15
「ねえ、母さん」
五年生になる
突然ニコニコしながら、あたしの腕にしがみついた。
宝智は五年生のわりに小柄で、こちらもつい…まだまだ幼子のような接し方をしてしまう。
千寿は小さな頃から同級生より少し身長の高い子で、だからなのか…こうやって宝智のように誰かに飛びついて来たり、甘えたりする子ではなかった。
だけど宝智は、千寿がそうしない事で家族みんなが寂しいとでも思っていたのか…
何人分も。といった感じで、みんなに抱き着いて来る。
「なあに?嬉しいことでもあったの?」
あまりにも宝智の仕草が可愛くて、猫のように首元をくすぐる。
今にも『にゃ~』と声を出しそうだ。と笑っていると…
「お兄ちゃんがね」
「千寿?」
「うん」
「千寿が、どうかした?」
「最近すごく優しい顔するの、知ってる?」
宝智の言葉に、目元を緩める。
確かに。
桜花の高等部二年になる千寿は、最近柔らかい表情を見せるようになった。
それに、この春休み…よく出かけている。
相変わらず郵便局だろうと思っていたが…
それにしては、ちょっと時間が長い。
宝智はお兄ちゃん子で、千寿も宝智をとても可愛がってくれる。
無口で無愛想なのは相変わらずだけど…
「何かいい事でもあったのかしらね」
頭を撫でながら言うと。
「昨日、公園で女の子と一緒に座ってたよ」
宝智は思いがけない言葉を口にした。
「…女の子?」
「うん。お兄ちゃん、すごく楽しそうに笑ってた」
「…千寿が?」
「うん」
「……」
「お兄ちゃーんって言おうかなって思ったけど、僕、同級生も一緒にいたからさ」
「そう…」
千寿が楽しそうに笑う相手…
それは、きっと…好きな人だろう。
でも、あの子には…
「宝智、この事、誰にも言っちゃだめよ?」
あたしが真剣な声で言うと、宝智は。
「えっ…?う……うん」
戸惑いながら、頷いた。
千寿と同じ歳だった自分を思い返すと、それはもう恋でしかない気がした。
…千寿には婚約者がいる。
だけど、それは早乙女のための相手でしかない。
もし…千寿が普通に恋をしたならば。
あたしは、それを応援するだけだ。
* * *
それから、平穏な日々が続き。
庭でもセミの声が賑やかになって来た初夏。
「きゃあ!!奥様…!!奥様ーっ!!」
ヤエさんが玄関先で悲鳴を上げた。
何事かと走って向かうと…
「っ……千寿!?」
そこには、顔中あざだらけの千寿がいた。
「…ただいま」
「た…あなた、その顔…」
顔に触れようとすると、体ごと離れて。
「…言っておくけど、これは僕が悪いんだ。だから…学校とか警察とか…とにかく、どこかに連絡するような事はやめて」
千寿は低い声で…らしくない早口でそう言うと、足早に二階に上がってしまった。
それ以降、部屋に閉じこもって…食事も取らなかった。
「やはり警察に…」
珍しくオロオロとする母さんに。
「本人が連絡するなと言ってる事ですし…数日様子を見ましょう」
そう言ってくれたのは政則さんだった。
翌朝、青く腫れた目元や、切れて赤くなっている口元を隠す事なく…千寿は食卓に着いた。
宝智は何か言いたそうに、だけど怖くて言葉を飲み込み。
あたしは…黙々と食事をする姿を見守るしかなかった。
千寿と宝智が登校し、洗濯物を干して、午後からは母さんと和室で茶器の手入れをしていると…
「奥様、お電話です」
ヤエさんが子機を持ってやって来た。
「はい、早乙女でございます」
『あ、早乙女君の担任の野上と申します』
ゆっくりと和室を出て、誰にも会話を聞かれない場所へと移動する。
「いつもお世話になっております…」
もしや、昨日のケガの事で…?
一気にのどが渇いた気がした。
『実は…』と何か真相が語られるのか、それとも今現在の千寿の様子が語られるのか…と、担任の言葉を待っていると…
『本日、早乙女君はお休みですが、どうされましたか?」
…え?
一瞬頭の中が真っ白になった。
だけど、咄嗟に…
「…申し訳ございません。うっかり連絡するのを忘れておりました」
ゆっくり、丁寧に言った。
「今日は、体調不良で病院に行かせています」
『そうですか。いや、初等部からずっと休まれていない生徒さんなので、何かあったのかと心配になりました。それで…体調の方は…』
「あ…ええ…少し風邪をこじらせまして…」
『夏風邪は治りにくいですからね…お大事になさって下さい』
「ありがとうございます」
電話はそこで終わった。
盛大に溜息を漏らすと、背後に母さんがいた。
「学校に行っていないのですか」
「…いったい…どこへ…」
過保護かもしれないが…千寿はずっと平穏に過ごして来た。
あたしが学生の頃に経験したズル休みや授業をサボるなんて事は…皆無だ。
それだけに、昨日のあざも…今日の不登校も…心配でしかない。
「坊ちゃま!?」
ヤエさんの声が聞こえて、あたしと母さんは玄関へと向かう。
するとそこには…長い髪の毛をバッサリと切った千寿がそこにいた。
顔の傷は…増えてはいないようだけど…
「…どうしたの?」
「……」
「千寿」
「何でもない」
「何でもないって…あなた、昨日は顔中あざだらけで帰って来て、今日は髪の毛よ?何でもないって事はないでしょう?」
「…悪いけど、一人にしてほしいんだ」
千寿はそう言うと、足早に自分の部屋に向かった。
何も言えないまま、その後ろ姿を見ていると…
「…どうした?」
会社に行っているはずの政則さんが、帰って来た。
「え?どうしたの?」
政則さんを見て、柱時計を見る。
「ああ…ちょっと、昨日の今日で千寿が気になってね。仕事が手に付かなくて帰ってしまった」
そんな政則さんにホッとしたのか、母さんは少し口元を緩めて。
「お茶にしましょうかね…」
ヤエさんと台所に歩いて行った。
「…千寿も、今帰って来たの」
「え?」
「学校、行かなかったみたい…」
あたしは担任から電話があった事や、帰って来た時の千寿の様子を政則さんに話した。
それを聞いた政則さんは…
「…話して来よう」
「政則さん…」
「これでも、私は父親だからね」
「……」
信用していないわけじゃない。
今までも政則さんは千寿によくして来てくれた。
だけど…
だけど、どこかで。
千寿とは血が繋がっていないから…と、思ってしまっているあたしがいる。
千寿の部屋に向かった政則さんを、あたしは…こっそりと追う。
こんな事、母としても妻としても失格かもしれない…と思いつつ、ドアの外で聞き耳を立てる。
『どうした?』
『……』
『あんなにきれいだったのに、もったいないこ事したな』
『髪の毛は、また伸びるよ…』
『…千寿』
『……』
『これだけは、言っておきたい』
『……』
『おまえの人生は、早乙女のためじゃない』
政則さん…
『何か目指す物があるなら、それに向かってもいいんだ』
『……』
千寿は、しばらく何も言わなかった。
それでも、何か言いたそうな気配は続いて…
『父さん…』
静かに、声を出した。
『ん?』
『僕、嬉しかったよ』
『?』
『父さんが、僕のことを叔父さんに言ってくれた時…』
『……』
『僕は家族が大好きで…お茶も大好きだけど…でも…』
『…浅井さんのことか?』
『っ…』
!?
政則さん!?
『手紙のやりとりを、しているんだろう?』
『ど…どうして…』
『私は、おまえがあの人に影響されるのは当然だと思う』
『……』
『彼の生き方は、男の私から見ても憧れるよ』
『父さん…』
『好きな事をしなさい。好きな女の子ができたなら、婚約の事もちゃんと私が断わるから』
『…父さん、もう充分だよ…』
『千寿?』
『いいんだ…』
『……』
あたしは、そっと部屋をのぞく。
政則さんが、千寿の肩に手をかけて。
「私は、ずっとおまえを息子として愛してるから…」
そう…つぶやいた。
すると千寿は。
「…僕もだよ、父さん」
涙声で…そう言った。
あたしは、流れそうな涙を我慢して部屋を離れる。
政則さんは、千寿とあの人の文通を知っていた…
それでも、千寿を息子として…愛してくれている。
…もしかしたら、丹野さんの事件も…知っていたのかもしれない。
あたしは、素敵な人と結ばれた。
血の繋がりなんて関係ない。
政則さんは…千寿を息子として愛してくれている。
…今になって気付くなんて…
縁側に座って庭を眺めながら涙を拭うと。
「大丈夫そうだ」
政則さんが、隣に座った。
「…ありがとう」
「しばらくは沈んでるかもしれないって、自分で言ってたけど」
「…何かあったのね?」
「あったんだろう。でも、それは聞かない方がいい。今はそっとしておこう」
「…政則さん」
「ん?」
「……」
政則さんの肩に頭を乗せる。
「…どうかした?」
「ううん…頼りになるなと思って…」
しばらく、そうやって過ごしていると。
「…涼」
「ん?」
政則さんが、静かに言った。
「宝智が見てるよ」
門を見ると。
「あつあつだね」
学校から帰って来た宝智が、ニヤニヤしながらこっちを見ていた。
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