第4話

 さて老中の同意が得られるや、忠邦(ただくに)は今度は溜之間(たまりのま)に詰(つ)める諸侯と、それに若年寄にも景元(かげもと)の左遷人事案を諮(はか)った。幕政は老中だけで動かしているわけではなく、とりわけ重要な案件ともなると、幕府の政治顧問格に当たる溜之間(たまりのま)に詰(つ)める諸侯や、若年寄とも協議して進める。


 そしてこの場合…、江戸町奉行である景元(かげもと)を大目付に左遷する人事案は正にその、


「重要な案件」


 に他ならず、それゆえ溜之間(たまりのま)に詰(つ)める諸侯や若年寄とも協議する必要があった。と言っても溜之間(たまりのま)に詰(つ)める諸侯にしても、若年寄にしても、やはり忠邦(ただくに)の人事案だと知るや、表立って反対する者はいなかった。忠邦(ただくに)によって引き立てられた老中たちならばいざ知らず、溜之間(たまりのま)に詰(つ)める諸侯や若年寄までもが何ゆえにここまで忠邦(ただくに)に遠慮するのかと言うと、それは忠邦(ただくに)を勝手掛老中に任じたのが他ならぬ将軍・家慶(いえよし)であり、忠邦(ただくに)の推し進める「改革」に賛意を示していたからだ。


 その「改革」…、将軍・家慶(いえよし)もお墨付きを与えている「改革」を進めるに当たり、景元(かげもと)を大目付に左遷する必要があると、忠邦(ただくに)がそう判断して、諮(はか)った人事案ともなると、それに反対するのはひとえに、


「将軍・家慶(いえよし)の意向に反するもの…」


 そう受け取られる恐れがあり…、忠邦(ただくに)も暗にそう匂(にお)わせて溜之間(たまりのま)に詰(つ)める諸侯や若年寄に対して景元(かげもと)の左遷人事案に賛成するよう脅(おど)しに近い格好で迫(せま)ったために、溜之間(たまりのま)に詰(つ)める諸侯にしても若年寄にしても、そんな忠邦(ただくに)の脅(おど)しに屈する格好で、やむなく景元(かげもと)の左遷人事案に消極的賛意を示したのであるが、忠邦(ただくに)はここでもやはり、


「景元(かげもと)は老中のみならず、若年寄や、果ては溜之間(たまりのま)の連中にまで覚えがめでたかったのか…」


 そう思い知らされ、ショックを覚えた。


 いや、唯一人(ただひとり)、消極的賛意すら示さずに明確に反対する硬骨の士がいた。誰あろう、勝手掛若年寄の堀田(ほった)摂津守(せっつのかみ)正衡(まさひら)であった。老中が大名を管轄するのに対して、若年寄は旗本・御家人を管轄する幕閣(ばっかく)として、旗本である景元(かげもと)の左遷人事案が老中より諮問(しもん)されると、他の若年寄が消極的賛意を示すことで景元(かげもと)に対するせめてもの、精一杯の「餞(はなむけ)」とする中、正衡(まさひら)は唯一人(ただひとり)、その左遷人事案に明確に反対したのであった。


 老中の執務室である上御用部屋に若年寄を全員招集し、忠邦(ただくに)自ら、若年寄に対して景元(かげもと)の左遷人事案を提案すると…、ちなみに溜之間(たまりのま)に詰(つ)める諸侯に対しては忠邦(ただくに)ら老中の方が黒書院の溜之間(たまりのま)へと足を運び、そしてそれら諸侯に対して景元(かげもと)の左遷人事案を提案した…、すると若年寄の筆頭に当たる勝手掛を務める…、若年寄にも幕府財政に責任を持つ勝手掛が置かれており、勝手掛老中を補佐する…、正衡(まさひら)が驚くべきことに堂々と反対の論陣を張ったのである。


「何ゆえ、遠山を大目付に左遷されるのでござりまするかっ!遠山が何か失敗(しくじり)でも犯したというのならばいざ知らず、北町奉行として大過(たいか)なくその職責を全(まっと)うしているその遠山を何ゆえ大目付に左遷されようとなされるのか、その理由(わけ)をお伺(うかが)いしたいっ!」


 正衡(まさひら)は声を大にして反対したのであった。これには忠邦(ただくに)も怒りより驚きの方が勝(まさ)ったものの、しかし、それも束(つか)の間に過ぎず、すぐに怒りが込み上げてきた。正衡(まさひら)を若年寄の筆頭である勝手掛に据(す)えたのは他ならぬ忠邦(ただくに)その人であった。忠邦(ただくに)は自身の進める「改革」のパートナーとして、正衡(まさひら)の実力を見込(みこ)んで、勝手掛の若年寄に取り立ててやったのだ。にもかかわらず正衡(まさひら)は己に叛旗(はんき)を翻(ひるがえ)すかのように、景元(かげもと)の左遷人事案に堂々と反対してみせたのだ。忠邦(ただくに)からすれば、


「裏切られた…」


 との思いが強かった。そのうちに必ずや若年寄の職を解いてくれる…、忠邦(ただくに)は心にそう誓いつつ、改めて他の若年寄にも尋ねた。


 若年寄も老中と同じく4人おり、正衡(まさひら)を除く3人の若年寄…、本庄(ほんじょう)伊勢守(いせのかみ)道貫(みちつら)、大岡(おおおか)主膳正(しゅぜんのかみ)忠固(ただかた)、遠藤(えんどう)但馬守(たじまのかみ)胤統(たねのり)はやはり消極的賛意を示したので、


「反対は摂津(せっつ)、その方のみだな」


 忠邦(ただくに)は正衡(まさひら)に対してドスを利(き)かせてそう告げた。ここでもし、正衡(まさひら)が考えを改めて…、己に恐れおののき、せめて消極的賛意でも示せば、忠邦(ただくに)の怒りも和(やわ)らいだかも知れぬ。だが、正衡(まさひら)が己の考えを改めることは遂になく…、それはさしずめ定謙(さだのり)を髣髴(ほうふつ)とさせるものがあった…、忠邦(ただくに)の正衡(まさひら)に対する憎しみは一層、倍加した。


 だがその場では忠邦(ただくに)はあくまで平静(へいせい)さを保(たも)ちつつ、


「北町奉行・遠山(とおやま)左衛門尉(さえもんのじょう)を大目付に栄転、転任させる人事案につき勝手掛若年寄の堀田(ほった)摂津(せっつ)唯一人(ただひとり)を除いて、幕閣(ばっかく)諸侯は皆、賛同いたしたので、よってこの旨(むね)、上様に言上(ごんじょう)仕(つかまつ)る」


 そう宣(せん)した。景元(かげもと)の左遷人事案につき、どんなに正衡(まさひら)が突っ張ったところで、その左遷人事案に反対する者が正衡(まさひら)一人ではどうにもならなかった。それならば突っ張らずに大勢順応、せめて消極的賛意ぐらい示せば良いものを、正衡(まさひら)があえて、


「お利口(りこう)」


 になることなく、負け戦(いくさ)を承知の上で、あえて突っ張って見せたのは他でもない、それだけ正衡(まさひら)が景元(かげもと)のことを買っていたからだ。実は景元(かげもと)を今の北町奉行に推挙したのも他ならぬ正衡(まさひら)であったのだ。


 景元(かげもと)は今の北町奉行に栄転する以前、小普請(こぶしん)奉行を務めたことがあった。この小普請(こぶしん)奉行は作事奉行、普請(ふしん)奉行と並んで、「下三奉行」と称せられていた。その「下三奉行」のうち、作事奉行と普請(ふしん)奉行が老中支配であるのに対して、小普請(こぶしん)奉行のみ若年寄支配であった。景元(かげもと)が小普請(こぶしん)奉行に就任後、暫(しばら)くしてから奏者番(そうじゃばん)であった正衡(まさひら)が若年寄に昇進し、小普請(こぶしん)奉行であった景元(かげもと)の直属の上司となり、それこそが正衡(まさひら)と景元(かげもと)との邂逅(かいこう)であった。正衡(まさひら)は景元(かげもと)の仕事ぶりもさることながら、その人物についても大いに惹(ひ)かれるものがあり、爾来(じらい)、景元(かげもと)の後ろ盾となってきた。景元(かげもと)が小普請(こぶしん)奉行を皮切りに、作事奉行、公事方勘定奉行と栄進を重ね、そして今の北町奉行職にまで登(のぼ)り詰(つ)めた背景には、正衡(まさひら)の存在があったのである。正衡(まさひら)が老中の忠邦(ただくに)に対して景元(かげもと)のことを強力に推挙したからであった。そして忠邦(ただくに)にしても、己の片腕と見込んだ正衡(まさひら)の推挙とあらば、ということで景元(かげもと)を北町奉行職にまで栄達させたのであった。


 そのような背景があったので、正衡(まさひら)が景元(かげもと)の左遷人事案に猛反対するのは当然と言えば当然であったがしかし、忠邦(ただくに)にしてみれば、


「二人共、見事にこの俺を裏切りおって…」


 そう大いに歯噛(はが)みしたものであり、そして復讐を誓った。

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