


 景元(かげもと)がそう言うと、「ははぁっ」という声が与力や同心らから一斉に返ってきた。景元(かげもと)はうなずくと、次(つ)いで、


「それと後任の阿部殿についてだが、阿部殿に対してだが…、わしに仕(つか)えるのと同様の気持ちで仕(つか)えて欲しい」


 そう呼びかけた。だがこちらは何とも反応が悪かったので、景元(かげもと)は「頼む」と念押ししたので、与力や同心らも渋々(しぶしぶ)、「ははぁ」と小さな声を返してきた。裏を返せばそれだけ与力や同心らは奉行の景元(かげもと)のことを慕(した)っていることに他ならず、景元(かげもと)は少しだけ満足したが、己への敬愛が深い分、後任の阿部(あべ)正蔵(しょうぞう)に対しては与力や同心らが敬愛の情を生じさせず、阿部(あべ)正蔵(しょうぞう)に迷惑をかけるようなことがあってはなるまいと、景元(かげもと)は念押ししたのであった。


 そうして阿部(あべ)正蔵(しょうぞう)が後任の北町奉行として着任するまでの間、景元(かげもと)は家臣である8人の内与力(うちよりき)の手を借りながら判例の整理に勤(いそ)しんだ。この間、何も事件は起こらずに大過(たいか)なく時が過ぎた。これでもし何か重大事件でも起これば、


「もしかしたら北町奉行としての任期が延びるやも…」


 景元(かげもと)は不謹慎であるのは承知の上でそんなことを思ったりもしたのだが、幸いにも…、あるいは生憎(あいにく)、何も重大事件は起こらず、遂に「その日」を迎えたのであった。


 午前10時頃、江戸城に登城した景元(かげもと)と正蔵(しょうぞう)は表向(おもてむき)の黒書院において将軍・家慶(いえよし)出座の下、正式に奉行職を交代した。家慶(いえよし)は景元(かげもと)に対しては、


「初鹿野(はじかの)備後守(びんごのかみ)跡(あと)の大目付に云(い)い付ける」


 そう命じ、その後で正蔵(しょうぞう)に対しては、


「遠山(とおやま)左衛門尉(さえもんのじょう)跡(あと)の北町奉行に云(い)い付ける」


 そう命じると、平伏(へいふく)している景元(かげもと)と正蔵(しょうぞう)に対して、


「両名共に、相役(あいやく)と示談(じだん)して念を入れて勤(つと)めい」


 そう命じると黒書院を後にした。さすがに今回は正蔵(しょうぞう)の手前もあり…、正蔵(しょうぞう)にまで特別扱いをするつもりは家慶(いえよし)にはさらさらなかったので、そっけない態度であった。いや、それこそが普通であるのだ。


 正蔵(しょうぞう)と共に黒書院を後にした景元(かげもと)は新任の大目付として、先輩である大目付に挨拶(あいさつ)を済ませると、正蔵(しょうぞう)と共に下城(げじょう)し、呉服橋御門内にある北町奉行所へと向かった。引継をするためである。景元(かげもと)は内与力(うちよりき)の手を借りて作成した判例集の束(たば)を正蔵(しょうぞう)に引き渡した上で、奉行としての心構え…、何に気をつけるべきかなどについて詳しくレクチャーした。正蔵(しょうぞう)もそんな景元(かげもと)のレクチャーを素直にうなずいていた。


 そうしてすべての引継を終えた景元(かげもと)は8人の内与力(うちよりき)、いや、既にただの遠山家の家臣に戻った8人を引き連れて北町奉行所を後にした。


 ふと、景元(かげもと)は立ち止まると奉行所の方を振り返った。女々(めめ)しいのは分かっていたが、それでもそうせずにはいられなかった。すると奉行所の門前には固く閉じられた門を背にして、内勤の与力と同心が勢揃いしていた。どうやら己の見送りのために内勤の与力と同心は全員総出で見送りに立っていた…、彼ら与力や同心らの「餞(はなむけ)」に景元(かげもと)は込(こ)み上げてくるものがあり、それでもそれを必死に抑えると、


「早く戻れっ、阿部殿に迷惑をかけるなっ!」


 餞(はなむけ)の返礼代わりにそう怒鳴ると踵(きびす)を返して歩き始めた。それと同時に、それまで抑えていたものが一気に噴出(ふきだ)した。


 景元(かげもと)は未だに見送りに立っていたに違いない与力や同心らに対して、そして北町奉行所に対して高々と右腕を上げてみせた。


「さらば北町奉行所」


 景元(かげもと)は顔をクシャクシャにさせながら心の中でそう叫(さけ)んだ。

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