第9話

「やぁやぁ、これはこれは遠山殿」


 良弼(よしすけ)はそう声をかけながら、中之間(なかのま)の出入口に立つ景元(かげもと)の元へと近付いて来た。


「跡部(あとべ)殿…」


 良弼(よしすけ)と相対した景元(かげもと)もそう声をかけると、良弼(よしすけ)は頭を下げたので景元(かげもと)も頭を下げた。


 そして良弼(よしすけ)は景元(かげもと)と同時に頭を上げると、「ささっ、こちらへ…」と自分が座っていた場所へと景元(かげもと)を案内した。景元(かげもと)はそんな良弼(よしすけ)の心遣いに心から感謝した。


 今、この中之間(なかのま)には南町奉行の鳥居(とりい)耀蔵(ようぞう)と目付の榊原(さかきばら)主計頭(かずえのかみ)忠職(ただもと)がいた。いや、目を光らせていた。どういうことかと言うと、景元(かげもと)に親しげに話しかける者がいないか、それに目を光らせるためである。


 今日、景元(かげもと)に大目付への「栄転」人事が発令…、正確には内示されることは既に江戸城に勤める諸役人の知るところであった。それと言うのも事前に情報が漏(も)れていたからだ。


 そして大目付への「栄転」人事が発令された景元(かげもと)に声をかけ、慰(なぐさ)める者がいるかどうか、耀蔵(ようぞう)は忠職(ただもと)と共に目を光らせていたのである。忠職(ただもと)もまた、耀蔵(ようぞう)同様、忠邦(ただくに)の腹心の部下であり、忠邦(ただくに)、耀蔵(ようぞう)、忠職(ただもと)の3人は矢部(やべ)定謙(さだかた)を無実の罪に堕(お)とした中心人物でもあった。


 そして中之間(なかのま)に詰(つ)めている他の面々もそれが…、耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)が傷心の景元(かげもと)に声をかけ、慰(なぐさ)める者がいないかどうか、目を光らせていることが分かっていたからこそ、後難を恐れて誰も景元(かげもと)に声をかけようとはしなかったのだ。下手に声をかけようものなら、


「あやつめは景元(かげもと)を慰(なぐさ)めましてござりまする。これはすなわち、反・改革の兆候に他ならず、厳重に処罰するべきやに存じまする」


 耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)が揃(そろ)って、そのように忠邦(ただくに)に告げ口する恐れがあったからだ。無論、忠邦(ただくに)自身が耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)の両名に対して、景元(かげもと)に声をかけ、慰(なぐさ)める者がいないかどうか目を光らせよと、そのように命じたわけではないだろう。忠邦(ただくに)もさすがにそこまでケツの穴は小さくはないだろう。恐らくは耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)が気を利(き)かせて…、所謂(いわゆる)、「忖度(そんたく)」をして、目を光らせていたのであろう。そしてこうして中之間(なかのま)に詰(つ)める他の面々も二人が目を光らせていることに、役人としての経験から誰もが気付いていた。


 無論、良弼(よしすけ)もそれに気付いていた筈(はず)である。にもかかわらず、景元(かげもと)に声をかけたのは他でもない、良弼(よしすけ)が忠邦(ただくに)の実弟だからだ。例え忠邦(ただくに)に告げ口されたところで、良弼(よしすけ)ならば痛くも痒(かゆ)くもないだろう。逆に、


「下らぬことを一々、告げ口いたすな」


 と耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)は忠邦(ただくに)の一喝(いっかつ)を食らう恐れすらあった。


 尤(もっと)も、如何(いか)に痛くも痒(かゆ)くもないとは言え、忠邦(ただくに)と耀蔵(ようぞう)の策謀により、大目付への「栄転」…、実際には体(てい)の良い左遷人事を申し渡されたばかりの、言ってみれば実兄の政敵である景元(かげもと)に対して実弟の良弼(よしすけ)がわざわざ声をかけたのか、そこには良弼(よしすけ)らしい深謀(しんぼう)遠慮(えんりょ)が潜(ひそ)んでいた。


 それは誰もが後難を恐れて、景元(かげもと)に声をかけるのを憚(はばか)る中、良弼(よしすけ)が唯一人(ただひとり)、景元(かげもと)に声をかけてみせることで、「反・水野派」とも呼べる面々に対するアピールとするためであった。


 景元(かげもと)は言ってみれば、忠邦(ただくに)の推し進める「改革」の犠牲者、もっと言うなら忠邦(ただくに)の犠牲者であった。「反・水野派」の面々からすれば仲間を失ったような気分に違いない。景元(かげもと)自身は別に「水野派」でもないが、だからと言って「反・水野派」というわけでもなく、完全中立の立場であったが、こうして景元(かげもと)が忠邦(ただくに)と耀蔵(ようぞう)の策謀により大目付に左遷されるや、「反・水野派」の面々にしてみれば、


「俺たちの仲間をまた犠牲にしやがって…」


 そう都合良く自己解釈する筈(はず)であった。良弼(よしすけ)もそれが分かっていたからこそ、誰もが耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)の目を恐れて、傷心の景元(かげもと)に声をかけることを躊躇(ためら)う中、良弼(よしすけ)が唯一人(ただひとり)、景元(かげもと)に声をかけることで、


「自分は忠邦(ただくに)の実弟ですが、耀蔵(ようぞう)や忠職(ただもと)のように忠邦(ただくに)を妄信(もうしん)しているわけではなく、それどころか兄に反対の立場を取られる、反・水野派であるあなた方に心を寄せているのですよ」


 そうアピールしようと欲していたのだ。勿論、実兄の忠邦(ただくに)が推し進める「改革」が頓挫(とんざ)した時、即(すなわ)ち、実兄・忠邦(ただくに)が失脚する時、その巻き添えを食らわぬためであった。


 良弼(よしすけ)は明敏な男である。実はこの時、既に実兄・忠邦(ただくに)が推し進める「改革」が頓挫(とんざ)することを…、つまりは実兄・忠邦(ただくに)が失脚することを見抜いていた。


 そこで良弼(よしすけ)はいつ実兄・忠邦(ただくに)が失脚しても良いようにと、今のうちから反・水野派の面々ともつながりを持つことで周到に「保険」をかけようとしていたのだ。忠邦(ただくに)の実弟である己まで失脚の憂(う)き目に合わぬようにとの、その「保険」である。


 そして良弼(よしすけ)が景元(かげもと)に声をかけたのはさしずめ、「保険料」といったところである。


 一方、耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)もそんな良弼(よしすけ)の「思惑」を見抜いており、それゆえ、良弼(よしすけ)を除いて誰も景元(かげもと)に声をかけ、慰(なぐさ)めようとしなかったことには満足しながらも、唯一人(ただひとり)、良弼(よしすけ)のみ景元(かげもと)に声をかけ、あまつさえ、景元(かげもと)の手を引いて自分が座っていた場所へと案内してみせたので耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)はそんな良弼(よしすけ)に対して激しい憎悪(ぞうお)の視線を送った。とりわけ耀蔵(ようぞう)の憎悪の視線たるや凄(すさ)まじいものあり、それこそ今すぐにでも取り殺さんばかりの勢いであった。忠邦(ただくに)の実弟のくせに裏切りやがって…、さしずめそんなところであろう。


 それに対して良弼(よしすけ)はそんな憎悪(ぞうお)の視線を柳に風とばかり適当に受け流し、景元(かげもと)を己のすぐそばに座らせた。


 そして景元(かげもと)もまた、良弼(よしすけ)の「思惑」は分かっていた。だが例え、どのような「思惑」から出た行動あろうとも、誰もが声をかけるのを躊躇(ためら)う中、良弼(よしすけ)だけが己に声をかけてくれたその「事実」は重かった。正直言ってありがたかった。中之間(なかのま)には結構な人物が詰(つ)めており、老中が「廻り」に来るまでの間、皆、雑談に興じるのが普通であり、今もやはり雑談に興じていたのだが、景元(かげもと)が中之間(なかのま)に姿を見せるや、皆、雑談をいったん中断したかと思うと、すぐに再開した。それは良いのだが、誰もが景元(かげもと)の存在に気付いていながらも、気付かぬフリをし、つまりは無視して雑談を再開したのであった。まるっきり子供の世界であり、景元(かげもと)も内心では馬鹿馬鹿しいと思いつつ、しかし、やはり誰からも声をかけてもらえないというのは結構、キツイものがある。景元(かげもと)はそんな「子供の世界」とは縁遠い「大人」であったが、しかし、人並みに感情ぐらいは持ち合わせている。誰からも無視をされて愉快(ゆかい)でいられるほど、そこまで「大人」ではなかった。


 それゆえ良弼(よしすけ)から声をかけられた時は正直、嬉しかった。無論、景元(かげもと)もまた明敏な男であるので良弼(よしすけ)の「思惑」は端(はな)から承知していたが、それでも誰もが耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)の目を恐れ、己に声をかけようとしない中、良弼(よしすけ)だけが声をかけてくれたその「事実」はやはり重かったのだ。

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