第3話

「なるほど…、大目付のう…」


 忠邦(ただくに)は右手で顎(あご)を撫(な)でながらそう聞き返した。それは忠邦(ただくに)のよくやる仕種(しぐさ)であった。


「御意(ぎょい)。大目付なれば、一応、役職の序列においては江戸町奉行の上に位置し、その実、閑職(かんしょく)なれば…」


「確かに一計(いっけい)ではあるが、なれど今の大目付は皆、ピンピンしておるぞ?誰ぞ、死んでくれれば良いのだが、生憎(あいにく)、死にそうな者はおらず、それどころか皆、矍鑠(かくしゃく)としており、老免(ろうめん)、寄合(よりあい)入りというわけにもゆかぬぞ」


 大目付は現在、5人おり、初鹿野(はじかの)備後守(びんごのかみ)信政(のぶまさ)を筆頭に、稲生(いのう)出羽守(でわのかみ)正興(まさおき)、岡村(おかむら)丹後守(たんごのかみ)直恒(なおつね)、松平(まつだいら)豊前守(ぶぜんのかみ)政周(まさちか)、神尾(かみお)山城守(やましろのかみ)元孝(もとたか)というメンバーであった。そして大目付は定員が5人であり…、別に定員が明文化されているわけではなかったものの、不文律であったので、それを6人に増やすわけにはゆかなかった。


 そこでそのうちの誰か一人で良いので死ぬか、あるいは老免(ろうめん)、寄合(よりあい)入り…、すなわち定年退職でもしてくれれば良いのだが、皆、矍鑠(かくしゃく)としておりそうもゆかず、それゆえ、景元(かげもと)を大目付に栄転、もとい棚上(たなあ)げするには今の大目付のうち、誰か一人をどこかのポストにやはり栄転させる必要があった。


「されば、大目付の筆頭である初鹿野(はじかの)殿を留守居年寄衆に召し加えられては如何(いかが)でござりましょうや?」


 初鹿野(はじかの)とは初鹿野(はじかの)備後守(びんごのかみ)信政(のぶまさ)のことである。


「なるほど…」


 忠邦(ただくに)はうなった。それには理由があった。


 留守居年寄衆…、所謂(いわゆる)、留守居(るすい)もまた、大目付と同様に定員は5人であったがしかし、今は4人しかいなかった。その理由だが、話はさらに天保10年まで遡(さかのぼ)る。その当時、家慶(いえよし)の嫡子・家定(いえさだ)の住まう西城において、家定(いえさだ)に仕(つか)える御側衆(おそばしゅう)…、西城御側衆の一人であった留守居(るすい)の筆頭であった戸田(とだ)安房守(あわのかみ)氏寧(うじやす)が死去したのに伴(ともな)い、留守居(るすい)年寄衆の一人であった太田(おおた)隠岐守(おきのかみ)資寧(すけやす)が西城の御側衆(おそばしゅう)の一人として栄転、転属して以降、留守居(るすい)年寄衆はずっと4人体制のままであった。本来ならば留守居(るすい)年寄衆にしても大目付の定員と同様、5人であるので、その時点で…、一人欠けた天保10年の時点で直ちに補充すべきところであったが、しかし、留守居(るすい)は大目付以上に閑職(かんしょく)…、定年前の旗本の花道的なポストの意味合いが強く、それゆえあえて補充もせずに今日(こんにち)まできてしまったのである。


 その定員が一人欠けたままの留守居(るすい)年寄衆に、大目付の筆頭格に当たる初鹿野(はじかの)信政(のぶまさ)を補充すれば、なるほど、大目付に空きが出る。そうすれば景元(かげもと)を一人、欠員が出来た大目付のポストに押し込むことが出来るというものである。


「さればその線で進めようぞ」


 忠邦(ただくに)はそううなずくと、早速、翌日より動き出した。すなわち、老中会議に諮(はか)ったのである。


 江戸町奉行は老中支配のポストであり、それも従五位下(じゅごいのげ)に相当する諸太夫(しょだいぶ)役である。つまり、一般の無位無官の諸大名と官位の上で肩を並べる。それゆえ旗本がこの、諸太夫(しょだいぶ)役に就(つ)くと、それら一般の無位無官の諸大名の態度も自然と丁寧なものへと変わる。


 しかも江戸町奉行は数ある奉行職の中でもトップに位置する。江戸町奉行の上に位置する奉行職と言えば伏見奉行のみであり、しかもこの伏見奉行のポストは大名役であるので、旗本役に限るなら、事実上、江戸町奉行職が奉行職のトップであった。


 その江戸町奉行…、北町奉行の遠山(とおやま)景元(かげもと)を交代させようと言うのである。如何(いか)に忠邦(ただくに)が老中の中でも勝手掛として幕府財政を指揮する事実上の主席に位置していようとも、老中は独任制、すなわち忠邦(ただくに)が一人で老中職を務めているわけではなく、他にも忠邦(ただくに)の上には老中首座の土井(どい)大炊頭(おおいのかみ)利位(としつら)がおり…、とは言え、利位(としつら)を老中首座に据(す)えたのは忠邦(ただくに)その人であり、自身が進める改革に対して予想される猛反発からの弾(たま)除(よ)けになってもらうべく、老中首座に据(す)えたのであり、利位(としつら)は忠邦(ただくに)の操り人形に過ぎず、そんな利位(としつら)であるので自身が提案する人事に異を唱えることなど考えられなかった。


 またその下には…、忠邦(ただくに)の下には真田(さなだ)信濃守(しなののかみ)幸貫(ゆきつら)と堀田(ほった)備中守(びっちゅうのかみ)正篤(まさあつ)も控(ひか)えている。幸貫(ゆきつら)も正篤(まさあつ)も共に、忠邦(ただくに)が自身の改革のパートナーとして…、利位(としつら)のように弾(たま)除(よ)けとしてではなく…、老中に引き上げたのであり、やはり利位(としつら)同様、自身が提案する人事に反対するとは思われなかった。だがそれでも一応、老中職は忠邦(ただくに)一人ではないので、老中会議に諮(はか)る必要があった。


 だが、忠邦(ただくに)の人事案に対する利位(としつら)らの反応は忠邦(ただくに)の予想に反するものであった。利位(としつら)らは皆、景元(かげもと)を江戸町奉行から大目付へと「栄転」させる人事案につき、「えっ」という顔をした。無論、表立って反対する者は誰一人としていなかったものの、しかし、忠邦(ただくに)が事前に予想した「快諾(かいだく)」までは得られなかった。せいぜい「消極的賛成」が良いところであった。


「水野様がそう仰(おお)せなら…」


 そんな消極的反応しか返ってこなかったのだ。これにはさすがの忠邦(ただくに)も軽いショックを覚えた。自身の影響力がまだまだその程度だったのか、というショックもあるが、それ以上に、


「まさか景元(かげもと)めがそこまで老中の覚えがめでたかったとは…」


 とのショックの方が優(まさ)っていた。町奉行から大目付への「栄転」が実は体(てい)の良い、


「左遷」


 人事であることは一目(いちもく)瞭然(りょうぜん)であり、だからこそ利位(としつら)らはその、景元(かげもと)の左遷人事に反対したのであったが、それは裏を返せばそれだけ景元(かげもと)を買っていたことに他ならず、なればこそ、忠邦(ただくに)はいよいよもって景元(かげもと)を左遷する己の判断は正しかったと確信を抱くようになった。もしこのまま景元(かげもと)を江戸町奉行として据(す)え置けば、いずれ自身が進める「改革」の抵抗勢力として担(かつ)ぎ出される可能性すらあり得た。そうなる前にその芽を摘(つ)み取るべく、今のうちに閑職(かんしょく)である大目付に左遷してしまうに限る。

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