第6話

 景元(かげもと)に対する異例の厚遇はこれだけにとどまらなかった。御座之間(ござのま)における人事などの申し渡しにつき、旗本は例え、無位無官の一般大名と同じクラスの従五位下(じゅごいのげ)に叙(じょ)されていようとも、下段(げだん)の入側(いりがわ)、すなわち廊下に控(ひか)えねばならないところ、景元(かげもと)は大名と同じく、下段の中に入ることが許されたのであった。それもただ、下段の中に入ることが許されたのみならず、何と将軍・家慶(いえよし)の御座(おわ)す上段と下段との閾(しきい)まで進むことが許されたのであった。これは例え、大名でも許されないことであった。さすがに上段にまで立ち入ることこそ許されなかったものの…、家慶(いえよし)個人としては別に許してやっても良かったのだが、そうしてやりたいと側用人(そばようにん)の親繁(ちかしげ)と御側御用取次の正路(まさみち)の両名に打診するや、両名は普段の激しいライバル関係をも忘れたかのように、「その儀(ぎ)ばかりは何卒(なにとぞ)…」と再考を促(うなが)したのであった…、それでも異例の厚遇と言え、家慶(いえよし)と景元(かげもと)の距離は正に、


「目と鼻の先」


 であった。家慶(いえよし)は自ら景元(かげもと)に対して大目付の人事を発令するや、月番老中の眞田(さなだ)幸貫(ゆきつら)より、「結構、仰(おお)せ付けられ、ありがたき旨(むね)」と景元(かげもと)に代わってお礼の言葉が返ってきた。将軍への直答が許されていなかったためであり、それは例え、大名でも同様であった。


 だが家慶(いえよし)はそんな規則を打ち破るかのように、「遠山」と声をかけるや、


「直答許す」


 そう告げて、畳と睨(にら)めっこしていた景元(かげもと)を驚かせた。いや、景元(かげもと)のみならず、その場にいた誰もが驚いたものである。


 だが家慶(いえよし)はそんなことにはお構いなしとばかり、「されば面(おもて)を上げよ」と景元(かげもと)に命じた。景元(かげもと)はさすがに逡巡(しゅんじゅん)した。果たして顔を上げても良いものかどうか、景元(かげもと)は大いに逡巡(しゅんじゅん)した。すると家慶(いえよし)はそんな景元(かげもと)の胸中を察したのかもう一度、「面(おもて)を上げよ」と命じたのであった。さすがに二度も命じられれば顔を上げないわけにはゆかず、さりとて本当にあっさりと頭を上げても良いものか、景元(かげもと)は逡巡(しゅんじゅん)の末、頭を少しだけ上げると、チラリとすぐ真横にいた月番老中の幸貫(ゆきつら)を見やった。すると幸貫(さちつら)は景元(かげもと)の視線に気付くとうなずいてみせた。それで景元(かげもと)も漸(ようや)く決心がつき、顔を上げたのであった。すると家慶(いえよし)は、「遠山よ」と改めて景元(かげもと)に声をかけた。景元(かげもと)は両手を突(つ)くと、平伏(へいふく)こそしなかったものの、それでも「ははっ」と軽く頭を下げた。


「此度(こたび)の人事、申し訳なく思うておる。許せよ」


 将軍が謝罪の言葉を口にするなど、絶対にあってはならないことであった。忠邦(ただくに)がすかさず、「上様っ」と声を上げたが、家慶(いえよし)はそれには構わずに続けた。


「だが水野の改革を進める上では致し方なかったのだ。許せよ」


 家慶(いえよし)が忠邦(ただくに)の推し進める「改革」を認めることを前提に、念押しするようにそう告げると、忠邦(ただくに)も黙るより他になかった。


 一方、景元(かげもと)はよもや将軍・家慶(いえよし)から声をかけられるとは…、その上、直答まで許され、のみならず、家慶(いえよし)から謝罪の言葉まで聞かれるとは思ってもみなかったので、それゆえ感動のあまり打ち震えた。


 それにしても家慶(いえよし)がどうして謝罪の言葉を口にしたのか、それは定謙(さだかた)のことを思い出したからである。定謙(さだかた)もまた、忠邦(ただくに)の推し進める「改革」の邪魔になったからこそ「処分」されたクチであり、それも無実の罪に堕(お)とされてしまったのである。家慶(いえよし)も内心では薄々(うすうす)、冤罪であることに勘付いていたものの、それでも、


「忠邦(ただくに)の推し進める改革の障碍(しょうがい)となるのであれば…」


 とやはり断腸の思いで、評定所において定謙(さだかた)に下された処分につき、家慶(いえよし)は最終的な決裁権者としてこれに…、みすみす定謙(さだかた)に無実の罪を着せる処分に許可を与えたのであった。家慶(いえよし)はそのことを時が経つに連れて後悔の念を深くし、しかし、今また定謙(さだかた)と同様、景元(かげもと)を「処分」することを許してしまった。定謙(さだかた)のように無実の罪を着せるわけではなかったものの、しかし、家慶(いえよし)は激しく後悔し、それが極めて異例とも言える謝罪の言葉につながったのである。


「遠山よ、これからはそなたの信念に従い、生きるが良いぞ」


 家慶(いえよし)は景元(かげもと)に対してそう「餞(はなむけ)」の言葉をかけた。半分は己に対して…、忠邦(ただくに)の推し進める「改革」のため、という名目に負けて理不尽(りふじん)な処分を黙認してしまった己に対して向けられたものであった。


 だがその家慶(いえよし)の「餞(はなむけ)」は景元(かげもと)の心を突き刺した。それというのも景元(かげもと)もまた、定謙(さだかた)のことについて大いに後悔していたからだ。


 景元(かげもと)はその当時、既に北町奉行であり、それゆえ北町奉行として定謙(さだかた)の裁きに…、正確には定謙(さだかた)を罪に堕(お)とす裁きにかかわってしまったのだ。


 江戸町奉行職は寺社奉行、公事方勘定奉行と並んで評定所の正式なメンバーであるので、何か大事件が起これば当然、その審理に当たることになる。忠邦(ただくに)が主導した定謙(さだかた)の裁きにも勿論、かかわった。だが景元(かげもと)は家慶(いえよし)と同様、いや、誰よりもと言うべきであろう、定謙(さだかた)が無実であることを承知していたにもかかわらず、定謙(さだかた)の無実を叫ぶことで忠邦(ただくに)の不興を買い、結果、


「己まで町奉行の職を奪われることになっては堪(たま)らぬ…」


 と口を噤(つぐ)んでいた。それも、


「それに己一人が矢部殿の無実を叫びしところで、何も変わらぬ…」


 そんな言い訳を楯(たて)にして、である。そうして景元(かげもと)は定謙(さだかた)の無実を誰よりも分かっていながら、定謙(さだかた)を有罪とする判決書に己も北町奉行として署名してしまったのである。だが、己も連署してしまったその判決書が実際に審理を主導した目付の榊原(さかきばら)主計頭(かずえのかみ)忠職(ただもと)より定謙(さだかた)に掲げられた際、定謙(さだかた)が己に対して向けた目が景元(かげもと)は今でも忘れられなかった。定謙(さだかた)はそれで良い、と言わんばかりの目を景元(かげもと)に向けてきたのであった。実は定謙(さだかた)はいよいよ己の命運が尽(つ)き果(は)てるに違いないと、そう確信すると、盟友であった景元(かげもと)に対して、


「大勢順応で構わぬ。くれぐれもわしを救おうなどと、ゆめ思うてはなりませぬぞ」


 そうすすめていたのだ。景元(かげもと)が大勢順応、定謙(さだかた)は無実であると分かっていながら、定謙(さだかた)無実の声を上げなかったのはそれも…、定謙(さだかた)がそうすすめたから、という格好の言い訳もあったからである。


 実際、定謙(さだかた)はそんな景元(かげもと)にうなずいてみせたものの、実に寂(さび)しげな表情をしていたのが今でも思いだされる。定謙(さだかた)は無理して作り笑いを浮かべてそんな実に寂(さび)しげな表情を押し隠そうとしていたものの、隠しきれず、それが余計に景元(かげもと)の心に突き刺さった。


「やはり…、矢部殿は無実であると、あの時、声を上げるべきであった…」


 そう後悔しない日はなかった。定謙(さだかた)より言い含められていた、


「くれぐれもわしを救おうなどと、ゆめ思うてはなりませぬぞ」


 との言葉を最大の楯(たて)にして…、それこそ免罪符のようにして、定謙(さだかた)の無実を訴えなかった己が景元(かげもと)は今でも許せずにいた。


 そのような背景があったので、


「遠山よ、これからはそなたの信念に従い、生きるが良いぞ」


 という家慶(いえよし)の言葉が景元(かげもと)の心に突(つ)き刺さったのである。己の信念…、


「矢部殿は無実である」


 その信念を通すことなく、大勢順応、わが身可愛さから定謙(さだかた)を見殺しにしてしまったのだと…。

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