第13話

 翌朝、景元(かげもと)は町奉行時代に培(つちか)われた習慣から午前5時頃に目覚めてしまった。町奉行時代には午前5時頃に起きて仕事にとりかかり、午前9時半頃には供侍(ともざむらい)らを引き連れて、呉服橋御門内にある北町奉行所を出発し、そして午前10時までに江戸城に登城、老中や寺社奉行、勘定奉行などと打ち合わせをし、午後2時頃に下城、再び奉行所に戻ると午後4時頃まで仕事をした後で少し早めの夕食を摂(と)るべく休憩し、そして夕食後には再び仕事を再開し、午前0時頃まで仕事をする。但しこれは月番の場合であり、月番でない場合は江戸城へは老中の「廻り」が始まる昼までに登城すれば良かった。尤(もっと)も仕事量が減るわけではなく、やはり午前5時起き、深夜0時睡眠という生活は変わらず、毎日平均して5時間しか睡眠が取れなかった。


 だが今日からはもう、奉行ではないのだと、景元(かげもと)はそう気付くと再び、床に入った。


 景元(かげもと)が次に目覚めたのは午前8時過ぎであった。景元(かげもと)としてはついうとうとして、30分程度の睡眠を取った感覚であったが、実際には3時間以上、経過していたのだ。


 大目付が如何(いか)に閑職(かんしょく)とは言え、老中が登城する午前10時前までには御城に着いていなければならない。景元(かげもと)は起き出すと、まるでそれを見計らっていたかのように妻女のけいが着替えを持って姿を見せた。


「さぁ、お支度(したく)を…」


 けいはそう言うと、景元(かげもと)が身支度(みじたく)を手伝った。一方、景元(かげもと)は妻女のけいに身支度(みじたく)を手伝ってもらえるのは、


「何年ぶりだろうか…」


 けいに身支度(みじたく)を手伝ってもライながらふと、そんなことを思ったりした。町奉行時代は嫡男(ちゃくなん)…、倅(せがれ)の国太郎(くにたろう)…、今は金四郎(きんしろう)であるが、どうにもこの呼び名は嫌なので国太郎(くにたろう)と幼名で呼んでいた…、その国太郎(くにたろう)に身支度(みじたく)を手伝わせて来た。それと言うのも、景元(かげもと)は北町奉行時代は呉服橋御門内にある北町奉行所において、倅(せがれ)の国太郎(くにたろう)と同居していたのだ。


 無論、奉行にも世話をする家臣や女中はいたものの、彼ら家臣や女中が出勤してくるのは午前8時頃であり、午前5時頃には起きて仕事に取りかかる必要があった景元(かげもと)としては家臣や女中の到着を待ってはいられず、そこで同居していた倅(せがれ)の国太郎(くにたろう)に朝の身支度(みじたく)を手伝わせてきたのだ。勿論、景元(かげもと)が倅(せがれ)・国太郎(くにたろう)の手を借りて身支度(みじたく)を終えると、今度は景元(かげもと)が国太郎(くにたろう)の身支度(みじたく)を手伝ってやった。


 妻女のけいの手を借りて身支度(みじたく)を終えた景元(かげもと)はけいの案内により朝飯の用意がしてある座敷へと向かった。そこでは女中が景元(かげもと)とけいの到着を待ち受けており、景元(かげもと)とけいが姿を見せると、女中はそれこそ、


「三つ指を突(つ)いて…」


 主(あるじ)の景元(かげもと)と妻女のけいを出迎えた。


 景元(かげもと)が上座につき、けいがその隣に着座すると、女中らは頭を上げ、景元(かげもと)とけいのために給仕(きゅうじ)をした。


 女中はまず、熱々の味噌汁を朱塗りの椀によそうと、けいに手渡し、そしてけいの手を通して景元(かげもと)は味噌汁の椀を受け取った。


「ほう…、今日は豆腐とネギの味噌汁か…」


「はい。殿の大好物でござりまする」


 確かにけいの言う通り、景元(かげもと)は豆腐とネギの味噌汁が大好物であった。但しこの時代、豆腐は高級品であった。遠山家は贅沢を出来るだけの余裕があるわけではなかったものの、食事ぐらいは多めに見ていた。


 景元(かげもと)が主(あるじ)を務める遠山家の知行(ちぎょう)は500石に過ぎなかったが、大目付も町奉行と同様、足高(たしだか)3000石の役職であり、それゆえその在職中は3000石からその遠山家の知行(ちぎょう)である500石を差し引いた2500石が支給されるのだ。しかも知行(ちぎょう)取りではなく、蔵米(くらまい)取りというのがポイントであった。どういうことかと言うと、今の遠山家の知行(ちぎょう)が500石というのは知行地(ちぎょうち)から収穫される米が500石という意味である。但し、当たり前の話だが百姓が丹精した500石もの米を領主たる遠山家がまるまる頂戴するわけではない。そんなことをしたら生産者である百姓が飢え死にしてしまう。領主たる遠山家が頂戴出来るのは4割であり、残る6割が生産者である百姓の取り分であった。つまり遠山家の場合で言うと、4割に当たる200石がその取り分であった。


 だが蔵米(くらまい)取りの場合はまるまるその分の米を頂戴することが出来るのである。つまり、足高(たしだか)分の2500石をまるまる懐に入れることが出来るのである。尤(もっと)も、現物支給、つまり米を支給されるわけではなく、米切手で支給され、その米切手を浅草蔵前にある札差の元へと持ち込んで、幕府より支給されたその米切手を金に替(か)えるのである。景元(かげもと)の場合だと2500石分の米切手が支給されるのである。


 ともかく遠山家の収入は2700石ということになる。200石から考えれば随分と多いように思われるかも知れない。確かに収入は増えたが、収入に見合うだけの奉公人の数など増やす必要に迫られた。2700石に相応(ふさわ)しい家格を維持するためである。これもまた当たり前の話だが、遠山家の収入である2700石がそっくりそのまま景元(かげもと)の懐に入るわけではない。そこからまた、奉公人の給与などを支払わなければならず、結果、景元(かげもと)個人の手元に残るのは1割、つまり270石に過ぎなかった。しかもそこから衣装代など必要な経費を賄(まかな)わなければならず、本当に景元(かげもと)が自由に使える金は微々(びび)たるものに過ぎず、それゆえ、町奉行時代に与力や同心らの食事代を江戸の豪商などの付け届けに頼ったのもそういう事情からであった。


 それゆえ収入が増えたからと言って、贅沢が出来るわけではないのだが、食事ぐらいは多めに見様と、景元(かげもと)はそう思った。


 味噌汁(みそしる)をある程度、啜(すす)って舌を湿(しめ)らせると、今度はご飯の入った茶碗を受け取った。景元(かげもと)は朝飯の給仕(きゅうじ)を受けながら、不意に嫡男の国太郎(くにたろう)のことを思い出した。国太郎(くにたろう)はまだ家督相続前ではあるものの、本城において御髪(おぐし)番の小納戸(こなんど)を務めていた。小納戸(こなんど)とは中奥(なかおく)…、将軍の居所に勤める役人のことであり、将軍の身の回りの世話をするのがその仕事であった。小納戸(こなんど)とは御側御用取次の支配下にある、小納戸(こなんど)頭取(とうどり)衆のそのまた支配下にあった。そして国太郎(くにたろう)が務めていた御髪(おぐし)番の小納戸(こなんど)とは将軍が朝飯を食っている最中に将軍の髪を結う係であり、景元(かげもと)は朝飯から連想して国太郎(くにたろう)のことを思い出したのであった。


「ところで国太郎(くにたろう)はもう、御城か…」


 国太郎(くにたろう)の姿が見えなかったので、思い出したように呟(つぶや)いた。


「ええ。あの子は何と申しましても、恐れ多くも上様の御髪(おぐし)番にて…」


 上様、こと将軍の朝飯の時刻は朝五つ、つまり午前8時頃であり、ちょうど今時分であった。将軍の朝飯の最中に髪を結う国太郎(くにたろう)がいる筈(はず)がなかったのである。


「そうだな…」


 国太郎(くにたろう)は今でこそ、この愛宕下(あたごした)にある実家…、屋敷から御城通いをしていたものの、父である景元(かげもと)が北町奉行在職中は父・景元(かげもと)に倣(なら)って、この実家である屋敷を出て、呉服橋御門内にある北町奉行所内にて父・景元(かげもと)と共に二人暮らしをしていたのだ。それが国太郎(くにたろう)は父・景元(かげもと)が大目付に異動となることを知るや、まだ父、景元(かげもと)の奉行としての任期が残っているうちに自分の荷物をまとめてさっさと奉行所を後にすると、この愛宕下(あたごした)にある実家の屋敷へと戻ったのである。どうやら母恋しさからであったらしい。父、景元(かげもと)が北町奉行に就任し、呉服橋御門内にある奉行所へと引き移ったのに倣(なら)って父、景元(かげもと)と共に呉服橋御門内にある奉行所内で暮らすことにしたのは国太郎(くにたろう)の判断によるものであるが、それは半ば、強制されたも同然であった。国太郎(くにたろう)の直属の上司に当たる小納戸(こなんど)頭取(とうどり)衆の一人、永井(ながい)佐渡守(さどのかみ)直義(なおよし)から、


「お父上が北町奉行として、呉服橋御門内に移られるのだから、お前も実家を出て、父上と暮らしてはどうだ?」


 そうすすめられたからだ。永井(ながい)直義(なおよし)としては親切心からであった。実は永井家というのは遠山家とは縁続きであり、それで直義(なおよし)も常日頃から遠山家の嫡男である国太郎(くにたろう)のことを何かと目をかけてくれていたのだ。尤(もっと)も、マザコンの気がある国太郎(くにたろう)にしてみれば余計なお世話以外の何ものでもなかったが、常日頃から何かと目をかけてくれる直義(なおよし)の言葉とあらば無視するわけにもゆかず、そのため国太郎(くにたろう)は泣く泣く実家を出て、父・景元(かげもと)と共に呉服橋御門内にある北町奉行所にて暮らすようになったのだ。直義(ただよし)としてはまだ家督相続前とは言え、小納戸(こなんど)として蔵米(くらまい)を300俵受け取っている大の男…、小納戸(こなんど)の足高(たしだか)は500石であったが、家督相続前の者は足高(たしだか)の対象外であり、その代わり蔵米(くらまい)…、基本(きほん)切米(きりまい)を300俵受け取っていた…、その大の男が実家暮らしとは見苦しい、という思いもあったろう。が、それ以上に、


「父独りで奉行所暮らしをさせるのは可哀想(かわいそう)だ…」


 との思いがあって、国太郎(くにたろう)にそうすすめたのであった。そのおかげで景元(かげもと)は妻女のけいと離れ離れに暮らすようになってからも、大事な我が子である国太郎(くにたろう)と暮らすことが出来たので、少しは「単身赴任」の寂(さび)しさを紛(まぎ)らわすことが出来た。一方、国太郎(くにたろう)も父・景元(かげもと)と暮らすようになってからというもの、それまでは何かにつけ、母にばかり甘えて父を蔑(ないがし)ろにする風情があったが、それが父と暮らすようになってからというもの、父にも心を開くようになり、それなりに父子の間で情が交わせたとの自負(じふ)が景元(かげもと)にはあった。それなのに、大目付への異動が決まり、北町奉行所を出て実家へと戻らねばならぬと、国太郎(くにたろう)はそうと知るや、さっさと自分の荷物をまとめると、父を待たずにこの愛宕下(あたごした)にある実家の屋敷に単身、戻って行ったのだ。やはり倅(せがれ)は父よりも母の方が良いものなのかと、これにはさすがの景元(かげもと)もさすがにがっかりしたものであるが、その代わりと言うわけでもなかったが、与力や同心らが皆、奉行たる己との別れを惜(お)しんでくれたので、景元(かげもと)はそれで良しとした。


 景元(かげもと)としてはもう国太郎(くにたろう)などどうでも良い、そういう思いも一時(いっとき)はあったのだが…、いや、今でも心の奥底にはそんな気持ちがあるのだろうが、こうして、


「同じ屋根の下で…」


 妻女のけいと共に、倅(せがれ)の国太郎(くにたろう)とも暮らしていると、倅(せがれ)のことが気にかかってしまうのだ。親馬鹿であるのは承知の上であった。

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