重波知:悪夢に沈む

 何処か遠くから水の音がする。ぴちょ、ぽとん、ぴとん。滴り落ちるそれは一定のリズムで鳴り響く。何処だろう。解らない。周囲を見ても昏い闇があるだけで、己の手足さえも見えない。こんな昏い場所に、一体いつから居たのか。そう自問したけれど、やっぱり答えはなかった。

 不意に、喉が詰まる。吸うことも吐くことも出来ず、耳元で心臓の音だけが聴こえている。顔に熱が集まって、動かない手足を必死に動かそうとした。何かが、手足に絡みついている。粘着性のもの。身を捩る度に皮膚が引き攣れる。痛い。苦しい。


『……なんか……』


 鼓動とは全く別の響きが、鼓膜を揺らす。滲む視界いっぱいに、女性の顔が見える。母の顔だ。眉を寄せ、睨みつけるような眼光の強さ。噛み締めた口唇の、その白さ。


『アンタなんか、産まなきゃ良かった!』


 吐き捨てられ、たたきつけられた悪意の強さに意識が遠のく。

 私が何をしたというのか。出来るだけ良い子と言われるようにしてきた。言いつけられたことは唯々諾々と行い、決して反抗しなかった。祖母の嫌みにも耐え、父の暴力にも耐え、姉の我儘にも、母の横暴にもずっと耐えてきた。

 それでは、駄目だったのか。嗚呼、きっと。

 きっと、駄目だったのだ。祖母や父母の願い思うような娘では、きっとなかったのだろう。それが例え権力争いの為の道具としても、きっと、自分は不出来だったのだろう。

 意識が完全に途切れる直前、確かに自分は終わりを夢見た。











 ふ、と。意識が戻る。夢を見ていた。そう、夢だった。あれは幼い頃。と言っても既に本家に出入りして修行という名の雑用をこなし始めた頃だった。

 ふぅ、息を吐いて、視線を上げる。見慣れた畳の縁と、庭を臨む縁側。其処まで視界に納めて、ようやく自分が何処に居るかを自覚した。なんだか頭がぼぅっとする。いやな夢を見たからだろうか。夢見はいつだって悪い。穏やかでやさしい夢なんて見た覚えがない。いや、もしかしたら憶えていないだけなのかもしれない。


 ソファにもたれる形でうたた寝をしていたようで、変に左肩が痛む。嗚呼、そうだ。言いつけられた用事が終わって自室に戻ってきたところで疲れ切って座り込んでしまったんだ。壁に掛けられた時計を見ると15時近い。そろそろ夕食の準備にも取り掛からなければ。立ち上がろうとしてふらつき、咄嗟にソファに手を付いた。

 どんなに疲れていてもこんなにふらつくことはなかったのに。


 自分の身体なのに、違和がある。何かが軋むような。その違和を振り切るように手をにぎにぎと開いては閉じ、閉じては開く。気のせいだ。自分に言い聞かせて佐久夜さくやは今度こそ立ち上がった。まとめていた筈の髪が前に流れてきて、サイドテーブルに置いておいた髪ゴムで結わえる。何かがズレているような感覚がまとわりついて離れない。気のせいだと言い聞かせても、何かが違う。何かが、ズレて、軋んでいる。


 『佐久夜』


 不意に呼ばれた声に肩が跳ねる。同じく跳ねた鼓動をなだめるように振り返る。


つなぐさま、』


 振り返った先に、ある意味見慣れた秀麗な顔。眉目は鋭く、すらりとした長身がうかがうように障子から覗いている。


『どうかなさいましたか?』


 近寄って、声をかける。いつもならば笑んでくれる筈の継の表情が硬い。何かあったのだろうか。


『話がある』


 それだけ言うと、継は身を翻して歩き出してしまう。話ならば此処でも出来るだろうに。そう思ったが、此処では言えないことなのかもしれないと思い直す。

 前を歩く婚約者つなぐの姿にも、何故か違和感があった。いつもなら、後ろをついていく自分に歩調を合わせ、決して先を急ぐということはなかった。背中に伝う汗が冷たいことに気付いて、ふるり、身体が震えた。


 継が立ち止まり、からりと引き戸を開ける。武道場に繋がる引き戸だ。今の時間は誰も居ない。促しもしないまま、継は武道場へ入っていく。その背を追うようにして佐久夜は武道場に入ろうとして、不意に足を止めた。

 ある意味嗅ぎなれた臭いがした。錆びた鉄と、生肉のぬめった臭い。この臭いがのに。

 震えて止まった足を叱咤し、武道場へ入る。と。


『……!』


 佐久夜は今度こそ息を飲んだ。眼に映るもの全てが紅い。そして、黒い。気付けば、継の手も黒い。


『ご当主……!』


 紅のなかに視覚的記憶見覚えのある白髪を見つけて駆け寄る。揺り起こそうとして、その冷たさと重さに愕然とした。ぐちょり、嫌な音がする。血を含んで重くなった衣服が、その重さで佐久夜を圧し潰そうとしているかのような錯覚を覚えた。


『つ、なぐ、さま、』


 無言のままの婚約者を振り返る。逆光で、表情かおが見えない。

 ぎゅっと手を握りしめて思いの外それが冷えていることと、震えていることを自覚する。この惨劇を……目の前の「愛しいかれ」がやったと、思いたくない。


『こん……こんなこと、だれ、が、』

『俺だ』


 淡々とした声に、目の前が暗くなる。誰か。嗚呼、誰でもいい。嘘だと言って。こんなのは悪い夢だと。


『俺がやった』


 伸ばされた手を、どうすることも出来ない。肩を掴まれ、引きずり倒される。強かに肩を打ったが、痛みを感じない。目の前の彼の表情かおも、声も、全部が遠い。

 ほたり、頬に雫が落ちてくる。やけに熱いそれが涙だと気付きたくなかった。


『お前は俺のものだ。誰が何と言っても、何をしても。俺がそう決めた』


 絞り出されるような低い声が、哀しかった。

 そんな顔をさせる為に生きてきた訳じゃない。

 こんなことをさせる為に足掻いてきたんじゃない。

 嗚呼、それでも。


『つなぐ、さま……』


 彼の眼に、もう自分は映っていない。彼のなかでなにが起こってどういった変化をもたらしたかなんて自分には解らない。けれど、ただ一つだけ解るのは、もう、彼に自分の言葉は届かないだろうということ。

 彼の眼には狂気の滲んだ執着だけが燃えている。ゆらりゆらりと揺れながら、それでも彼のなかでは【正しい】ことなのだろう。


『佐久夜、お前が……』



 嗚呼。

 どうかやさしいこのひとが。

 

 いっそ、ずっとずっと狂気のなかで夢を視ることができますように。


 

 そんなことを願って、佐久夜は眼を閉じた。これ以上、彼の顔を見たくなかった。震える声で、名前を呼んで欲しくなかった。

 視界の端に映った銀色を、視ないふりして。

 自分という存在が彼にとっての枷になるというのなら、自分は喜んで消えよう。

そう思った。

 ただ、自分ではだめだっただけだから。どうか、自分を責めないで。



 ―ごめんなさい。


 声は届いただろうか。




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