重志智:思うだけなら罪もない

 『助けて』と何度も思った。何度も何度も願った。苦しくて辛くて痛くて、どう足掻いてもどうもがいても抜け出せないことなど解っているのに。否。抜け出そうとした。逃げ出そうと何度も試みた。暗い昏い道を走って走って、切れる息を何度も飲み込んで。遠い場所に辿り着いて、崩れ落ちるように座り込んで、振り返るとそこには逃げきれた筈の絶望があった。

 それを、何度繰り返しただろう。幼い足では決して遠くまで逃げることなんて出来ない。嫌だと泣き叫んでもただの癇癪にしか見えない。幾度となく繰り返す毎に少しずつ削られていくのは反抗心だったのか、それとも。


「……あ、」


 喘ぐように口唇を開いて、無意識に詰めていた息を声と共に吐き出す。嫌な夢だった。昔のことだ。もう遠い日々のこと。どくどくと脈打つ鼓動を抑え込むように胸に手を置いて、はぁ、深く息を吐き出す。

 瞼を閉じて、ちらついた先程までの光景を意識から切り離す。息を吐き出すことだけに意識を向ける。深く深く吐いて、軽く吸う。そしてまた吐く。その繰り返し。

 耳の奥で鳴る鼓動が落ち着いてきた頃、そろりと瞼と開いた。白いレースのカーテン。淡いベージュの壁と、カーテンの隙間から落ちてくる白銀の月光。夜風が心地よくて少しだけ開けたままにしておいたのが良くなかったのか。

 思いのほか身体が冷えている。手を伸ばして窓を締めようとして。中天に輝く月のその美しさに息を飲んだ。磨き抜かれた鏡のようにきらきらと輝きやわらかい光を地上に振り落としている。なんて綺麗なんだろう、そう思った。出来れば自分もそのように美しいものになりたかった。自分は決して美しくはない。顔貌のことではない。眼に視えるものではなく、もっと奥深くにあるものだ。内面の美しさとでもいうべきなのだろう、そういうものは決して自分には備わっていない。精々それらが露見しないように取り繕う事しか出来ない。


 寝間着の袖を捲ると、引き攣れたような光沢を持つ傷痕が見えた。もう痛みはない。優しい保護者は「女性なのだから」と傷痕を目立たなくさせる外科手術を勧めてきた。それを頑なに拒んでいるのは自分だ。懇切丁寧に説明してくれる鴉や猫、そして清世にも優しさや労わりしかないことは解っている。ちゃんと、解ってはいるのだ。けれど傷痕にまみれ歪になった、決して見映えが良いとは言えない今こそが、自分に最も近いような気もしている。

 幼い頃からゆっくりと歪まされてきた内側と、外側がようやくつりあったような気さえしている。素直に「諾」と頷いてしまえば良いのに。そんなことにさえ引きずるように拘る自分の矮小さに苦笑する。


「嗚呼……」


 知らず、吐息と共に声が零れた。


「たすけてください」


 じわり、視界が滲む。ゆらゆらと揺れる水面のように眼に映るものが滲んでいき、やがて堪えきれなくなってぽろり、溢れた。顔に熱が集まる。鼻の奥がつんと痛んで、それを抑えたくて両手で顔を覆った。


「たすけ、て……たすけて」


 誰に向けるわけでもない懇願だった。白いシーツに長い黒髪が揺れる。

 世界から逃れるように膝を抱えてうずくまる。小さく小さく、隠れるように。

 嗚咽が漏れることを怖れて、布団に顔を埋めた。声を殺して泣くことに慣れたのはいつからだっただろう。もう、憶えていない。



 たすけてほしかった。誰でもいいから、誰かに。

 たすけないでほしかった。誰でもない、貴方に。



 どのくらいそうしていたのか。時間の経過が曖昧なまま、佐久夜は顔を上げた。月は変わらず夜空を美しく照らし出している。太陽とは違う、静かで穏やかな光。

 あんなに美しいものに、自分はなれない。解っている。なら、決して美しくない自分でも良いのだと言ってくれるひとたちのためにこそ自分は生きよう。

 熱が引かないままの瞳で月を見上げ、佐久夜はそう思った。


 想うだけならきっと、罪もない。願うだけならきっと、罰もない。


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