幕間 鬼の涙

 昔々、あるところに、1人の青年と1人の鬼がいました。


 両目にいっぱいの涙を湛えた鬼に、青年は語りかけます。


「何をそんなに泣いているんだい?」


 鬼は答えました。友を失ったのだと。青年がうずくまる鬼の向こう側を覗き込むと、なるほど、地面が盛り上がっています。


「仲が良かったのかい?」


 青年が訊ねると、鬼は涙を流しながら何度も頷きました。鬼も青年も、お互いに種族のことは気にしていませんでした。青年は祖国に戻れば鬼との戦いが、鬼も人間と出会えば生き残るために襲いかかってきましたが、今この時だけはお互いに動かず、穏やかに会話を続けていました。


 鬼は、友を亡くした喪失感から。


 青年は、友のために涙を流す鬼と戦う気が起きなかったから。


 奇妙な出会いを果たした青年は、少しだけ悩んでその場に腰をおろしました。


「なあ」

「……?」


 涙でグシャグシャになった顔をあげて、鬼は首を傾げます。


「聞かせてくれないか。その、友の話を」

「……!」


 何度か頷いた鬼は、思い出しながらポツポツと友との思い出を聞かせてくれました。

 ともに魚を捕った記憶。大木をどちらが先に折れるか勝負した記憶。岩の遠投げで競った記憶。焚き火を囲んで力比べをした記憶。


 一度話し始めた鬼の口は止まりませんでした。涙を流しながら、思い出せる限りの友の記憶を語り続けます。


「そうか……良い奴、だったんだな」


 息継ぎの隙間に呟かれた青年の言葉に、鬼は不意を打たれたように語るのをやめました。まさか、争いの絶えない人間から、『良い奴』なんて言葉が聞けるとは思っていませんでした。


「さあ。俺に未練はない……殺してくれ」

「……無抵抗な相手を切る趣味はない」


 鬼は友の後を追うために、青年に語り掛けましたが、青年は決して剣を抜こうとはしませんでした。激昂した鬼は、殺さない程度に青年に殴りかかりましたが、青年は決して剣を抜かず、挙句の果てには鬼と殴り合いを始めました。


 最初は青年に殺されるために拳を振るっていた鬼でしたが、何度か顔を殴られると怒り狂いました。本気で青年を殺すために襲い掛かりましたが、青年はそのことごとくをかわし、いなし、最後には鬼を投げ飛ばしてしまいました。


 怒りで顔を真っ赤にしていた鬼でしたが、すぐに笑い始めました。


「わっはっはっは! 強いな、お前!」

「お前も、なかなかの強さだったぞ」


 息を切らせた青年が答えれば、鬼は笑いながら上半身を起こし、右手を差し出しました。


「お前、名前は?」

「カイ、と呼ばれている」


 鬼の亡骸が眠る墓の傍で、奇妙な友誼が結ばれました。


 彼らは、数年の間に、何度も何度も会いました。待ち合わせをすることもなく、ふと思い立って墓に向かえば、不思議と会えたのです。


 そして出会えば、挨拶のように拳を振るいあい、力比べをしていました。しかし、鬼の寿命は人よりも長いのです。やがてカイの体は衰え、出会っては酒を飲むだけの関係になっていきました。


 鬼の酒にカイが舌鼓を打てば、カイのつまみに鬼が驚きの声をあげる。そんな心地よい関係は、十数年続きました。


 ある日、いつも通り鬼がカイの訪れを待っていると、酷く強い血の匂いが漂ってきました。


「おい、どうした、カイ!?」


 体中から血を流すカイの姿に驚いた鬼は、慌てて手当するために彼を担ごうとしました。

 しかしカイは、「逃げろ……俺はいいから……」と呟くのみ。


「バカ、お前を置いていけるか!」


 しかし、すでに遅かったのです。

 カイと鬼のもとに無数の矢が降り注ぎました。


「っ、なんだこれは!?」

「逃げろ――」


 うわごとのように呟くカイ。鬼は、カイに矢が刺さらないように、必死に庇い続けました。すでに虫の息と言ってもいい状態です。もしカイにさらに矢が刺さろうものなら、あっという間に死んでしまうでしょう。


 そのことがわかっていた鬼は、カイの傍を離れることができません。やがて現れた人の集団から、次々と矢を降り注ぎます。


「お前らは――なぜ――」


 鬼は、その集団が掲げている紋章に見覚えがありました。一振りの剣と、寄り添って咲く花。長い間、鬼の一族が戦い続けてきた国の紋章でした。しかし、戦争は――とっくの昔に終わっているはずなのです。鬼の一族の敗北という形で。


「逃げてくれ――」


 鬼の一族が敗北したからといって、カイと鬼の関係は変わりませんでした。互いが、それぞれの本来の居場所でどんなことをしていたからといって、彼らの関係に罅を入れることはなかったのです。


 やがて、降り注ぐ矢の雨のうちの1本が、カイの胸に突き刺さりました。一度だけ体を跳ねさせ、鬼に向けて手を伸ばすカイ。


「ああ――アンムルクイ……願わくば、また、お前とともに……」


 最後に、鬼の名前を呟き。カイの手が、力なく地面に落ちました。


 矢の雨が止まった大地に、鬼――アンムルクイの、低い声が響きました。


「オマエラ……これは俺が……“鬼神の掟アンムルクイ”と知っての行動か!?」


 一歩、足を踏み出せば、大地が揺れました。


「カイが、この“鬼神の掟アンムルクイ”の唯一無二の友だと知っての狼藉か!?」


 気づけば、彼の青の体は、怒りのあまり真っ赤に染まっていました。

 鬼の一族において、唯一の抑止力。ほかの鬼を制圧し、罪に応じた罰を与える役割を持つ“鬼神の掟アンムルクイ”の名前。罰を与える関係上――その名は。


 鬼の一族の中で、もっとも強い者に与えられる。


 赤く染まった鬼は、その肉体で人の集団を蹂躙しました。100人ほどいた彼らはあっという間に鬼の怒りに触れ、自分たちが何をしてしまったのかを知りました。


 過去の鬼狩りの英雄を追い、国内を盤石にして名を上げるための鬼の討伐は、決して踏んではいけない虎の尾を踏んでしまったのです。


 彼らはアンムルクイ――鬼神の掟の怒りを呼び覚ましました。


 人の集団を全滅させたアンムルクイは、カイザス――鬼狩りの英雄の遺体を担ぎ、森の中へと消えていきました。


 その森は鬼守の里と呼ばれ、決して足を踏み入れてはいけない秘境として、今も語り継がれています――。






 ぱち、ぱち、と気のない拍手が響いた。赤子を起こさないように配慮された音の大きさだった。


「面白かったが……寝物語としてはどうなんだ?」


 ある意味当然とも言える夫の問いに、竜人の女性は優しく微笑む。


「そうですね……教訓としては、他者の友情を壊してはいけない、世の中には触れてはいけないものもある、といったところでしょうか」

「そんなもんかねぇ……」

「そもそも、竜語りだってなかなか厳しい話でしたよ」


 それもそうか、と男は納得したようだった。確かに、あの話は少女が自らの醜さを嘆いて自殺をしようとするところから始まる。それに比べれば、いくらかマシか。


(いや、マシか……?)


 意見が別れそうだな、と男は思考を放棄した。


「では、私たちも寝ますか?」

「いや……もし、まだ話があるなら、聞きたくなってきたな」


 このまま寝るには、少し後味が寂しすぎる。


「そうですか。では次は……そうですね。遥かなる地の底に棲む魔物……『魂喰らい』の話でも――」


 懐かしさに目を細めながら、女性は静かに口を開く。その口から紡ぎ出されるであろう物語を期待し、偉丈夫はわずかに姿勢を正すのだった。

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