第二章

第二章

蘭と、つまらないガチンコバトルをして、数分後。一個ため息が出たのと同時に、また吐き気がして、数回せき込み、内容物を出した。自分の毎日は、この繰り返してある。仕方ないとはいえ、むなしい気持ちがしないわけでもない。確かに、薬を飲んでおけば、ある程度抑えられるかなあとは思うけど、お客さんが来ている間に寝ているというのも、どうかなあと思うので、、、。

そうしているうちに、玄関の戸がガラガラと開いて、こんにちは、と挨拶する声も聞こえてきた。確か、客は男性であったはずだが、なぜか女性と、小さな子供の声も聞こえてきた。懍が、いらっしゃい、こちらへどうぞ、と、応答している声も聞こえてくる。

「水穂ちゃん、約束通り、晋太郎さんたち来たよ。どう?起きれる?」

恵子さんが心配そうな顔をして部屋に入ってきた。ちょうど手拭いで手を拭いているところだった。

「その顔から見ると、やっぱり無理かなあ。」

「いえ、かまいません。五年ぶりにこっちへ来てくれたわけですから、挨拶くらいします。」

さすがに浴衣のまま客の前に出るのは失礼なので、急いで枕もとにおいてあった羽織を着た。

「そう?あんまり無理しないでね。」

恵子さんは心配そうだが、水穂は笑ってごまかし、客が待っている応接室に行った。

応接室に行くと、すでに、客は中に入ってお茶でも飲んでいるようだ。懍が、かつての利用者だった、土谷晋太郎と話している声が聞こえる。

水穂がそっとドアを開けて中に入ると、晋太郎ではなく、まだ椅子の高さにも到達していないほど身長の低い少年と目が合った。少年は彼を見て、にこっと笑ったので、水穂も彼に笑い返した。

「あ、どうも、どうもです。もう、五年ぶりですから忘れてしまったかもしれませんね。それに僕、ひと月くらいしかこちらにいませんでしたので、もう、顔も覚えていないかな。ほら、土谷ですよ。土谷晋太郎です。」

「覚えてますよ。その長々しい自己紹介、、、。」

水穂は、確かに土谷晋太郎という名は覚えていたが、ここにいる彼はもし眼鏡をとってしまったら、まったくの別人だっただろうなと思った。それでかろうじて思い出したようなもの。もし、とったら、わからなくなっていた。それくらい変わっていた。というより、老けていた。

「あ、忘れちゃいましたかね。まあ、しょうがない。五年ぶりというのはそういうもんですよね。まあいいや。先生は覚えていてくださったようですので、、、。」

「いいえ、そういう長い演説のようなしゃべり方で思い出せます。」

水穂は、そういいながら応接室の椅子に座った。

「しっかし、変わりましたね。水穂さんも。五年間の間に、ずいぶん窶れてしまったようだ。本当におからだは大丈夫なんですか?」

「見てのとおりです。もう、ダメになってますよ。それより、隣の人は、」

「あ、彼女ですか。妻ですよ。製鉄所を出て、就職したんですが、すぐに結婚しました。」

隣にいた女性が、軽く会釈して、

「妻の富貴子です。」

と、あいさつした。その間、懍と水穂の間をちょこちょこと歩き回っていた少年が、

「こんにちは。」

と、これまたかわいい声で言ったので、懍も水穂も顔を和ませることができた。

「こんにちは。お名前はなんというのですか?」

懍がそう聞くと、

「土谷雅美。」

と、その子は答えた。

「あんまり口に出して言いたくないような名前で、、、。」

水穂がそう言いかけると、懍がそれはいけませんよ、と彼を制した。

「まあ確かに凶悪犯罪者に同じ名前がいたことは確かですが、でも僕が知っている中で、一番いいなと思っている名前をあげたかったので、あまり気にしていません。時代が進めば、あの事件も、覚えている人は少なくなると思いますので。」

晋太郎がそういうので、それ以上追及はしないことにした。強い人間になってほしいからという意味で、わざと変な名前を付ける親も少なくないと聞いたことがある。水穂からしてみたら、悪いあだ名でもつかないかなと、心配になるが、それもあまり気にしていないらしい。

「土谷雅美君ね。お年はおいくつですか?」

「五歳。」

懍の質問に少年はそう答えを出すが、そうなのかと納得はできない箇所があった。本当に五歳なのだろうか?それにしては、やけに身長が低いような気がするが、気のせいかな?

「雅美君は、体が小さいね。でも、平気なの?」

心配になった水穂がそういうと、

「ええ、私も少し心配なんですけど、あとから急に身長が伸びるという子供もいますから、気にしないでとお医者さんも言ってます。」

富貴子がそういうので、ある程度はちゃんとしているのだろうなと、水穂は少し安心した。

「おじさんは、そんな恰好をして寒くないの?」

急にそういわれて、何のことだと思ったが、浴衣を見てそういう疑問を持ったのかと納得する。まあ、今の子供であれば、そう思われても不思議はないほど、浴衣も着物も珍しいものになっている。

「慣れているから平気だよ。」

とりあえずそう答えを出すと、

「そうなんだね。僕はいつも寒いんだよ。」

と、答える雅美君。

「この子は寒さに弱いんです。もう、よく風邪をひいたりするので、もうちょっと強くなってもらわないと困ります。」

富貴子がそういったため、その場はそれ以上言及されることはなかったが、あとで意味がわかる。

「おじさん?」

雅美少年が水穂のほうを見た。

「どうしたの?」

「大丈夫。」

と、笑ってごまかしたが、実際は頭が痛く、我慢していたのである。

「水穂さん、お客さんの前でやるなんて失礼もほどがありますから、やるんだったらどこかよそでやってきてくださいよ。」

懍が小さいけど、ちょっときつい口調でそういった。

「あ、はい、すみません。」

もうそれだけ言って、退散させてもらうしかなかった。晋太郎が、立ち上がって部屋から出ていく様を、心配そうに見ていた。

「大丈夫なんですかね。あれでは本当に大変でしょう。五年の間にああして急激に悪くなってしまうものなんでしょうか。」

「まあ、そうですね。少なくても、救いようがないのであきらめろとしか言えないですね。」

懍は、いつもと変わらないクールな口調であったが、

「先生は、いつも厳しいことで有名でしたけど、ちょっと厳しすぎるのではありませんかね。」

と、晋太郎は言った。

「あ、なぜでしょう?」

「いや、僕も、製鉄所を出てしばらくは、とにかく厳しさなくしてと思っていましたが、結婚して子供が生まれてからはそうでもないなと思うようになりました。あんまり厳しすぎると、かえって子供にはよくないのではないかと思うんです。厳しいことも確かに大切ですが、怖いお父さんという印象を持たせるだけでは、子供は懐いてくれませんので。」

「そうですか。子供と水穂さんとは違います。混同してはなりません。しかし、あなたも変わりましたね。そういうセリフをいうようになったんですから。製鉄所に来たときは、厳しさだけが空回りして、ほかの利用者としょっちゅうトラブルを起こしていたのに。」

懍は懐かしそうに髪をかき上げてそういった。

「まあ、人間ですからね。いつまでも同じというわけにはいきませんよ。時には、意識を変えなければいけない時もあるでしょう。それは、自分の人生観を踏み潰すということではありませんよ。とにかく事実はあるだけで、ほかに何もありません。それだけを考えればいいだけのことです。それに対して感情で甲乙つけてしまうのが、人間の最大の誤算と言えましょう。」

「ええ、そうなんです。先生。ですから、僕たち、今日相談にこさせてもらいました。もちろん先生が、製鉄所にいたときにその言葉を本当によく語ってくださっていたので、何か困難があるたびにそれを思い出して乗り越えるようにしてきましたが、今回、それでは、まったく解決ができない事態が生じてしまったんです。」

「はあ、何でしょうか。お二人で事実を並べても、解決できないのですか?」

「ええ。僕も妻も意見を述べ合いましたが、どうしても意見をまとめることができないのです。」

「わかりました。聞きましょう。」

富貴子が、雅美には聞かさないほうが良いのではという目で、晋太郎に目くばせしたが、懍は彼のことでしたら、本人を立ち会わせないわけにはいきませんと言って、その場に残っているようにいった。それを見て、富貴子は、変わった人だなという目つきをした。

「まあ、僕は見てくれのとおり、正常ではないのですから、とにかく本題にはいることが先です。子供についての相談なら、大人だけで勝手に決めてしまうことこそ、最も彼らの尊厳を傷つける行為ですよ。」

懍は、長い髪をかき上げてとがった耳を見せながら、

「お話なさい。この辺りは住んでいる人も少ないですから、多少、声を荒げても心配はありません。」

と、若い親に向かってそういった。

「ええ、お話しします。実は、雅美の進学先についてなんです。僕自身は、近隣のご家族との友好関係を保っていくためでもあり、また僕自身も平凡な教育しか受けてこなかったものですから、保育園の卒園後は、地元の小学校へ通学させればよいと思っています。それなのに、妻のほうが、安全路線のため、静岡市内の私立学校を受験させてやりたいと言い出しまして。僕は必要ないといったのですが、妻のほうが納得してくれません。なので、先生の意見を伺いたく、今日やってきたんですよ。」

「簡単なことじゃないですか。雅美君本人に聞けばいいだけのことです。雅美君が私立学校へ行きたいといえばそうさせればいいし、公立学校でよいというのなら、そこへ進学させればいいだけです。肝心なことは、彼の一番納得する道へ行かせてあげること。それを少しでも曲げさせるようなことはあってはなりません。それだけのことです。」

晋太郎が、深刻な顔をして悩みを打ち明けると、懍はまたクールな表情であっさりと即答した。

「そうですけど、まだ五歳の子供なんですから、自分の意思でどうのこうのなんて、まだしっかり決定できるわけではありません。親である、私たちがある程度安全面が保障できるところを探してあげないと。でないと、この子の人生が全部だめになります。」

思わずそう言い返す富貴子に、

「いいえ、それはお母さんの人生でしょう。もうその意思が顔に出ていますよ。あなた、雅美君を私立学校に入れて、優越感を持とうとしているのでしょうけど、そのようなことがどれほど迷惑なのか、考えたことは一度もないのではありませんか?」

と、懍はきっぱりと言い放った。

「そんなことありません。私は、この子のためを思って発言したんです。先生だってご存知でしょう?公立学校なんて、先生があまりしっかりしていないとか、生徒があまりやる気がなくて、学力がしっかり身につかないとか、いろいろ問題があるそうじゃありませんか。」

「結論から言ってしまえば、学力は学校内で順位をつけられるだけのもので、何も役に立つことはありません。まあ、上級学校へ進学するための、運転免許と同じようなものだと思ってください。それがあったからと言って、社会に出て得をするようなことは全くありませんよ。そこを理解しておかないと、子育てにおいて、大失敗をすることになります。」

「でも、良い学校へ行ったほうが、安全に生活できるのではありませんか?まだまだ先ですけど、これから就職したりするにあたって、有利になるようなこともあります。だから、そのための教育というものを早いうちから受けさせてあげたいんです。この時代、本当に生きていくのは大変ですから。なるべく、苦労の少ない人生にしてあげたいんです。」

「それは大間違いで、大嘘ですね。お母さん、まず、教育者のほら話を聞くのは一切やめることからはじめてください。それに、良い学校へ行って、安全に生活できるなんて、そんな安全装置は全くありませんよ。よい学校に行こうと行くまいと、災害が起これば皆同じですから。苦労の少ない人生なんて、ただおごり高ぶった、高慢な人間になって、結局孤独死くらいしか迎えられないのが落ちです。もし、彼に幸せになってもらいたいのであれば、苦労を回避させるのではなく、苦労をさせるべきでしょう。いいですか、教育者は、あたかも上級学校に行ったほうが幸せを得られるなんて言いふらしていますが、それは全く根拠のないほら話です。そのようなことは、絶対に実現することはないのですから、子供にそういう神話を早くから植え付けることは、絶対にしてはいけません。そのためには、お母さんが、教育者の大ぼらにたぶらかされないことが大切です。実際、教育者に盲従する大人よりも、教育者の嘘をはっきり指摘できる大人のほうが、子供は尊敬してくれるものですよ。」

懍は、一生懸命丁寧に説明したつもりであったが、富貴子にはわからないようだった。

「ほら、先生もそういってくれているじゃないか。だから、雅美には、公立学校で十分だよ。それに、まだ五歳なんだし、塾に縛り付けたり、家庭教師がついて受験勉強するよりも、虫を捕るとか、魚を飼うとかそういうことをしたほうが、よほど得るものは大きいと思うのだが。」

晋太郎もそういって彼女に意見を出した。

「それに、もうかなり前からだけど、子供が受験に落ちて、責任を取って自殺してしまったことが、ニュースで話題になったりもしているだろ。そんなこと、五歳のうちからさせてもかわいそうなだけじゃないか。そんなこと、高校入試からで十分さ。」

「高校からじゃ遅いわ。早いうちから、そういうことに慣れさせなきゃ。だって、私は職場でもよく思うんだけど、やっぱりレベルの高い学校に行かないと、幸せにはなれないわよ。」

「すみません、お母さん。お母さんの幸せってどういうことでしょうか。例えば、どこかの大会社の取締役にでもなることですか?」

懍がそう聞くと、富貴子は口ごもりながら、

「そういう高位につくとかはできないとしても、暮らしていけるだけの資本があって、良い人と巡り合って、子供作って幸せに、、、。」

とやっと答えを出す。

「ああ、そういうことですか。その程度しか望みがないのであれば、わざわざレベルの高い私立学校へ行く必要はありません。例えば、サッカー選手になるのであれば、それなりの技術を身に着けるために、コーチをつけてもらい、有名なチームに入るなど、訓練が必要になりますが、それがないのであれば、公立学校でも教育は受けられます。それでも、私立学校へ行かせたいと望むのであれば、彼に対して、そこへ行ってどのような幸せが望めるのかを、はっきりと語って聞かせ、納得させるまで説得することが必要です。その時は、ただ、良い人生とかそういう抽象的な表現を使用することは許されませんよ。金持ちになることを説明するのであれば、具体的に何円もらえるのかを言わなければなりませんね。こういう、進学先を親が決定するのなら、まずそこへいくメリットをしっかり語って聞かせること。それができないのなら、単にあなたがエゴで言っているだけにすぎませんよ。」

「そ、そうですか!」

「富貴子、ムキになってはいけないよ。まさしく青柳先生のいう通りじゃないか。君は、やたらに私立学校に行かせたがるが、そこへ行ってどうなるのか質問しても、いつもはぐらかしている。それじゃあ、意味がないよ。」

晋太郎は、妻に向かってまずそういい、

「実のところ、僕もよくわからないのです。なぜ彼女がここまで私立にこだわるか。僕は、別に必要ないと思うし、保育園で知り合った仲の良い女の子と、同じ学校にいけなくさせるのは、かえって寂しいんじゃないかなとも思うので、、、。」

と、本音を漏らした。

「あ、仲の良い友達がいるんですか?」

懍が聞くと、

「うん、美紀ちゃんていうんだ。」

雅美君はしっかり答えた。

「そうなんですか。彼女はどんな子ですか?」

「かわいくて明るい子だよ。」

つまり、美紀ちゃんに彼はなにか思いを持っているのかもしれない。

「はい、美紀ちゃんのお父さんとも仲が良く、僕も釣りに行ったりしたことがあるんですよ。ちょうど、美紀ちゃんのお父さんが、釣りが大好きなものですから。僕も美紀ちゃんのお父さんから、いろんなことを教えてもらいました。」

晋太郎もそういうほど、美紀ちゃんの家とは付き合いが強いということである。

「それに、美紀ちゃんの家だけではありません。僕の家の近所の子供たちは、みんな地元の公立学校へ通っていますし、保育園の同級生にもそこへ通う予定の子が多くいます。ですから、雅美もそのほうが学校生活も楽しくなるだろうし、わざわざたった一人だけ、遠方の学校に通わせるのは、寂しがるのではないかと思うんですよね。妻は、スクールバスなどで同乗する子供たちと仲良くなればいいのではないかというのですが、新たに人間関係を作るのはちょっと難しい気もするんですよね。」

「ええ、そうですね。僕もそう思います。保育園の同級生や、近隣の子供たちと仲良くするのは、ある意味村八分の阻止にもつながりますし。それは間違いではないと思いますよ。それに、大人だって、異民族同士であれば会話ができないということはざらにあるのですから、子供にはさらに難しいというのは言うまでもありません。」

晋太郎と懍はそういうことを言い合ったが、

「なんですか!そういう古い考えは、甘いというか、もう通用しないことに気が付かないんですか!」

と、富貴子がでかい声でいきなり言いだすのである。

「ママ怖い、、、。」

雅美君が、父である晋太郎の足元にくっついた。

「通用しないというか、いつだって同じことですよ。というより、同じでなければなりません。」

懍は、彼女を制するようにそういったが、富貴子はただ自分を馬鹿にしているしか、受け取ってくれなかったようである。

「じゃあ、本人に確認を取りましょう。雅美君、あなたは、お母さんのいう通り、別の学校へ行きたいと思いますか?」

懍が、調査官のような口ぶりで、雅美君に聞いた。

「僕はできれば、美紀ちゃんと仲良く、、、。」

富貴子が怖い顔で彼を見つめているので、最後まで言い切れないようであるが、

「言ってごらんなさい。」

懍は少し優しく、彼にいった。雅美君は、少し悩んでいたようであったがとうとう決断したらしく、

「美紀ちゃんと同じがいい!」

といった。

「ほら、そういっているんだから。君も早く考えを改めろ。」

晋太郎がそういうが、富貴子はやっぱり首を縦に振る気になれないのであった。これを見て、二人の男性は、大きなため息をついた。




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