アル・スハイル 6
気が付くと、ジニアスが、私の傍らで私を見つめていた。
「コゼット」
「私……」
みなれた研究所のジニアスの仮眠用のベッドだ。やわらかなランプの光が揺れている。
私は、ジニアスの着替え用のシャツを着ているらしく、パリッとしたのりの感触が素肌に少し痛い。
「今、屋敷に連絡した。ベラが、着替えを持ってくるまで、寝ているといい」
「でも……」
いくらなんでも職場の上司のベッドで寝ているわけにはいかない。私は慌てて起き上がる。
身を起こすとあちこちが痛んだ。痛みとともに、無理やりに組み敷かれた時の恐怖が蘇ってくる。ガタガタと身体が震えはじめた。
「大丈夫だ。もう、大丈夫だ、コゼット」
ジニアスは私を抱き寄せた。ジニアスの手が、優しく私の背を撫でる。
「遅くなって悪かった。場所はすぐにわかったのだが、ワイズナーに連絡するのに手間取った」
ジニアスの胸は広くて、そして暖かい。
バーダンの手で触れられた時は、嫌悪しかなかった。
ラッセネクに引き寄せられた時は、緊張しただけだった。
どうして、ジニアスの体温は、こんなにも私に安らぎを与えるのだろう。
でも――このぬくもりは、私のものじゃない。
「もう、大丈夫です……ありがとうございます」
私は、ゆっくりとジニアスの胸に手を当てて、身体を離した。
「あのあと……どうなったのでしょうか?」
ワイズナーがやってきて、ジニアスに抱きかかえられたところまでは、覚えている。
「ラッセネクは、かなり重度に術にかかっていたから、治療院にサネス先生が連れていった。事件の取り調べは、ワイズナーが始めている」
ジニアスは立ちあがり、水差しの水をカップに注ぐ。
「もうすぐ、夜明けだ……アル・スハイルが始まる」
私は差し出されたカップを受け取り、水を飲んだ。
「大丈夫でしょうか?」
私がそう言うと、ジニアスが優しく頷く。
「あの研究室で、恋愛成就の石の他に、生気を集めるための黒魔術用の水晶球がみつかった。物的証拠が見つかった以上、グラズーン家といえども、言い逃れはできないだろう。軍も放置は、できない状態だ。さすがに、孤児院の事件を解明するのには時間がかかるだろうが」
「そうですか」
私は、胸に手を当てて、ホッと息を吐く。
「コゼットが身体を張ったおかげだ。俺がもっとしっかりしていれば、怖い思いをさせずに済んだのに……すまん」
ジニアスが私の髪を優しく撫でる。そんなことはない。来てくれて、本当に嬉しかったのだ。
「ジニアスさまも、パーティに参加なさるのに、ずいぶんご苦労なさったとベラさんにうかがいました」
言いながら、『婚約』という言葉が頭によぎる。
「ああ。ライナル・グラズーンは、兄貴のグラッド・フェランと主義主張どころか、人間的にも全く合わないらしい。どう考えても、フェラン家の人間として潜りこむのは不可能で、ずいぶん苦労した」
それで、楽団として入り込んだのか、と思う。
「アレシア・カレドニさまとご婚約なさるとうかがいました」
おそるおそる発した言葉に、ジニアスは、「ああ」と頷いた。やっぱり、と思う。胸が張り裂けそうに感じた。
ジニアスは、大きく息を吸いこみ、私を見つめた。
「それもあって、俺は、今の屋敷から出ようと思うのだが……コゼットに頼みがある」
「私に?」
声が震えそうだ。
「毎日……その、コゼットに料理を作ってもらいたい」
「料理?」
私は思わずジニアスを見る。
「いっしょに……住んでほしいんだ」
それは、私に住み込みの料理人として働いてほしい、ということなのだろうか。
「え? あの……助手の仕事は?」
ためらいがちに口を開く。
「もちろん、続けてはもらいたいけど……」
おろおろとジニアスが答える。どこか落ち着かない。私が助手の仕事を気にするとは、思っていなかったようだ。
よく考えたら、今だって、私はほぼ料理人である。
孤児院の事件の犯人がわかったのであれば、私が監察魔術院にいる必要はない。もう、私が『魔術が使えない』ことを世間的に隠す意味はないのだ。ジニアスとしては、私を適所に据えたいと思ったのだろう。
「……少し、考えさせてください」
私はようやくそう答えた。
「わかった」
ジニアスは、結論がすぐに得られずに、がっかりしたように肩を落として、仮眠室を出て行った。
ジニアスにはジニアスの幸せがあって。それは私には手が届かないものだ。そして、どんな形でも、そばにいたい。そう願ったのは、事実だ――でも。
涙が頬をぬらす。
「ジニアスさまの……バカ」
唇から、言葉がこぼれる。もう気持ちに、蓋をすることはできなくて。
私はベッドの上で膝を抱えた。
ベラがやってきたのは、ジニアスが去って、しばらくしてからであった。
彼女は、涙のあとのある私を見て「辛い思いをされましたね」と言った。
彼女の言う、「辛い思い」で、泣いていたわけではないが、本当の理由を話すことはできない。
「今日はアル・スハイルですから」
ベラが差し出したのは、美しい白の祭り用のドレス。胸元に薄紅色の花の刺繍が施されている。この前のものではなく、どうみても『新調』したものだ。
胸元が大きく開いて大胆なデザインなのはいっしょだが、上等な布で仕立てられていて、どこか上品さが漂う。
「奥さまからですわ」
にっこりと、ベラがそう言った。
奥さま、ということは、ジニアスの母から、ということだろう。
「こんな素敵なドレス、頂く理由がありません……」
私がそう言うと、ベラは私の髪をくしけずりはじめた。
「奥さまは、ジニアスさまが女心をわかっていないと、いつもおなげきですの。パーティに制服で引きずっていくなんて、本当にヒドイと怒っておられて」
「……それは、仕事のお話ですし、ドレスはもう、昨日、素敵なものをご用意してもらって……ダメにしてしまいましたが」
ベラは私の表情を見て、慌てたように首を振った。
「あれは、お仕事用ですわ。それに、ゲス野郎を……失礼しました……無体な男性を憎みこそすれ、コゼットさまに非があるなどとは、誰も思っておりません」
「でも……」
「このドレスは、奥さまからのプレゼントですわ。ぜひ、コゼットさまに着てほしいと。そして、できれば、お姿を見せてほしいとのことです」
「わかりました。奥さまにありがとうございますとお伝えくださいませ」
私は、観念してそのドレスの袖を通す。何もかもが私に合わせた形で、泣きたくなるくらい、素敵なドレスだ。
「それでは、良き、アル・スハイルを」
ベラは、良い仕事をしたという顔をして、部屋を出て行った。
私は手鏡に、自分の姿を映す。目が少し腫れている。
せっかくのドレスが台無しだな、と思う。
私は、ゆっくりと研究室の方へと続く扉を開けた。
見慣れた執務机。奥の実験室には、魔道具が並んでいる。
珍しく執務机で、ジニアスが書類を書いていた。ジニアスは、私を見て、目を見開いた。
「奥さまから、いただいてしまいました」
私はうつむく。
「……すごく綺麗だ。コゼット」
「でも……これでは、仕事が出来ません」
私がそう言うと、ジニアスは首を振った。
「今日は、俺もこれで終わっていいと、サネス先生から言われている。というか、ちょっと派手にやりすぎたから、一応、謹慎という名の休暇をもらった」
「申し訳ございません」
監察魔術士が事件の現場で魔術を派手に使うというのは、やはりよろしいことではない。
「コゼットが謝ることは何もない。俺が勝手にやったことだ」
「でも――」
ジニアスはペンを置いた。
「やめろ。コゼット。謝るのは俺の方だ。お前に怖い思いをさせたのは、俺の方なのだから」
ジニアスは小さく首を振って立ち上がり、私の傍らに立つ。
「これ……コゼットに返す」
ジニアスは、私の手のひらにブラウンの石のペンダントを載せた。
「ありがとうございます」
私は複雑な思いで、手のひらの石を見つめる。もはや、買った時とは別のモノになったと言っていいシロモノである。
私は、このペンダントをまだ、つけていいのだろうか。
ジニアスの瞳の色をした、ジニアスの魔力をまとった、この石に、願掛けをしていいのだろうか。
「私……今まで、ジニアスさまに甘えてばかりでしたね」
手のひらのペンダントの石をそっと指で撫でる。冷たい感触だ。
「コゼット?」
「助手として役に立たないのなら、正直にそうおっしゃって下さればいいのに」
恨み言なんて、言うつもりはなかったのに。想いが口からこぼれた。
「俺は、そんなこと、思ってない」
ジニアスがびっくりしたように私を見る。私が何を言っているのか、わからないようだ。
「だって……料理をしろと」
私は、手のひらを握る。声が震えた。
「私は、助手としてお役にたてないのは、事実です。でも、住み込みは、やっぱり無理です」
「住み込み?」
ジニアスの顔が怪訝そうにゆがんだ。
なぜわからないのだろう。
「今回の事件が落ち着いたら……お養父さんに頼んで配置がえをお願いしてみます。私を欲しいという方がいらっしゃらなければ、監察魔術院をやめます」
頬に涙が再び流れる。
「コゼット、お前、何を言っている?」
ジニアスが、私の両肩に手をのせた。
「俺は、一緒に住みたいと言ったが、住み込めとは言っていないぞ」
「同じことではないですか! 無理です……奥さまと一緒のジニアスさまを四六時中見ているなんて、私はジニアスさまのことが……」
「え?」
ジニアスの動きが止まる。
「奥さまと一緒の俺を、コゼットが見る? 何を言っているんだ?」
「だって、ご婚約が決まったと」
そう言いかけると、ジニアスは、大きく息を吐き、それから、私のあごに手を当て、私の顔を自分へと強引に向けた。
「アレシア・カレドニと婚約するのは、兄だ。俺じゃない」
ジニアスのブラウンの瞳に捕えられ、私は胸が痛くなるほど鼓動が大きくなった。
「お、兄、さま?」
言われた意味を咀嚼する。
それでは、いっしょに住もうって。料理をつくってというのは?
「俺はコゼットが好きだ。妻にするならコゼット以外は考えられない」
ジニアスは片手を私のアゴにそえたまま、反対の手でグイッと私の腰を引き寄せた。
信じられない言葉に、頭が真っ白になり、先ほどとは違う種類の涙が頬を伝っていく。
「イエスなら、そのまま目を閉じて」
言われるがままに瞳を閉じると、唇に柔らかいものが押し当てられた。
サネスの部屋に行くと、ワイズナーがいた。
これから、グラズーン家そのものの捜査に入るらしい。
軍の魔術部隊の研究施設にも、査察が入るそうだ。逮捕者は相当数出る可能性が高い。
「この忙しい時に、謹慎とは……」
ワイズナーは、ジニアスを睨みつけたものの、「良き、アル・スハイルを」と言って、仕事に飛び出して行った。
「なんとかまあ、無事、祭りが行われそうだ」
養父はふうっと私とジニアスに笑みを向ける。
「ま。何かあったら困るから、ふたりで会場を視察しておいてくれ」
そして、サネスは忙しそうに書類に目を落とした。
その後、治療院に寄って、ラッセネクを見舞った。二、三日の療養は必要だそうだが、外傷や後遺症は残らないそうだ。彼は、随分、私を守れなかったことで自分を悔いていたが、彼がいなければ、今回の作戦は成立しなかった。私がそう言うと、ラッセネクは、「失恋は確定ですが、母のかたきうちは、出来ましたかね」と、苦笑した。
そうして、あちらこちらを歩き回ったのち、私とジニアスはアル・スハイルの祭りを楽しんだ。
海の見える丘の上で、陽気にダンスを踊った。
夕日が沈むと、恋人たちのダンスは、しっとりとしたものに変化する。
夜の帳とともに、街路灯に、点灯師たちが明かりを入れはじめ、街に光がちりばめられた。
「カレドニ家は、確かに、最初は俺を婿に取りたいと思っていたらしいのだが」
ジニアスは私を腕にからませながら、夜の街を歩く。
「うちの兄貴が、たまたま、パーティでアレシアと出会ってね」
クスクスと面白そうにジニアスが笑う。
「兄貴は本当に、カタブツなんだが、ひとめぼれだったらしい」
ジニアスの兄は、ジニアスより3つ上。結婚していないとは知らなかった。
「とにかく、兄貴は恥ずかしいくらい猛アタックをした。このまえの晩餐会は、そういう話があった後、婚約式なんかの打ち合わせでね。兄貴が忙しいから、俺が代理ってことで」
「そう……なのですか?」
でも、アレシアはジニアスを好きだったのではないのだろうか?
「アレシアが興味を持ったのは、俺じゃなく、俺の『研究』だよ、コゼット」
私の考えを読んだのか、ジニアスはそう言った。
「それに、彼女は、俺がコゼットに惚れていることくらい、気が付いていたから」
ジニアスはほんの少し、肩をすくめた。
「本当ですか?」
「ああ。たぶん、俺の気持ちに気が付いていなかったのは、コゼットだけだと思う」
ジニアスは不服そうに言いながら、街路の裏路地に私を引っ張り込んだ。
突然の侵入者に驚いた野良猫が、ニャアと抗議の声を上げる。
月が天に輝き始めた。青白い月明かりの中、ジニアスは、私を壁に押し当て、私の唇を激しく吸い始めた。あまりに甘くて、激しい抱擁に頭が痺れてきた。とろけるような甘美な痺れだ。
「俺は、ずっとコゼットしかいないと、言い続けていたのに」
言いながら、ジニアスの手が、私の胸にのびる。
「ジニアスさま……」
自分の声とは思えない甘い声が唇から洩れた。
「コゼット」
ジニアスの指が、私の太ももに触れる。
「今日は、帰さない」
耳元で甘くささやかれ。
青い月が、ジニアスの肩越しに見えた。
了
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