16
「そうそう。千寿くん、例の件だけど」
千寿、20歳。
高校を卒業して、たくさんのお弟子さんを抱えた。
本人は飄々と日々のお稽古をこなしているが…あたしから見ると少し頑張り過ぎな気がする。
まるで、何かを払拭したがっているかのような…
あたしの心配をよそに、何事も起きる事なく平穏な日々が続いた。
だけど、そんなある日…叔父が晴れ晴れとした顔でやって来て口にした。
例の、桜花の理事長の孫娘さんとの縁談の件だ。
「桜花の理事長の孫娘さん、年末には帰国するそうだから、やっと会うことができるよ」
「…大叔父さん」
「何かね。ああ、もしかして先に顔が見たいかな?ちょうど写真をもらって来たんだよ」
叔父が鞄の中に手を入れようとすると…
「大叔父さん」
突然、千寿が座布団から一歩退いて…頭を下げた。
「…どうした?」
「ばあさまも、父さんも母さんも、聞いて下さい。」
「…千寿?」
その、いつになく…熱のこもった目と声に、その場にいた全員が千寿を見る。
「僕は…」
「……」
「僕は、ギタリストになります」
「!?」
思いがけない言葉に、全員が目を見開いて絶句した。
ギタリスト…ギタリストって…
「大叔父さん、申し訳ございません。縁談はなかった事にしていただけないでしょうか」
千寿が、深々と頭を下げる。
「もっ申し訳ないって、おまえ、それで許されると思ってるのか!?だいたいギタリストだなんて…!!」
叔父が真っ赤な顔で怒鳴る。
それでも、千寿は頭を下げたまま。
「千…」
あたしが声をかけようとすると。
「千寿」
ふいに、母さんが厳しい声で言った。
「おまえは勘当です」
「っ…母さん!!」
勘当って…!!
身を乗り出しかけたあたしを、政則さんが止める。
もどかしくて振り返ると、小さく首を横に振られた。
…どうして…!?
「全く何を考えてるんですか。ギタリストだなんて…ああ、もうおまえはうちにはいりません。どこでも好きな所へお行き」
「ちょ…ちょっと、それはいくら何でも…」
大叔父が慌てて母さんに言ったけど。
「いいえ、あなたにも迷惑をかけてしまって…私は親戚に顔向けできませんよ。千寿、何をしているのですか。早く出て行きなさい」
母さんは…とても冷たい声で言い放った。
その姿と声が…
昔、あたしに向けられたものと重なる。
…これは…愛…だ。
「…お世話になりました」
「お兄ちゃん!!」
部屋を出た千寿を、宝智が追う。
「お兄ちゃん、やだよ!!行かないで!!」
「…ごめんな、宝智」
「どうして?どうして出てっちゃうの?この家が嫌いなの?」
「大好きだよ」
「好きなのに…好きなのに、どうして出て行くんだよ…」
千寿は…泣きわめく宝智の頭を撫でて、ゆっくりとその肩を抱き寄せた。
「…お兄ちゃんさ、確かめたいんだ」
「…確かめたい?」
「自分のやりたいことが、どこまで通用するか」
「……」
「絶対成功して、早乙女を守りに帰ってくるから」
「…本当?」
「うん」
そのやり取りを聞きながら、政則さんはそっと目を伏せて。
母さんは叔父に深く頭を下げた。
「…僕が、継ぐから」
「宝智…」
「うちは僕が跡を継ぐから…」
「……」
「お兄ちゃん…頑張って…」
「…ありがとな…」
「…絶対、成功してね」
「ああ…父さんと、母さんを頼むぞ」
「うん」
宝智の決断を耳にした叔父は、それはそれで喜んだ。
千寿の縁談はなくなったが、宝智にいい話を持って来てやる。と、意気込んで帰って行った。
政則さんと母さんは『懲りない人だ』とつぶやいて、それぞれ…冷めたお茶を口にした。
「…千寿」
ほとぼりが冷めて部屋を覗くと、千寿は荷物をまとめていた。
…本気なんだ…と、少し胸を突かれた。
「…おばあさまを恨まないでね」
小さく言うと。
「わかってる。大叔父さんの手前だろ」
あたしより…察しのいい子だ。と、笑いが出た。
「それにしても…弾けるの?」
あたしの問いかけに、千寿は髪の毛をかきあげて。
「弾けなきゃ、こんな大それたこと言えないよ」
今まで見た事のないような…スッキリした表情を見せた。
「ギター、持ってるの?」
「…実はさ、四年生の時、お茶会さぼってギター買いに行ったんだ」
「……」
あたしが呆れた顔で見てると。
「…幻滅した?」
遠慮がちな、目。
「…複雑な気持ち」
「そっか…」
「何をバカな事をって気持ちと、やっぱり……って…」
「……」
「どこに隠してるの?ギター」
あたしが問いかけると、千寿は照れくさそうに椅子にあがって天井板を外した。
「…天井裏に?」
「うん」
天井裏から取り出されたギターは、茶色いケースで。
あたしはそれを持った千寿を不思議な気持ちで見つめた。
「…どんなギターか見せてもらっていい?」
「…ん」
千寿がゆっくりとケースを開けて出したギターは…懐かしいレスポール。
「…レスポールね」
「よく知ってるね」
「…あの人と同じ色だわ」
「実はね、ギターの事なんてわかんなかったから、同じのを買ったんだ」
今までお茶を点てている姿しか見ていなかった。
あたしの知らない千寿。
だけど…おかしなほど、あたしは今…ホッとしている。
「…だから、音叉なんて持ってたのね?」
「まあね」
「でも、あれ使う人少ないんでしょ?」
「中学生にはあれで充分だったさ」
あたしは、思い出をたどるように…ギターを眺める。
これと同じギターを持った彼が笑う。
その隣で、あたしはいつも笑顔だった。
丹野さんが亡くなって、ギターを弾かなくなった彼のその後を…あたしは知る由もない。
だけど…
千寿がギターを弾いている事で、彼も元気でいる気がした。
「…母さん」
「ん?」
「あの…」
「何?」
「……」
千寿は、何か聞きたそうな顔をしたけど。
「…何でもないよ」
ギターを、おさめた。
…こんな事になって、初めて…千寿を近くに感じた。
親としては残念だけど…形はどうであれ、千寿が幸せならそれでいい。
あたしは手にしていた巾着袋を千寿に渡す。
「これは?」
「あなたにと思って」
巾着の中を見た千寿は顔をしかめて。
「通帳って…何、いいよ。僕も少しだけど貯金くらいあるから」
と、それをあたしに返した。
「いつか、あなたが彼に会いに行きたいって言ったら…って、貯めてた物なの」
「……」
「使ってちょうだい」
「嬉しいけど、いらない」
「千寿」
「すぐには会うつもりないよ。実は、バンドにスカウトされてさ…」
「スカウト?」
「うん。まだアマチュアだけど…いつか、そのバンドで有名になったら自力で会いに行くから」
「……」
「今、こんなままで会いに行ったって、何か…情けないし。僕、まだ何もしてないしね。それは母さんが羽を伸ばすためにでも使って」
「……」
いつの間に、こんなに成長したんだろう。
「…ずっと、おとなしくて人見知りの激しい子だと思ってたけど…こういう頑固なところは彼にそっくりね」
「似てる?」
「…似てるわよ」
涙が溢れてきて。
「ちゃんと、連絡するから…」
千寿が、あたしの肩を抱きよせる。
寂しくて苦しくて…まるで、あの人と別れた時のように…
だけど…間違いなく、胸の奥に刺さったままだったトゲは…取れた。
「…これだけ、受け取って」
あたしは、指輪を千寿に渡す。
「指輪?」
「あの人が、くれた唯一の物」
「…そんな大事な物、もらっていいの?」
「…あたしたちは結ばれなかったけど…きっと、この指輪が千寿とあの人を会わせてくれるわ…」
「……」
千寿は、指輪を受け取ると。
「心強いな」
小さく笑った。
「あなたは、自由よ」
涙を堪えて言うと。
「僕は…父さんも母さんも、ばあさまも宝智も…みんな大好きだから…」
千寿は…涙まじりの声で言ってくれた…。
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