07

「あ、父さん?あたし、今日友達のとこ泊まるから」


 ピアノの稽古が終わった後、なんとなく帰るのがイヤで家に電話をした。


『え?どうして』


「…ちょっと、勉強でもしようかって」


『愛美が?嘘だろ。いい事があるから帰っておいで』


 父さんはいつもより少し高めの声で言う。

 …何だろう?


「とにかく…今日は帰らない。晩御飯も要らないから」


『でも―…お向かいの尚斗君が帰国して、今うちに来てるんだぞ?』


 父さんは、これならどうだ!!とでも言わんばかりの、ウキウキしたような声で言った。


「…尚斗さんがいるんなら、ますます帰んない」


『どうした…?あんなに尚斗尚斗って言ってたのに』


「いっ…言ってないわよ」


『いいから、早く帰っておいで』


 いくら…大好きな父さんの言葉でも。

 聞けない時もあるのよ。


「…帰らないから」


『そう言わずに、早く帰っておいで。尚斗くん、愛美に会いたいって待ってるから』


「…尚斗さんなんて、大嫌いなんだから。あたし、もう会いたくないの」


『こら。ダメだ。帰って来なさい』


「帰んないんだってば」


『帰んなさい』


「……」


 珍しく…父さんが語気を強めた。

 いつも優しいから…たまにこんな事があると…怖い。



『いいな?すぐ帰るんだぞ?』


 父さんが、キッパリ言った。


「…わかった…」


 小さくつぶやいて、受話器を置く。

 …憂欝だな…


 トボトボと歩き始めると、小雨が降り始めた。

 あー…傘、ないや。

 ま…いっか。


 雨はだんだん本降りになり始めて、あたしはびしょ濡れに。

 家に近付くにつれ、足取りも重くなってきた。


 …会いたくないのに…どうしてうちになんか来るの…

 冷たく突き放した。

 なのにどうして…



「愛美ちゃん!?」


 ふいに玄関が開いて、傘を持った尚斗さんが出てきた。


「今、迎えに行こうと思ってたんだ…ああ、びしょ濡れじゃないか」


 あたしは、尚斗さんがさしだした傘を払い避ける。


「……」


「……」


「…ずいぶん嫌われたようだね」


「……」


 尚斗さんは、傘を拾うと。


「でも、理由だけでも聞かせてくれないかな」


 って、小さく言った。

 理由だなんて…

 結局は、あたしの一人よがりよ。

 だけど…


「尚斗さんが、いけないのよ」


「……」


「あたしさえよければ、結婚するって言うから…」


「…愛美ちゃん…」


「あたしは、あの日からずっと…尚斗さんのお嫁さんになることだけを夢見てたわ。あたしの人生は、尚斗さんが作ってくれるのって」


「……」


「だけど、尚斗さんはそうじゃなかったのよね。ただ子供の頃の話…なのよね」


「それは…」


「あたし、ばかみたい。彼女いるんじゃないかなって…少しは思ってたけど…」


「……」


「もう、いやなの。そんなあたしに気付かなかった尚斗さんも、尚斗さんのこと、こんなふうに思うあたしも」


 あたしは、空を仰ぐ。

 雨で流れてしまえばいいのに。

 こんなドロドロした気持ち…



「ずっと、尚斗さんのことしか考えてなかったけど…今、結構楽しいのよ。ピアノの先生だってカッコイイ人だし…次の合コンだって美形揃いって…」


「……」


「カッコイイ人見つけて、結婚するから…あたしのことは、ほっといて」


 何か言ってよ…

 そう、諦めの悪いあたしが、少しだけ顔をのぞかせる。


「それだけ。もう、いいでしょ?」


 あたしがそう問いかけても…尚斗さんは、何も答えてくれなかった。


「じゃあね」


 あたしは、尚斗さんを残したまま家に入る。


 …何も言ってくれなかった。

 それって、もう完全にあたしとの事は『ない』んだよ。

 ちゃんと理由を伝えた上での無言は拒絶と同じだよね。

 …ついに…完全に諦めなきゃいけないよね…



 タオルで頭を拭きながら部屋に入って外を見ると、まだ…立ち尽くしてる。

 …世界のスターなのに、風邪ひいたらどうするのよ。


 あたしはそんな事を思いながら、カーテンを閉める。

 もう…関係ない。


 夢も恋もリセットよ…。

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