二重似:本当はただそれだけ

 夢を視て。そしてそこから引き揚げられる度に毎朝絶望していた。嗚呼、また生きてしまったと。夢のなかがあたたかくやわらかく、まるで泥濘に沈み溶け込んでいくような安堵感をもたらすものだから尚更。

 けれどそれを隠せぬほど、無能なつもりはなかった。ずっとずっと、物心つく前からやってきたことだ。笑顔で隠す。何にも傷付いてなどいないように振る舞う。自分のなかで一番良いとされる表情、仕草、身体の動き。指先の角度ひとつまで整える。出来ないはずがない。だって今までだって散々やってきたことだ。


「ロブソンさん、こんにちは」

「おお、お嬢様、今日もよろしくお願い致します」

「こちらこそよろしくお願いします」


 ぺこりと頭を下げて、微笑む。目の前にいる白髭を蓄えた体格の良い、如何にも英国紳士―ただしおなかがぽっこり出ている―といった風情の男性もつられて笑う。初対面は厳めしい表情でさも頑固親父といった印象だったのに。ぽっこりとしたおなかとつやつやのほっぺたで厳めしさは微塵も感じられない。

 厨房に入ったらまず手を洗う。そして専用となった薄い水色のエプロンをつける。髪の毛を纏めるように三角巾をつけて、もう一度手を洗う。


「さてお嬢様、こちらが兎肉ですわ」


 俎板の上に乗せられた薄いピンク色の肉。所々黄色みがかった脂身が付いているが、豚や鶏などよりももっと少ない。


「これが兎……」


 初めて見るものだ。兎と言えば人参を齧っているイメージしかない。皮を剥いで剥き身になっている分、現実味が遠い。


「どうやって食べるんです? 焼くとか?」

「もうちょっと肉付きが良ければ焼いてもイケるでしょうなぁ、でもこのくらいの大きさならパイにしちまうのが一番でしょう」

「パイ!」

「おお、お嬢様がお好きなら良かった良かった」


 はっはっはっ、と笑うロブソンのおなかがぷるんぷるんと揺れる。


「ロブソンさんのパイはサクサクとろーりで美味しいですもの! 楽しみ!」


 英国に来たばかりの頃、和食が恋しくて恋しくてたまらなかった。けれど別に英国料理がひたすら不味いとか口に合わないとかじゃなかった。確かに大味でなんか足りない、もうちょっとあと一味欲しいとは常に思っていたけれど。

 長年この屋敷の料理人を務めているロブソンが作るパイは絶品だった。某映画で有名なニシンのパイも、中身はふんわりとろり、表面はサクサク。アップルパイや腎臓キドニーパイだって臭みや苦みも少なく小さめに作られたそれはさっくりと食べきれてしまう。元々のレシピでは臭みを完全には取り切れないらしいが、下拵えの段階で手間暇をかけることで臭みを減らしているのだという。料理人のこだわりらしい。


「じゃあ、まずはこの兎を焼くんですがね、兎ってやつは結構味がシンプルで淡い鶏肉みたいなもんだと考えてくれりゃ解りやすいですかね」


 俎板の上の肉をひっくり返しつつロブソンが説明し始める。

 なるほど確かに、牛や豚、鶏などといった馴染み深い家畜よりも表面にある脂身が少ない。どちらかと言えば皮身を取ったあとの鳥胸肉のような印象だ。


「このままだと味が薄いうえにパサついちまうからベーコンの脂で焼いて旨味と脂身を足しやしょう」


 温められたフライパンに放り込まれたベーコンの脂身がちちち、と焼ける。じゅわじゅわと音を立てながら縮まっていき、甘い芳香が広がる。そこに刻んだベーコンを入れて軽く炒め、十分に油が出きったところで兎肉を入れる。強火で焼き目を付けて、肉は鍋へ。


「ここで林檎酒をフライパンの方に入れて肉汁と脂を溶かしておきます。他のリキュールでもいいんですがね、林檎酒の方が兎には合ってるんです」


 ロブソンの丁寧な説明を頷きつつ耳を傾ける。―その一方で酷く冷静で氷のように冷たい自分の思考を認識していた。


 ―これを習ったからと言ってどうなるというのだろう。

 ―ずっと英国ここに自分は居るのだろうか。全てを日本に置き去りにして。

 ―おそらく……いや、きっと清世さんはこのまま何事もなければ自分の手の中である英国ここを移動するつもりはないだろう。

 ―私……私は……どうしたらいいんだろうか……?


「あとはコトコト1時間くらい煮て火を通します。その間に他にも色々作っちまいましょう」

「そうですね、このパイに合うようにサラダ……うーん、おひたしでもいいですね、ちょっとお酢を効かせてさっぱりするような……」

「オヒタシ! いいですなぁ、お嬢様の作るオヒタシは世界一ですから!」

「いやいや、ロブソンさんのパイには負けますよ!」


 笑いつつ、冷蔵庫のなかの食材を確認しながら佐久夜は軽く表情を消して息を吐く。自分の噓吐きさ加減に嫌気が差す。

 ロブソンを始め、ワタナベもメイドのアンリも、洗濯婦のメアリーも、この屋敷にいる使用人たちは皆、人がいい。自分が英国に連れてこられたのは突然だったし、白人ですらない東洋人だからこそ嫌悪感を抱かなかった訳じゃなかろうに。

 当初は確かに敬遠するような、どのように接して良いかわからないような戸惑った雰囲気が強かったが、一度打ち解けたら多少のことは流してくれる度量の大きさと、他人のことを詮索しない寛容さがある。

 一度、メイドのアンリにそれとなく嫌ではないかと訊いたことがあった。生粋の英国人であるアンリは東洋人の世話を嫌々しているのではないかと不安になって。


『これが高慢ちきで厭味ったらしくて不細工で横暴なら誰だって嫌ですよ!

 でも、お嬢様はちょっとしたことでも丁寧にありがとう、って言ってくれますもん。 そりゃ、確かに英語の発音とか所作とかに不慣れなところはありますけど、そんなものこれから慣れたらいいだけですし! それにお嬢様が作ってくれる賄いのシャケオニギリとオミソシルが私大好きなんです! ああいう優しくて美味しい料理を作るお嬢様を嫌うなんてとんでもない!』


 といった感じでものすごい勢いで否定されてしまった。有難いやら照れ臭いやらで、その日の賄いはアンリが言っていた鮭おにぎりとお味噌汁にしたのは良い思い出だ。

 言わないだけで、口にしないだけでアンリも、ロブソンも、ワタナベも、何かしらを過去に抱えているのだろうな、となんとなく思っていた。

 極々たまに、不意に漏れる黒い部分とか。冷たい瞳とか。

 人によってはそれを悲劇のヒロインのように吹聴するのだろうけれど、この屋敷に居る人たちはそれをしない。きちんと自分のなかで飲み込んで表に出さないようにしている。自分よりも年上というのもあるけれど、人間として自分よりも成熟しているのだろうと思っている。


 冷蔵庫にはちょうど良い葉物がなかったため、野菜が置いてある貯蔵庫に行くと、ころんとした茄子があった。これを焼き茄子にしてポン酢でさっぱりとさせるのはどうだろう。日本の短茄子や長茄子とも違う感じだからもしかしたら焼き茄子には合わないかもしれない。ロブソンに確認してみよう。


 そう思って厨房へとつながる扉へ手をかけた瞬間。


『ターゲットロスト。4時間ほどの猶予はあると思われるが警戒は怠るな』


 ジジ、というノイズ混じりの声が聴こえた。この音質は無線連絡だろう。

 佐久夜は耳が良い。特に教師が付いて教えた訳でもなくヒアリングだけで英語をマスターする程度には。


 そして、その声がワタナベのものだったこと、彼らしくもなく感じるほど冷たく硬い声だったこと、それを聴いたロブソンの表情が歴戦の勇士のように険しく強張ったものだったことから―佐久夜は悟ったのだ。


 ―嗚呼。


 ―が来てしまった。


 自分を連れ戻しに。


 とすれば、やはり、自分の願いは叶わなかったのだろう。


 些細な願いだった。けれどそれもやはり叶わなかった。




『死んだ者として忘れてくれたら良い』

『自分のことを忘れることで幸せになって欲しい』



 ……本当は、ただそれだけだったのに。



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