第27話 虚心
竜人族は水に入らない。
水浴びをすることもほとんどないし、せいぜい濡れた布で体を拭くくらい。竜尾の鱗が綺麗になっていくのを見るのは好きだし、川の水や魚も好きだけど、わざわざ水に入ったり泳いだりはしない。
想像でしかないが、きっと水の中はこんな感じなのだろう、と私は思う。
ゆったりと肌を撫でていく、風とは違う何か。周囲は薄暗く、先は見通せない。自分の体を眺めてみるが、特に問題は起きていないようだ。人の肌、人の腕。額から生えた真白の角と、腰から伸びる真紅の竜尾を除けば、私の体は人と大差ない。寿命やら、食べ物の好みやら、風習やらの違いはあるが。
『同情や共感もしてもいいが、決してそれに引きずられるな』
脳裏にヴェンターからの言葉が蘇る。不思議なヒトだ。誰にも話したことはないが、私は幼いころから、なんとなくその人の性質を違うカタチとして捉えることができる。中級冒険者を名乗るヴェンターという男は、傷ついた宝石。妹であるレルムは羽ばたき続ける小鳥。リーダーのソラリアは茨で縛られた扉。ルナリという癒し手は叫び声をあげる木枯らし。
そして、ガロエラは――
「引きずられるな、か」
確固たる己を持て、ということは常々言われてきた。
魔術を扱う者は、世界に呑まれてはならない。
世界を揺り動かす、その反動は術者の体と心を蝕む。
「慣れっこのつもりだったけど……」
世界には『正しい形』がある。強力な魔術のほとんどが、『いつか世界のどこかで起きたこと』なのはそのためだ。『あり得ない現象』、『奇跡』を呼び起こすのは、肉の体を持つ者では難しすぎる。
まあ、不可能というわけではないのだが。
ゆらゆらと揺れる。ふわふわと浮かぶ。
耳がざわめきを捉える。水のように揺蕩う薄暗い精神世界に、微かな光が現れた。
「これを追えばいいのね」
空中に連なる、紫の光。徐々に数を増やし、輝きを強めるその光の宝珠を追えば、きっとガロエラのもとに行ける。感覚として、紫の宝珠は下へ――より深い場所へと向かっていた。
「……上等よ。迷宮と一緒、ってわけね」
追うと決めれば、体は自然と動き出した。手足も竜尾も使わずに移動していく感覚に最初は戸惑ったが、慣れてしまえば楽なものだった。なにせいくら動いても疲れない。
(何かを悩んでるのよね……ガロエラは)
頭の中をぐるぐると、思考が巡る。考えることはあまり得意じゃない。エルムに任せていた部分もあるし、馬鹿が考えることはあまり役に立たない、ということを身をもって知ってきた。幸い、竜人族である私には『直感』があった。良いモノ、悪いモノ。善い人、悪い人。そのあたりは、感覚で嗅ぎ取れる。私は直感を信じている。
最初は緊張していたのだが、何も起きずに時間が過ぎていくと、色々と考えてしまう。迷宮都市に来た理由とか。ガロエラに惹かれた理由とか。
(私とガロエラの種族は違うけど。それでもきっと、感じることや考えは同じ部分があるはずだから)
そう思う。今まで『他者と違う』ことを求められてきたが、彼からは似たものを感じるのだ。
うまく言葉にはできないけれど。
例えばそれは頑なに鎧を脱がないこだわりだったり。
人に気を遣うけれど、不器用でうまくできなかったり。
そういうところだと、思う。
「私はエルム・ラ・シャフォーン。偉大なる“始まりの母”より生を受け、雄大なる“竜の因子”を継ぐ者」
竜人族として、そして“竜眼の魔女”リーフェ・ラ・シャフォーンの行末を追う1人の後継者として、ただし今だけは違う立場で。
「今の私は、ただのエルム。ガロエラ……必ず貴方を連れ戻す」
やがて、暗闇に三つの人影が浮かび上がる。もしかしたら、最初からそこにいたのかもしれない。私の決意を待っていたのか、それとも。
うずくまる少年。そして、少年の左右よりも少しだけ前に立つ2頭の異形。
「いや……」
異形、という意味で言うのであれば私も同じだ。額から角を生やし、腰から竜尾を生やし、その尾は鱗に覆われている。対する向こうは、額から角を生やし、牙を剥きだしにして、体の表面は青と赤に覆われている。その肌の下で動く筋肉を見れば、いかに相手が危険な相手かわかる。肉弾戦では、万に一つも勝ち目はないだろう。
「オ前ハ、誰ダ?」
赤鬼の質問に答える。
「私はそこの少年――ガロエラを連れ戻しに来た」
少年の肩が跳ねる。青年のガロエラは茶褐色の髪を短く刈り込んでいたが、今の少年は肩に届きそうなほど長い。線も細く、前線で鎧を着て戦う男の面影はなかった。
「連レ戻シニ、ダト……!?」
疑念とともに漏れ出る感情は、怒り。赤鬼から放たれる怒気が重圧になって、私の体に襲い掛かる。
「ああ。悩んでるんでしょ、ガロエラは」
断定した私に反応したのは、青鬼だった。赤鬼が怒気を放つのであれば、青鬼が放つのは嘆き。どこまでも深い悲しみが、私の体を縛り付ける。
「貴様ニ何ガワカル。母ヲ失イ、父ヲ見送リ、失意ニ呑マレテ故郷ヲ去ッタ悲シミガワカルノカ……!?」
その問いに答えるのは簡単だった。
「わからない」
私の答えを聞いた少年――否、ガロエラの肩が跳ねる。左右に立つ赤鬼と青鬼の怒気と嘆きが膨れ上がった。
「私は馬鹿だからね。他人の気持ちを推し量る、なんて器用なことできない。いまだに双子の妹の気持ちさえよくわからないくらいよ。でも、だから、それでも!」
前傾姿勢になった2頭の鬼を睨みつける。今にも飛び出そうと、生意気な小娘を挽き肉に変えてやろうと力を蓄えていた鬼が止まる。それは私の気迫に負けた――と言いたいところだが、違うだろう。ガロエラが答えを聞きたがっているのだ。
「あんたが鬼とやらと戦ってるなら後ろに立ってやろうと思ったのよ。1人じゃ勝てないんでしょ? 力くらい貸してあげるから、とっとと帰ってきなさい。私だけじゃないわよ」
悔しいけど、と溜息を吐く。
「私の火力。あんたの防御。それが揃っていれば、だいたいの敵に勝てるわ。あんたがどれだけ『鬼』を畏れているのかは知らないけど、ぶっちゃけ『竜』に比べれば大したことないわよ?」
ピクリ、とガロエラの肩が動く。鬼たちが、動揺したように後ずさった。私は胸にこみ上げる苛立ちを、足先で地面を叩くことで紛らわせる。足元には地面ではなく暗闇が広がっているだけだが、気持ちの問題だ。
「だいたい、負けかけたくらいで凹んでるんじゃないわよ。あんた1人だと【
戦ってるのであれば――加勢してやるつもりだった。それでも敵わないのであれば、負けてもいいつもりだった。だが、見つけてみればこの体たらく。全く、期待外れにもほどがある。
「さっきから……」
「なに? 言い訳? もっとはっきり喋ってくれなきゃ聞こえないけど?」
「さっきから聞いてりゃ好き放題言いやがって……! だいたい誰なんだよお前は!? 俺が負けたことなんかどうでもいいんだよ! また俺の前で人が死んだからだろうが! お前は大切な人が死んでも、何のショックも受けないってのか!?」
振り向いたガロエラの瞳に浮かぶ涙。意味がわからず、私は言い返す。
「誰も死んでない。ちゃんと生きてる」
「『俺の胸の中で』とか、そういうくだらねぇ慰めが訊きたいわけじゃねぇんだよ!」
「は? そんなこと誰も言ってないけど? あんたのパーティメンバーはみんな生きてるって言ってんの!」
声を荒げるガロエラが近づいてきた。竜人族の男性は、一般的なヒトの男より力は強いが、女性はそうでもない。それなりに力は強いが、魔術にばかり傾倒していた私の腕力はさほど強くない。
「なんでお前がそんなこと知ってるんだよ!? 信用できるか! だいたい――いだっ!?」
苛立ちがピークに達した私は、目の前に出てきたガロエラの足を踏みつける。互いに素足のため、大したダメージはないだろうが、それでも、二度三度と踏みつけた。
「いっ、やめろよ! なんだよお前……!」
「ガロエラ。あんたが戦ってるなら、悩んでいるなら。優しく慰めてやるのもいいかな、って思ってた」
「思って……『た』?」
首を傾げるガロエラに、にっこりと笑いかける。
「実際見たらむかつくわ。とっとと目を覚ましなさい、って言ってんの。戦うのも、悩むのも、仲間と一緒にやればいい話でしょうが。あんたの仲間は、そんなに頼りないわけ? あんたが一番頭いいの?」
胸倉を掴み、捩じ上げる。そんなわけはない、という確信があった。私はともかく、ソラリアやヴェンターの方がガロエラよりも賢いに決まっている。あの二人がいなければ、私たちは15層に到達することはできなかった。
人を頼る、仲間を頼る。ヴェンターが教えてくれたことのひとつだった。
毒気を抜かれたように呆けた顔で、ガロエラが首を横に振る。
「……いや。俺よりも頭がいい奴がいる」
「じゃああんたが今すべきことは、ここでウジウジ悩むこと?」
「……違う」
ガロエラは何かを思い出すように下を向いた。私も視線を追いかけて足元を見ると、見覚えのある風景が広がっていた。
石造りの塔から見渡せる、迷宮都市の全貌。私のお気に入りの光景。
私がいつも見る景色と違うのは、銀から赤へと変遷する髪の少女が映っていること。
だが私が知っている風景が映ったのは一瞬だった。そのあと、目まぐるしく景色が入れ替わる。吹雪く森に、鬨の声を上げる兵士、軍勢を前にして堂々と剣を掲げる男の背中、鎧の隙間から見える青空――かつて、『ガロエラ』という男が見てきた光景なのだろう。
「……思い出した。俺は欲張りなんだった……今度こそ。今度こそ、誰も死なせない」
「なんのことか知らないけど、また悩んだらいつでも言いなさいよ。蹴りいれて連れ戻してやるんだから」
「ああ、そうしてくれ。どうも、俺は迷いやすいらしいからな」
「……あ」
少年の姿のガロエラが薄れて消えていく。少しだけ焦ったが、薄暗い周囲が仄かな光に照らされ始めたのを見て、安堵の息を吐き出す。うまくいったのかどうかはわからないが、ひとまず事態は動くはずだ。
「……手間をかけさせた」
「申し訳ない……」
頭を下げる2頭の鬼。赤鬼と青鬼。彼らがガロエラを傷つけようとしていたわけではないのは、わかりきっていた。この2人は、ガロエラを護ろうとしていた。
「……別に。あいつがいないと、私が困るだけよ」
そっけなく返すと、2頭の鬼は困ったように笑う。少し照れくさそうな、それでいて誇らしげな笑顔だった。なんとなく気恥ずかしくなって顔を逸らす。
「我が名は“青夜叉”。彼の嘆き、悲しみに応える共感者」
「我が名は“赤夜叉”。彼の怒り、憎しみに応える復讐者」
丁寧に腰を折る2頭の鬼に、私は頬を掻いてから尋ねる。
「さっきのカタコト、演技?」
答えず、悪戯っぽく微笑んで、2頭の鬼は薄れて消えていく。徐々に周囲の光は強くなっていき、やがて私の視界が白く染まる。この光に飲まれれば目覚めることができるのだろう、という根拠のない確信とともに、私の視界は光に埋め尽くされた。
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