第10話

「いやぁ、それにしてもとんだ災難でござりましたなぁ…」


 景元(かげもと)は良弼(よしすけ)と向かい合うなり、良弼(よしすけ)からそう声をかけられた。


「はっ?」


「大目付への左遷人事のことでござるよ」


 良弼(よしすけ)がズバリ指摘したので、景元(かげもと)もさすがに戸惑った。


「はぁ…」


「恐らくは兄が狐(きつね)めと共謀いたしてのことであろうが…」


 狐(きつね)とは耀蔵(ようぞう)の蔑称(べっしょう)、いや、愛称であった。苗字の鳥居(とりい)にかけたものであった。ちなみに南の鳥居(とりい)が狐(きつね)なら、さしずめ北の遠山(とおやま)は狸(たぬき)だと、呼ばれてもいた。


「それにしても遠山殿ほどの逸材を大目付などの閑職(かんしょく)に棚上げするとは、兄も人を見る目がないと申すか、愚かと申すか…」


「跡部(あとべ)殿…、左様に兄君(あにぎみ)のことを左様に悪(あ)し様(ざま)に申されるのは…」


 景元(かげもと)は内心、ハラハラしながら注意した。景元(かげもと)は良弼(よしすけ)とは違い、忠邦(ただくに)の兄でも何でもなかった。良弼(よしすけ)が実兄・忠邦(ただくに)の悪口を口にしたところで、そしてそのことを誰かに…、耀蔵(ようぞう)や忠職(ただもと)に聞かれたところで、別に痛くも痒(かゆ)くもないだろうが、景元(かげもと)はそうもいかない。良弼(よしすけ)が忠邦(ただくに)の悪口を口にし、それに対して景元(かげもと)も実に嬉しげにうなずいていた…、忠邦(ただくに)にそんな告げ口でもされたらかなわない。いや、耀蔵(ようぞう)や忠職(ただもと)の二人なら、例え景元(かげもと)が実に嬉しげにうなずいてなどいなくとも、必ずやそう捻(ね)じ曲げて伝える筈(はず)であった。だからこそ景元(かげもと)は耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)に悪口が聞こえる前に良弼(よしすけ)の口を封じようとしたのである。


 だが良弼(よしすけ)は構わず続けた。


「愚かかどうかはともかく、人を見る目がないのは事実でござろう?」


「それは…」


「遠山殿ほどの逸材(いつざい)を遠ざけ、あの、狐(きつね)めを側(そば)に置くなど、正に人を見る目がない何よりの証(あかし)でござろう?」


 良弼(よしすけ)の言葉は今の景元(かげもと)には深くうなずけたので、つい我を忘れてうなずきかけた。


「いえ…、それは買い被(かぶ)りと申すものでござろう…」


「まぁ、遠山殿のお立場からすれば当然、そう答えられるであろうな」


 良弼(よしすけ)は微笑を浮かべた。


「まぁ、いずれ、願わくばでござるが、共に仕事が出来る日が来ましょうぞ」


「えっ?」


 景元(かげもと)はてっきり良弼(よしすけ)までが大目付に左遷されると、そう思っているのかと、誤解し、


「跡部(あとべ)殿まで大目付に左遷、などということはありますまい」


 苦笑しながらそう答えた。するとその途端(とたん)、良弼(よしすけ)は噴出(ふきだ)した。


「遠山殿はどうやら誤解しておられるようだ…」


「誤解?」


「左様。大目付としてではなく、町奉行としてでござるよ」


 良弼(よしすけ)はそう言うとニヤリと笑みを浮かべ、一方、景元(かげもと)は目を剝(む)いた。


「それは一体…」


 どういう意味だ…、景元(かげもと)がそう問いかけようとすると、良弼(よしすけ)は周囲…、特に耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)を気にしながら小声となった。どうやら良弼(よしすけ)もさすがに耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)の存在が気になるらしい。


「いずれ…、それも近いうち、兄が推し進める改革は頓挫(とんざ)するに違いなく、それはそのまま兄が失脚することに他ならず…」


「まさか…」


「そう思われるのも無理はないが、確かな筋からの情報でござる」


「確かな筋とは?」


「中奥(なかおく)のさる有力者、と申せばお分かりのことと思うが…」


「御用取次の新見(しんみ)殿でござるな?」


 景元(かげもと)はさらに一段、声量を落として尋ねた。すると良弼(よしすけ)は微笑を浮かべただけであったが、景元(かげもと)にはそれで充分であった。


「して、情報とは如何(いか)なる内容のものにて?」


 景元(かげもと)は先を促(うなが)した。


「されば恐れ多くも上様は兄の進める改革に不信感を持ち始められた由(よし)…」


「不信感?」


「左様」


「信じられませぬな。あれだけ兄君(あにぎみ)…、いえ、ご老中の水野様の推し進められるご改革を支持されていた上様が、その水野様の推し進められるご改革に不信感を思(おぼ)し召(め)しとは…」


 良弼(よしすけ)は景元(かげもと)の疑問には構わず続けた。


「されば矢部殿を無実の罪に陥(おとしい)れし時より、不信感を持ち始められた由(よし)…」


 良弼(よしすけ)がそれを口にしたので、景元(かげもと)の胸には再び、苦いものが込(こ)み上げてきた。それにしても良弼(よしすけ)までが定謙(さだかた)の無実を…、定謙(さだかた)は無実であるにもかかわらず陥(おとしい)れられたのだと、そのことを知っていたことに景元(かげもと)は素直に驚いた。するとそうと察したらしい良弼(よしすけ)は微笑を浮かべ、


「矢部殿はまことは無実にて、兄が狐と榊原(さかきばら)と共謀(きょうぼう)し、陥(おとしい)れたのだというのが専(もっぱ)らの評判にて、恐らくはそれが真実なのでござろう」


 こともなげにそう答えた。景元(かげもと)はそれを聞いて、益々(ますます)、胸に苦いもので充満した。


「どうやら後悔されているようでござるな?」


 良弼(よしうけ)にそう指摘され、景元(かげもと)は思わず、「えっ」と声を上げていた。


「当時、既に北町奉行であられた遠山殿が評定所の一座としてあのような裁きにかかわってしまったことに…」


 景元(かげもと)は見透(みす)かされた思いであった。正に良弼(よいすけ)の言う通りであるだけに返すべき言葉が見つからなかった。すると良弼(よしすけ)はそんな景元(かげもと)を察して、


「あの場合はいたしかたなかった…、このわしも遠山殿の立場に立てば必ずや、遠山殿と同じく…、矢部殿が実は無実であるなどと声を上げることなどいたさなかったわ」


 景元(かげもと)を慰(なぐさ)めるようにそう言うと、「それはそうと…」と話題を本筋に戻した。景元(かげもと)のことを慮(おもんぱか)ってのことでもある。


「それでもその時は…、矢部殿の時は上様もまだ、改革のためには必要な犠牲と割り切られたらしいのだが此度(こたび)ばかりは…、遠山殿まで左遷しようといたした…、そして実際に遠山殿を左遷に追い込(こ)みし此度(こたび)ばかりは上様もさすがに兄の推し進める改革に疑問を持ち始められた由(よし)にて…、果たしてそこまでして…、遠山殿まで犠牲にしてまで推し進めるだけの価値ある改革なのかと、上様は左様に疑問を持ち始められた由(よし)…」


「まさか…」


「事実でござる。日頃、上様の御側(おそば)に仕(つか)えし者の申すことなれば、間違いはござりませぬ」


 ううむ、と景元(かげもと)は唸(うな)り声を上げた。


「されば兄が失脚するのそう遠くはあるまいて、明日、明後日にも失脚してもおかしゅうはない…」


「まさか…」


「まぁ、ここまで申しても確かに容易には信じられぬであろうが、なれど間違いのないこと。されば遠山殿、そこもとが町奉行に返り咲くのも案外、早いやも知れませぬぞ」


「まさか…」


「事実でござる。さればその折はこの、不肖(ふしょう)、跡部(あとべ)良弼(よしすけ)のことを何卒(なにとぞ)、お引き立てのほどを…」


 それが本音か…、景元(かげもと)は苦笑しつつも、それでも良弼(よしすけ)だけが自分に声をかけてくれたという恩がある。受けた恩は必ず返すのが景元(かげもと)のポリシーであった。


「跡部(あとべ)殿はわざわざこの景元(かげもと)を頼らずとも、常日頃より新見(しんみ)殿を始めとし、多くの有力者とお付き合いもござろうて、そのお方たちが跡部(あとべ)殿を必ずや、お引き立てなさるに違いないと思われるが、なれどこの景元(かげもと)で良ければ喜んで跡部(あとべ)殿を引き立て申し上げようぞ」


 景元(かげもと)は長々と前置きした上で、そう約束した。すると良弼(よしすけ)は実に嬉しそうにうなずいたので、景元(かげもと)はそんな良弼(よしすけ)に対して、


「但し、この景元(かげもと)の力などあまり当てにはなりませぬぞ?」


 そう釘を刺すことも忘れなかったが、良弼(よしすけ)はこれを冗談と受け取ったらしく、「何を申されるか」と微苦笑を浮かべながら応じた。するとそこへ忠邦(ただくに)を始めとする老中一行が部屋に姿を見せたので、景元(かげもと)と良弼(よしすけ)は他の者たちと同じく、平伏(へいふく)して忠邦(ただくに)らを出迎えた。

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