第15話 秘密

 焼け焦げた大地を歩く。足元で小石が跳ねるが、その魔獣は気にすることもなく周囲を睥睨する。早々に逃げ出した虫どもを焼き払ったはいいが、食い出がない。妙にその虫どもが手強かったことが、彼を苛立たせる。


「お、おいあれ――」


 耳障りな声を捉え、魔獣は駆ける。相手を見ることもなく『使う』までもない、と判断する。強靭な四肢で大地を駆け、叩き潰す。体当たりによって跳ね飛ばされた男は、悲鳴を上げることもなく岩に叩き付けられて絶命する。


 即座に反転して逃げ出す、その実力差の判断は早かった。絶対に勝てない、ということに気づいたのだろう。逃がすつもりもないが。


 この生き物は、たまに彼の領域に現れる。大抵の者が必死に逃げるか、気にもせずに隣を通り過ぎていく。ごくまれに挑みかかってくる者もいるし、非常にまれだが――敗北することもある。とはいえ、彼の本体は手出しできない場所にある。この体も、意識を宿らせた仮初の体に過ぎない。


 思えば長いな、と悲鳴を上げる生き物の頭を叩き潰しながら彼は考える。この体に意識を宿らせてから、長い時が過ぎていた。楔を打ち破るほどに。あの場所は彼にとって居心地がよく、力をため込むには最適だった。


 思考の半分を考え事に割きながらも、彼の蹂躙は止まらない。5匹いた生き物のうち、3匹を潰したところで一度止まる。虫もさほどうまくはなかったが、数だけはいたので腹は膨れた。中身は柔らかいくせに外が硬いのには辟易としたが。


 少し前までは、本能で『この場所に留まるべきだ』と思っていた。だが、妙な男に――力の宝玉を――


 4匹目を潰した。吠える。戦いにもならなかったが、とりあえずは死体を飲み込む。やはり旨くはない。逃げていく5匹目に興味はわかなかった。この味の悪さを味わえば、食べる気も失せるというもの。


 岩と小石が転がる荒れ果てた大地を、悠然と彼は歩く。その足が血濡れていようとも、気にすることもなく歩みを進める。


 腹は減っていたが、力は満ちていた。最盛期に近づけるべく力を溜めていたが、あと百年ほどかかるはずだった力の充填は完了していた。満ちた力に満足し、彼は吠える。長く、長く、響き渡る声は高らかに荒れ果てた荒野を震わせる。足元の大地が融け、圧倒的な熱量に空気が揺らぐ。


 駆ける。見逃してやろうかとも思ったのだが、あふれ出る力の充溢が彼を昂らせていた。豆粒ほどの距離まで逃げていた5匹目に追いつき、右足を振り下ろす。小生意気なことに、かろうじて反応したその生き物は鈍色の腕で右足を逸らした。気にすることはない。その一瞬の交錯で、鈍色の腕の内側が粉々に砕けたことは感じ取れた。


 あの面倒な虫――外側は硬いくせに中身が脆く、そしてなぜか大量に湧く――を思い出し、彼は苛立った。


 苛立ちは力を得て、現象となって周囲を焼き払う。息絶えた5匹目を乗り越え、彼は歩く。その歩みを止められる者はなく、ただ息を潜めて立ち去るのを待つのみだった。



 † † † †



 彼女は目を覚ます。鎌首をもたげ、群青の瞳で周囲を見回した。


「これは、驚きました。まさか気づかれるとは」


 滑るように移動を開始する。目の前の空間から響き渡る声。音は聞こえるが、姿は見えず、気配を感じ取ることもできない。だが、彼女はその存在をはっきりと捉えていた。熱を感知する彼女に、気配や視界の有無など重要なことではなかった。


 そしてもうひとつ。目の前の存在からは、酷く落ち着く力を放っていた。そう、自分が操るものを強化する、足りない力を補うもの。


「そう警戒しないでください。貴女を害するつもりはありません」


 言語は理解できない。だが、敵対する意思がないのは伝わった。純白に輝く宝玉を差し出した男に、彼女は警戒態勢を解いた。いつの間にか、姿も見えるようになっていた。


「恐ろしいほどの力です。満たされていない状態で、このフロア一帯の気温を低温に保つ……この“玉”で力を満たしてください」


 純白の輝きが強くなり、彼女は久しぶりに力が充溢してくるのを感じた。冷たく猛々しい純然たる力が体内に満ちていくのを、心地よく受け取る。


「貴方たちのような崇高な存在が、縛られていいはずはありません。気高く自由であるべきなのです」


 熱に浮かされたように喋り続ける男の姿に、彼女は内心わずかに眉を潜めた。何者もほとんど動かないこの世界で、妙に情熱的な男は、彼女のお気に召さなかった。だが、男が“玉”とよんだ宝玉からの力の流入は続いている。それが続く間は生かしておいてやろう、と彼女は目を細める。


「力を満たし、自由を得るのです。偉大なる【白の支配者】よ」


 男の呟きに反応を返さず、彼女は力が満たされているのを感じ取った。数百年ぶりとなる、最盛期の状態。用済みとなった男を殺すつもりで、尾で地面を叩く。瞬間、彼女の周囲を氷と雪が荒れ狂う。どんな生物であろうとも、体を打ち据える巨大な氷塊によってすりつぶされるであろう暴虐の吹雪。


 確かにこの男のおかげで力は満たされたかもしれない。だが、私の眠りを妨げた罪は重い。


 手応えはなかったが、周囲に男の気配はなかった。どうやら逃げられたらしい、と彼女は判断し、再び瞳を閉じる。力が満たされた今、どこへでも行くことはできた。だが、彼女はどこにも行く気はなかった。この場で穏やかに過ごすことは、彼女の望みでもあるのだ。



 彼女は眠り続ける。凍てついた湖上で、降りしきる雪をその身に積もらせ、夢も見ずに眠り続ける。


 『決して手を出してはいけない魔獣』――【支配階層】に分類される、自然現象を制御する環境制圧型の魔獣。周囲の環境に自身が適応するのではなく、自分の過ごしやすいように周囲の環境を造りかえる魔獣の総称。


 【白の支配者】、【穢れなき御使い】の異名を持つ、第30層の魔獣。冒険者ギルドは、彼女は決して攻撃を仕掛けてはいけない相手として冒険者たちに通達を出し、【白銀の大蛇ハルル・クリウム】と名付けた。


 純白の大蛇は眠り続ける。


 いずれ来る、決戦の時に備えて。




 † † † †




「ついてきてくれる?」


 会計を済ませたガロエラに、エルムはそう告げて歩き出した。断る理由もなく、ガロエラはエルムの後ろについていく。人混みを避けて歩き続けるエルムは、迷宮都市の南の城壁に向かっていた。


 迷宮都市は、中央に『迷宮盟主』クレインの館を据えられている。全方位に店や住居は並んでいるが、どちらかというと迷宮の入り口が存在する北側の方が活気がある。引退した冒険者や、騒がしさを嫌う豪商が居を構える南側を、エルムとガロエラは黙々と歩いた。


 光があれば影が生まれるもの。少し裏通りに入ればならず者や孤児などを見つけることができるだろう。孤児の両親は冒険者であることも多い。物乞いも、珍しくない。


「……あんまり遠くに行くなよ?」


 日は傾き始めていた。迷宮都市は眠らない――とはいえ、夜になれば治安は悪くなるし、明日からの迷宮探索に支障も出る。今のところ赤字続きだが、潜らないわけにもいかない。5人でパーティを組んでいる間は、10層より下に行かないことには利益が出ないのだ。それぞれが、貯金を崩しながら生活している状態だった。


「わかってるわよ」


 そう返されてしまえば、ガロエラはそれ以上言い募ることはできない。行き先を告げずに連れまわしたのは自分も同じだからだ。


 そうして、沈黙を保ったまま歩き続けて数十分。二人は、ある建物にたどり着いた。


「これは……」


 かつて迷宮都市が戦火に巻き込まれたとき、物見塔として建設された石積みの塔だ。『老朽化が激しいため立ち入り禁止』と書かれた立て看板とロープを、エルムが気にせずに潜り抜ける。


「あ、ちょっと待てよ!」


 そのまま振り返りもせずに進んでいくエルムを、慌てて追いかける。何度も来たことがあるのだろう、塔の中を歩いていくエルムの足取りに迷いはない。埃が積もった塔の中。微かに入る日差しが、舞い上がる埃の奥に少女を映し出す。

 黒ローブの少女の後ろ姿は、そのまま闇に消えていきそうなほどに儚げだった。

 見失わないように、慌てて追いかける。慣れた様子で軽やかに進んでいくエルムの背中は、徐々に離れていく。ガロエラは思わず自分の胸を押さえつけた。


(今は、関係ない……!)


 その小さな黒の背中に、かつて見た光景が重なる。すべてを背負って消えていった背中を。決して振り返らず、ただ独りで全てを抱えて去っていった者の姿を。


(また、置いていかれるのか――?)


 震え始めた足に、気合いを入れる。辿りついた扉は、蝶番が壊れていた。そっと手を乗せると、扉は軋んだ悲鳴をあげる。この先に進むな、と言われたようで、ガロエラの足が竦む。


 扉を開ける。目の前に広がったのは、夕暮れに染まる迷宮都市の姿だった。


「これ、は……?」

「驚いた?」


 物見塔のバルコニーというべき場所。戦時には兵士が立っていたであろう場所に、黒ローブの少女は佇んでいた。赤と黄色に染まった迷宮都市を一望できる。


「この塔は、古い古い塔でね。迷宮都市が今のカタチになる前からあるらしいの」

「どうりで……」


 石積みの塔など、造るのも維持するのも大変だ。このあたりはあまり石材が採れないはず。建物もレンガや木造が多い。


 赤と黄色に染まった迷宮都市。いくつか立ち昇る煙は鍛冶屋か、それとも飯屋か。喧騒も遠く、まるで空中から迷宮都市を眺めているような錯覚に陥る。足元には確かな石の感触があるのに。


「私はこの塔の話を、魔術の師匠から聞いていたの。“竜眼の魔女”、リーフェ・ラ・シャフォーン……師匠から受け継がれるはずだった竜眼は、私にもレルムにも顕れなかった」


 エルムは空を見上げる。微かに見える星に手を伸ばし、思い直したように手を降ろす。


「星の並び、星辰の予知……竜眼はそれを紐解く瞳。大地に刻まれた過去を見透かし、宙より来たる未来を見通す竜の瞳」


 ガロエラには何の話かはわからなかった。だが疲れたように口を動かすエルムが、何か大事なことを話しているのだ、ということは伝わってきていた。握り締めた右手が音を立てる。


 空を見上げるエルムから、フードが落ちる。現れた艶めく銀色の髪が、ガロエラの視線を吸い寄せる。エルムは、落ちたフードを直そうとはしなかった。


「これはお礼。私たちの秘密を、ひとつだけ持っておいて」


 首元に差し込まれたエルムの手が、ローブの中に隠されていた髪を引っ張り出す。腰まで届きそうなほど長い髪は、銀から赤へと変遷する不可思議な色合いだった。『移髪うつりがみ』、という言葉がガロエラの脳裏を掠める。だが、そんな言葉は目の前の髪の美しさに比べれば些細なことだった。


 数秒だったか、それとも数分はそうしていたのか。ガロエラは明確な答えを持たなかった。ただわかることは、銀から赤に変わっていくエルムの髪に見惚れていたということだけ。


「ガロエラなら、きっとこの髪を見ても大丈夫だと思ったから。まだいくつか秘密はあるけど、知りたければ私からの信頼を勝ち取ることね」


 背を向けたまま迷宮都市を見つめるエルムの表情は、ガロエラには見えない。けれど、悪戯っぽく微笑んだであろうことは、声の調子を聞いていれば伝わってきていた。


「……結構簡単そうだな?」

「言ったわね。期待してるわよ」


 髪をまとめてローブの中に入れ、フードを被り直す。


(そう……いつかは、きっと――私たちの秘密を明かす時が、来るでしょう)


 ガロエラに隠れ、エルムはそっと額を撫でた。







「どうする、追うか?」


 ヴェンターの問いに、レルムは力なく首を横に振った。


「……いえ。追わなくていいです、見つかるリスクも高いですし」


 それにこの塔を登ったということは――と、誰にも聞こえない声量で呟く。レルムは踵を返し、戸惑いながらもヴェンターたちもそれに続く。


「とりあえず、仲良くはなれたようでなによりです。あとは、ルナリさんにどちらかが相談すれば解決ですね」

「……気付いていたのか?」

「ええまあ。ヴェンターさん――先生の狙いは、『困ったときは仲間を頼る』ことを実感させること。違いますか?」

「間違っちゃいないけどな」


 エルムの魔術制御力。ガロエラの移動能力。この二つ、どちらかさえ解決すればいいのだが、ガロエラの移動能力を解決する方法はルナリが持っている。ただ、あの二人はあまり頭を使うのが得意ではない。1人で悶々と悩んでいたところで、答えは出ない。

 パーティを組んでいるのだ。『仲間に頼ること』は悪いことではない。得意なことで活躍し、苦手なことは仲間に任せればいい――それだけの話である。

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