荷重移置:世界はいつだって

 泥濘に沈むように、ずっと意識は深いところにあった。時折気まぐれのように浮上しては、淡い夢を束の間見ていた。それは過去の記憶の断片でもあったし、静かに抱いていた願望の現れでもあった。

 ぬるま湯に浸かっているかのような穏やかで優しい午後の昼下がり。今日の晩御飯は何にしようとぼんやり考える瞬間。お茶を出して、それを啜り飲み少しだけ緩む目元を見る瞬間。嗚呼、確かに幸せな時はあったのだと確信する。

 何度も何度も繰り返し夢を見た。まるで記憶を塗りつぶすかのように。現実から目を背けるかのように。

 そして。

 意識が完全に浮上した時、全身を走る痛みに。嗚呼、夢は終わったのだと。


 優しく柔らかな、自分を護ってくれる夢は終わったのだと、そう感じた。






「メイフェアからケンジントンまでは追えたけど、それ以降ロスト」


 端的に述べられた報告に、清世は少しだけ眉をひそめた。定石を外してきた、そう思ったからだ。

 視線に込められた感情はそれほど強くはなかったが、それでもクロウは同意するように軽く息を吐いてみせた。


ならもう少し先だと思ってたんだけどさ、抜けられたのかそれとも見た目弄ったのかそのあたりもはっきりしないんだわ」

「……鳩からの情報も更新されていませんねぇ」

「……ぁー……、てことは完全に追っ手振り切ったってことだわな。倫敦からこっちに来るまで、最低4時間くらい見とくか」


 ふむ、と清世は指先を頬に当てた。思考すること2秒と少し。


「猫はそのまま情報収集、鴉、貴方は市街で情報収集を。鼠からの報告は逐次こちらに」

「おっけぇ、で、お姫さまはどうすんの」

「今日は外出の予定もなかったはずです。屋敷内に居てもらえば良いかと」

「お前が張り付いてる方がまぁだ安心だと思うけどねー」


 軽口を叩いて笑んでみせた後に、手をひらひらと振りながら鴉は部屋から退出する。鴉の言葉にも一理ある。しかし。

 英国に無理矢理連れてきてしまった負い目なのか、はたまた生命を救いあげてしまった引け目なのか。原因が自分なのか彼女なのかははっきりとはわからないが、それでも多少の距離があると実感している。日本に居た頃のような気安さが感じられない。いや、談笑している時や食事の時などは比較的マシな方だ。

 ふとした時、たとえば廊下で出くわした時や洗濯や料理をしている彼女に声をかけた時。瞬間にも満たない刹那、違和がある。おそらく鴉や猫、屋敷の使用人たちも解らない程度のものだ。そして毎回こう思うのだ。

 ―はて、彼女の笑顔はこんなだっただろうか。と。


 少し。ほんの少しだけ心の距離が開いた。的確に言葉で表現するならこうだ。


「……後悔、しているのか」


 それは自分か、それとも佐久夜彼女か。


「………………それでも、」


 自分のなかに後悔がないとは断言できない。それでも、彼女に生きていて欲しいと願い、それを望み、そうなるように行動した。恨まれても良いとさえ思う、この自分の傲慢さに嫌気が差す。


「しあわせに、」


 願っていたのはいつもそれだけだった。






「お嬢様、今日は何をなさるご予定ですか」

「ロブソンさんがウサギを捌いて料理するっておっしゃっていたので、それを見せてもらおうと思っています」

「左様ですか」

「日本ではウサギを食べることはあんまりないんですが、こっちでは良く食べるものなんですか?」

「ひと昔前よりは減りましたが、適度に間引かないとあっという間に繁殖しますからね」

「嗚呼、鹿みたいなものですね」


 ふむふむ、と頷きながら知識を得ようとするその姿勢にワタナベは少しだけ表情を緩めた。屋敷に来てからまだ数か月しか経っていないが、料理というツールを使って使用人たちの心を射止めた彼女に好感を抱いている。慣れてしまえば文化の差違によるすれ違いも減り、その純朴で素直な性格は受け入れやすいものだった。むしろ、素直すぎてこちらが心配になるくらいだ。

 たどたどしかった英語も耳が良いのか多少は滑らかに話すことが出来ている。勿論、使用人たちが全員ゆっくり、はっきり喋るようにして聞き取りやすくしたということもあるからだろう。


「鹿はシチューやロティにしますね」

「えっ、こっちでも食べるんですか、へぇ、知らなかった」

「ちなみに日本ではどのようにして食べるのですか」

「私はあんまり食べたことないんですが、鹿はぼたん鍋で食べることが多いらしいです」

「Botan……?」

「あ、牡丹って花の名前です。えっと確か……肉を食べることが禁止されて、でも隠れてこっそり食べるために肉じゃなくて牡丹っていう隠語で呼んでたとか……」

「嗚呼、なるほど、わかりました」


 かっちりとスーツを着こなすワタナベの姿はもう、見慣れてしまった。漠然と先入観で執事というものはいつだって燕尾服を着ているものだと思っていたが、それは公的な場所だけなのだそうだ。それよりも大衆に紛れるために現在はスーツやカジュアルな恰好をすることもあると。屋敷内の業務を主体とするワタナベはスーツ姿が多い。ぱっと見、何か業者が商談を持ってきたように見える。その違和感のなさが大切なのだとなんとなく佐久夜は解ってきた。


「お嬢様、」


 ひとりでうんうんと頷いていた佐久夜は、ワタナベの声に軽く小首を傾げる。


「お嬢様はずっと英国こちらにおられるのですよね……?」


 ワタナベの普段の物言いとは違う、弱気な問いかけだった。


「えっと……、」

「使用人の立場でこのような言葉は無礼にあたると理解しております、しかし、お嬢様は既にこの屋敷でなくてはならない方。どうかこのまま末永くこの国に居てくださいませ」


 深く深く頭を下げたワタナベに、佐久夜は少しだけ苦く笑んだ。


「ワタナベさん、私は清世さんに救われた身です。身体のみでなく、生命ごと助けられたのです。清世さんの許可なくして勝手に日本に戻ったり、この屋敷を出ていったりはしません」


 なだめるように、慰めるように優しく放たれた佐久夜の言葉に、常になくワタナベは笑んだ。安堵した、という表情のまま、小さく、ありがとうございます、と礼を言う。

 不意にワタナベが己の耳元に手をやった。屋敷内の主だった使用人には、無線機が配備されている。そこから聴こえてきた情報に、彼自身珍しく眉根を寄せた。


「お嬢様、申し訳ありませんが本日は午後から天候が崩れるようです。天気が良ければロブソンとお嬢様が作られた料理でまたガーデンパーティーでもと思っておりましたが、小広間を整えておきますのでそちらで昼食を宜しいでしょうか」

「わかりました、じゃあロブソンさんにも伝えておきますね」


 やわらかく笑んだ佐久夜に、ワタナベは表情に出さずに嘆息した。

 世界というものはいつだって、どんな時だって残酷なのだ。運命と同じく。





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