第11話

 午後2時頃に御城を下がった景元(かげもと)は下馬所にて待たせてあった供侍(ともざむらい)らを引き連れて呉服橋御門内になる北町奉行所へと戻った。


 天保11年に今の北町奉行職を拝命してから早3年、この呉服橋御門内にある北町奉行所が景元(かげもと)の職場兼住居であった。勿論、景元(かげもと)も旗本である以上、拝領屋敷があり、露月(ろうげつ)町の西側に位置する愛宕下(あたごした)の神保(じんぼう)小路にある屋敷がそれであり、北町奉行職を拝命してからこの方、愛宕下(あたごした)の屋敷に帰ったことは滅多になく、それこそ指折り数えるほどしかなかった。その間、愛宕下(あたごした)の屋敷は主(あるじ)の景元(かげもと)に代わって妻女のけいが守っていた。つまりこの3年間、景元(かげもと)はロクに妻女のけいと顔を合わせる機会がなかったということである。


 だがそんな生活からも漸(ようや)く解放されることになる。大目付への異動に伴(ともな)い、己の後任である阿部(あべ)遠江守(とおとうみのかみ)正蔵(しょうぞう)にこの北町奉行所を明け渡すことになる。そして景元(かげもと)自身は漸(ようや)く、愛宕下(あたごした)にある屋敷に帰れるのだ。これからは…、大目付として、己の屋敷から登下城することになるのだ。


「左遷も悪くはないな…」


 景元(かげもと)は負け惜しみではなく、本気でそう思った。妻と会えない生活に苦痛を感じていたからということもあるが、それ以上に町奉行職は激務であった。それを身をもって知ったのは町奉行になってからである。それまでは…、念願の町奉行になるまでは景元(かげもと)は、


「町奉行は快刀(かいとう)乱麻(らんま)の如(ごと)く事件を解決し、時にはお忍びで江戸市中を徘徊(はいかい)し、そして単身、敵地に乗り込み、弱きを助け強きを挫(くじ)く…」


 そんなヒーロー像を想像していたのだが、いざ町奉行になるやどうやらそれが虚像であったことに気付かされた。


 なるほど、確かに刑事、民事の裁判においては快刀(かいとう)乱麻(らんま)とまでは言わずとも、それなりに事件を裁いてきたという自負(じふ)があるものの、しかし後の、お忍びで江戸市中を徘徊(はいかい)してみたり、あるいは単身、敵地に乗り込み、弱きを助け強きを挫(くじ)く…、そんな機会に恵まれることは遂ぞなかった。そんな暇などどこにもなかったのである。町奉行としての仕事に常に追われ、自由時間などごく僅(わず)かしかなかった。正確には睡眠時間こそが自由時間であったのだ。貴重な睡眠時間を削(けず)ってまでそんなことを…、江戸市中を徘徊(はいかい)したり、あるいは単身、敵地に乗り込んでいたりしたら、それこそ過労死してしまう。自由時間があれば少しでも眠りたいというのが偽らざる気持ちであり、それだけ町奉行というのは激務であった。それが証拠に景元(かげもと)はこの3年の間に髷(まげ)に随分と白いものが増えた。


 だがそんな激務からも漸(ようや)く解放されるのだ。大目付への異動は左遷に他ならず、確かに、気落ちしている部分もあるが、反面、ホッとしている部分もあった。


 いや、正式に後任の阿部(あべ)正蔵(しょうぞう)に北町奉行職をバトンタッチする来月、3月の朔日(さくじつ)まではまだ激務が景元(かげもと)を待ち受けていた。それも今まで以上の激務である。


 それはズバリ、引継業務であった。景元(かげもと)はこの3年の間に北町奉行として多くの刑事、民事の事件を裁いてきた。その判例をきちんと整理して、後任の阿部(あべ)正蔵(しょうぞう)に引き継ぐ必要があったのだ。例えば刑事事件ならば、景元(かげもと)は北町奉行として被告人にどのような裁きを下し、それに対する評定所の結論はどうであったか、などということである。一例を挙げるならば、かつて景元(かげもと)はある女盗賊に遠島の裁きを下したことがあった。男ならば死罪は免れないところ、女ということで刑の軽減を図ったのであるが、しかし、これは結局、評定所において覆(くつがえ)され、女は死罪に処せられた…、こういったこともきちんと書類に書き留めて後任たる阿部(あべ)正蔵(しょうぞう)に伝えなければならないのだ。ちなみに巷間(こうかん)、遠島以下の刑については奉行の手限(てぎり)で仕置(しおき)出来ると言われているが、しかしそれは奉行が勝手に仕置(しおき)出来ることとイコールではなかった。必ず評定所の審査を経なければならないのだ。それゆえ、景元(かげもと)が被告人に対して軽追放の裁きを下した際にそれが評定所で覆(くつがえ)されて遠島になったというケースもあった。


 ともかくこういったことをきちんと事件ごとに整理して…、殺しならば殺し、押し込み強盗なら押し込み強盗といった具合に整理して書き留める必要があった。いや、これは刑事に限った話であり、民事事件も合わせて整理する必要があった。後任の阿部(あべ)正蔵(しょうぞう)がこの北町奉行に着任する今月2月の晦日(みそか)、30日の前日である29日までにそれら判例の整理を終えねばならず、今日、2月24日を含めて、29日まで6日間しかなかった。いや、28日は月次(つきなみ)御礼(おんれい)の登城日であるので、その日は殆(ほとんど)仕事が出来ず、事実上、5日間でを終えねばならなかった。無論、判例の整理…、引継業務は義務ではなかった。それゆえ中には引継業務を一切せずに、正に、


「立つ鳥(とり)跡(あと)を濁(にご)す…」


 格好で町奉行職を去る者もいた。町奉行ではないものの、かの有名な火附盗賊改方として様々な難事件をそれこそ正に、「快刀(かいとう)乱麻(らんま)の如(ごと)く…」解決に導き、江戸の庶民から絶大なる人気を誇った長谷川平蔵がそうであった。平蔵は悪を断ちながらも、その反面、人を許す、そういったスタンスで、江戸の庶民からは絶大に支持されていた。自腹で貧民のために炊き出しなども行っていたので尚更(なおさら)であろう。だが惜しむらくは、火附盗賊改方の職を去る際に、後任の森山(もりやま)源五郎(げんごろう)に引継業務を一切せずにその職を去ったので後任の森山(もりやま)源五郎(げんごろう)は大迷惑を蒙(こうむ)ることになった。平蔵は判例といった必要な書類を一切書き残していなかったのだ。それゆえ源五郎が一からそれら判例を作らねばならなかったのだ。平蔵がきちんと判例を整理していれば源五郎もこんな苦労を味わうことがなかったにもかかわらず、である。平蔵は豪放(ごうほう)磊落(らいらく)でありながら、庶民の目線も忘れなかった稀有(けう)な人物であったが、反面、野放図(のほうず)であった。


 景元(かげもと)としてはそんな苦労を後任の阿部(あべ)正蔵(しょうぞう)にかけたくはなかった。第一、そんな苦労をかけようものなら、


「遠山は大目付に左遷されたのを根に持って、あえて後任の阿部(あべ)正蔵(しょうぞう)に迷惑をかけてやれとばかり、一切の引継業務をしなかったのだ…」


 そんな噂が立てられるに違いないからだ。実際、平蔵が源五郎に一切の引継業務をすることなく、火附盗賊改方の職を去った時もこの手の噂が江戸城内を駆け巡ったことがある。どういうことかと言うと、


「平蔵は遂に町奉行になれず、その上、両番(りょうばん)家筋(いえすじ)の己の後任に何と、大番(おおばん)家筋(いえすじ)の源五郎が就(つ)くということも相俟(あいま)って、それらを根に持ち、あえて源五郎に迷惑をかけてやれて、それで引継業務をせずに源五郎に迷惑をかけたのだ…」


 という不名誉な噂であり、多分に少しは真実でもあったろう。


 この両番(りょうばん)家筋(いえすじ)とはキャリア官僚、大番(おおばん)家筋(いえすじ)とはノンキャリア官僚といったところである。両番(りょうばん)家筋(いえすじ)に生まれた者は両番(りょうばん)、即(すなわ)ち、書院番と小姓組番の両番のどちらかに番入り、即(すなわ)ち、就職出来るのに対して、大番(おおばん)家筋(いえすじ)に生まれた者は大番(おおばん)に番入り、即(すなわ)ち、就職するしかなかった。そして出世のスピードという点においては両番(りょうばん)家筋(いえすじ)の方が遥(はる)かに早く、旗本の垂涎(すいぜん)のポストとも言うべき、従五位下(じゅごいのげ)に相当する諸太夫(しょだいぶ)役はその殆(ほとん)どが両番(りょうばん)家筋(いえすじ)出身の者で占められており、景元(かげもと)もまた、両番(りょうばん)家筋(いえすじ)出身であった。


 平蔵は両番(りょうばん)家筋(いえすじ)であり、尚(なお)且(か)つ有能でもあったために、本来ならば諸太夫(しょだいぶ)役、それも諸太夫(しょだいぶ)役中の諸太夫(しょだいぶ)役とも言うべき、江戸町奉行や、あるいは長崎奉行、京都町奉行や大坂町奉行に就(つ)いてもおかしくはなく、実際、それら奉行職が死去や転任などにより空席が出来る度(たび)にその後任として平蔵の声がかかったものの、ついぞ平蔵がそれらのポストに座ることはなかった。それは当時、老中であった松平定信が平蔵のことをいたく嫌っていたからだ。無論、火附盗賊改方としての平蔵の仕事ぶりについては認めていたものの、その人物についてはまったく認めていなかった。それゆえ定信がわざわざ平蔵の後任に大番(おおばん)家筋(いえすじ)出身の源五郎を据(す)えたのも、多分に平蔵に対する嫌がらせも含まれていた。平蔵は両番(りょうばん)家筋(いえすじ)出身であり、尚(なお)且(か)つ、有能でありながら、ついぞ従五位下(じゅごいのげ)に相当する諸太夫(しょだいぶ)役にはなれずに、先手頭(さきてがしら)という従六位(じゅろくい)に相当する布衣(ほい)役として、火附盗賊改方というポストを兼任してその役人人生を終え、その後任の火附盗賊改方のポストに平蔵とは違って、本来、出世には恵まれない筈(はず)の大番(おおばん)家筋(いえすじ)出身の森山源五郎が己と同じく従六位(じゅろくい)相当のその先手頭(さきてがしら)として火附盗賊改方を兼任することになった、平蔵の気持ちはいかばかりであったろうか…、容易に想像がつくというものである。恐らくは己の来(こ)し方に泥を塗(ぬ)られた…、そんな気持ちに囚(とら)われたに違いなく、それが嵩(こう)じて源五郎への引継拒否となって表れたのやも知れぬ。


 そして景元(かげもと)も平蔵の立場と似ていた。景元(かげもと)にしても老中の忠邦(ただくに)の陰謀によりその職を追われることになるのだ。だから後任の阿部(あべ)正蔵(しょうぞう)に迷惑をかてやれとの気持ちが一分(いちぶ)もない…、わけではなかった。それは嘘である。景元(かげもと)とて人間である。人並みにどす黒い感情を持っていた。だが、景元(かげもと)は平蔵とは違い、良識を上回らせて、阿部(あべ)正蔵(しょうぞう)が着任初日から仕事がしやすいようにと引継業務に汗を流すことにした。

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