第7話

「遠山」


 家慶(いえよし)に名を呼ばれて景元(かげもと)はそれまでの感傷が打ち破られ、我に返った。


「ははっ」


「何か申したきことがあれば聞いてやるぞ」


「さればお言葉に甘えまして一つだけ…、是非ともお尋ね申し上げたき儀(ぎ)がござりまする」


「何じゃ?」


「さればそれがしの後任の奉行は…」


 景元(かげもと)がそう問いかけると、「控(ひか)えぃっ!」という忠邦(ただくに)の怒声が御座之間(ござのま)に響いた。


「後任の奉行なぞ、そなたの知ったことではあるまいっ!」


 忠邦(ただくに)としては後任の北町奉行など、別に景元(かげもと)に知られたところで痛くも痒くもない筈(はず)であった。いずれ景元(かげもと)も知るところとなるからだ。それでも忠邦(ただくに)が遮(さえぎ)ったのはひとえに、


「これ以上、図に乗るなよ」


 という気持ち、もっと言えば嫉妬(しっと)心からであった。将軍・家慶(いえよし)より直々に声をかけられ、のみならず、直答まで許された景元(かげもと)に忠邦(ただくに)は大いに嫉妬(しっと)心に駆(か)られた。


「将軍の寵愛を受けるのは俺一人で充分…」


 忠邦(ただくに)はそんな気持ちすらあり、だからこそ、遮(さえぎ)ったのである。だが、


「控(ひか)えるのは越前(えちぜん)、そなたの方だ」


 家慶(いえよし)より冷たい一瞥(いちべつ)と共に、そんな冷たい言葉を向けられ、忠邦(ただくに)は震え上がった。口ごたえなどしようものなら、いよいよ上様のご寵愛(ちょうあい)を失うやも知れぬ…、そう直感した忠邦(ただくに)は平伏(へいふく)した。


 それを見て取った家慶(いえよし)は景元(かげもと)の方へと向き直ると、


「されば大坂町奉行の阿部(あべ)遠江守(とおとうみのかみ)正蔵(しょうぞう)ぞ」


 景元(かげもと)にそう答えた。それに対して景元(かげもと)は、


「なるほど…」


 と心底からうなずいた。大坂町奉行から江戸町奉行への昇進はまずまず順当な人事と言えたからだ。この時代に確立された江戸町奉行への昇進ルートとして最もポピュラーなのが勘定奉行からの昇進であり、景元(かげもと)が正にそうであった。そして次に多いのが大坂町奉行からの昇進であり、景元(かげもと)が「なるほど…」と思ったのもそのためである。


 こうして将軍・家慶(いえよし)より直々に人事を発令されるという、大名並の異例の厚遇を受けた景元(かげもと)は大いに面目を施(ほどこ)し、御座之間(ござのま)を後にした。


 景元(かげもと)が御座之間(ござのま)を退出するや、背後から「遠山」と声をかけられた。声の主はすぐに分かった。景元(かげもと)は立ち止まると、声の主の方へと振り返り、向き合うと、


「堀田様」


 とその声の主の名を呼ぶや頭を下げた。


「遠山…」


 声の主、もとい若年寄の堀田(ほった)摂津守(せっつのかみ)正衡(まさひら)は感極まった表情で、景元(かげもと)の元へとゆっくりと歩み寄った。


「済まぬな…」


 正衡(まさひら)は景元(かげもと)と相対すると、謝罪の言葉を口にした。


「えっ…」


「わしの力が及ばず…」


 どうやら堀田様は己の左遷人事に責任を感じておいでらしい…、そう気付いた景元(かげもと)は慌てて右手を振って見せた。


「滅相もござりませぬ。堀田様が反対して下さっただけで充分でござりまするよ」


 家慶(いえよし)が御座之間(ござのま)より退出する間際(まぎわ)のことである。退出しようとする家慶(いえよし)を平伏(へいふく)してそれを見送る景元(かげもと)に対して、家慶(いえよし)はふと思い立ったように立ち止まると、平伏(へいふく)している景元(かげもと)の方へと再び向き直り、


「一つだけ、申し述べておくことがあった…」


 そう思い出したように景元(かげもと)の頭上に声をかけると、景元(かげもと)の左遷人事案につき勝手掛若年寄の堀田(ほった)正衡(まさひら)のみがその左遷人事案に反対したと、告げたのであった。


「いや、嘘でもそう申してくれるとわしも少しくは肩の荷がおりるというものよ…」


「いえ、決して嘘ではござりませぬ」


「まぁ良いわさ。わしの政治生命もそう長くはないに相違あるまいて…」


 正衡(まさひら)はそう言うと、遥(はる)か先を肩を怒らせて歩く忠邦(ただくに)の方を見やった。正衡(まさひら)が何を言わんとしているのか、景元(かげもと)にはすぐに分かった。


「まさか…」


 まさか、堀田(ほった)様まで左遷の憂(う)き目にあうことはありますまい…、景元(かげもと)はそう示唆(しさ)したものの、正衡(まさひら)はその示唆(しさ)に対して苦笑いを浮かべつつ、頭を振って見せた。


「あれだけそなたの左遷人事に反対したのだ。水野殿も恐らくはこのわしを切る決心をなされたに相違あるまい」


 正衡(まさひら)にそう言われると、景元(かげもと)は益々(ますます)肩身の狭い思いであった。するとそんな景元(かげもと)の様子を察した正衡(まさひら)は慌てて、「これは済まなんだ」と謝った。


「恩着せがましいことを口にして済まなんだ。別にそういうつもりで申したわけではないゆえに、そのように恐縮せずとも良い。それに…」


 正衡(まさひら)はそこで言葉を区切ると、溜息(ためいき)を一つ、ついた。


「それに、何でござりまするか?」


 景元(かげもと)が促(うなが)した。


「そなたがもう、町奉行職を追われるとなれば、わしももう、これ以上は若年寄を続ける意味がないでな…」


「左様な…、お気の弱いことを仰(おお)せられまするな…」


「いや、事実だ。そなたが町奉行であったからこそ、このわしも若年寄の仕事にやりがいを感じておったのだ。だがその、わしにやりがいを感じさせてくれたそなたがもう、町奉行でないならば、このわしもこれ以上、若年寄を続けるつもりは毛頭ない」


「堀田様…」


「まぁ、今すぐというわけでもあるまいが、それでもおっつけわしもそなたの後を追うであろうよ」


 正衡(まさひら)はそう告げると、景元(かげもと)の元を去って行った。

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