従勒:比翼
嫁、というのがどんなものかを自分は知らなかったと思う。おおよそ自分の知る限り、嫁という立場で身近なものは「母親」であるはずなのだが、残念なことに自分のなかにあまり良い記憶がない。泣いているかよく解らないことを喚いているかのどちらかだ。多少なりとまともな時は「好きで産んだわけじゃない」と恨み言を吐いて自分の境遇を嘆いている。かと思えば分家の人間には威張り散らして怒鳴る。少しでも気に喰わないことがあればヒステリックに喚き散らすものだから「母親」に対して良い印象や思いを抱いておらずとも誰も自分を責めないだろう。
自分の立場は嫌と言うほど理解している。1000年以上続く武家の血筋で、知名度もある。表向きは護衛、裏向きは暗殺から諜報までこなす武道のスペシャリスト。本家・分家、男女問わずこの家に産まれたものはすべて武道を修める。所謂司法組織に対しての武道指南、政財界の重鎮の護衛。この家から排出した人材はこの国の根幹に多大なる影響を与える。そして、自分はそれを束ねる長なのだ。連綿と続いた家の歴史を、自分も同じように紡いでいかなければならないという責任感もある。
―……ただなぁ。
心中で深く嘆息する。権威と権力があまりにも本家に集中しすぎている。不必要に分家に力を持たせないためにと数代前の当主がそう決めたらしいが、自分からすればはた迷惑なことこの上ない。些細な決め事でさえ自分を通さなければ話が進まないのだからただただ面倒なだけだ。 分家〇〇の庭の草むしり? 分家〇〇の雨漏り? ……そんなの自分たちの家で決めたほうが絶対早いだろうに。
今度こそ深く息を吐いて、彼―
「お疲れのようですね」
ことりと執務机の隅にカップが置かれた。大きめのマグカップだ。視線を上げると穏やかな微笑を浮かべた男性。
「青か」
「雑務はこちらで処理しますと前から申し上げておりますのに」
青と呼ばれた青年の表情に苦笑が混じる。
「印を捺すだけの状態でもまぁ良かろうが、……それをしたら幹部会で重箱の隅を突くように小言を言われるからな」
困ったものだ。嘆息の後に、不意にとんとん、と軽いノックが響いた。
「入れ」
声を投げると、ゆっくりと大きな扉が開かれる。
「失礼、お忙しかったでしょうかねぇ」
「
青の声には隠しきれない侮蔑と嫌悪が混じっている。
「おっと、そう殺気立たずに。私はただ書類をお持ちしただけですよ」
清世は青の嫌悪など意に介していないかのようにやわらかく笑んでみせた。
「青、下がっていろ」
「ですが」
「下がれ」
「……はい」
命じられてしまえば、従うより他はない。退出しつつ、清世とすれ違いざまに舌打ち。余程嫌われているのだろうと思ったが、どうでも良いと記憶から抹消する。
青が完全に部屋から出ると、継は席から立ち上がった。
「
「何度も申し上げていますが、その呼び方はどうかと」
「
「……公式には貴方に兄はおりませんよ」
「此処は公式の場ではないし、貴方が私の兄であることに変わりはない」
「ああ言えばこう言う方ですねぇ」
「貴方の弟ですからね」
清世の嘆息に、継は少しだけ笑んだ。目の前の清世と確かに血のつながりはあるのだ。ただ、母が違うだけ。清世は所謂庶子で、表向きには自分の父の子供ではない。幼い頃、といっても生まれてほぼすぐその存在は闇に葬られ座敷牢に入れられた。それを遠い遠い縁の外国人が連れて家を出たのだ。自分も何度か外遊という
血のつながりは半分ほどだが、それでも兄だと思っている。
「それにしても珍しいですね、義兄上がわざわざお越しになるとは」
「嗚呼、大した書類ではなかったのですが。緑さんについでに顔を見せていけと言われましてね」
幼い頃からのお目付け役である緑は何かと世話を焼いてくる。お節介にかこつけた気配りのひとつだろう。哀しいことに本心を晒しても支障がでない人間というものが自分の近くには少なすぎる。
「それはご迷惑を」
言いつつ、書類を受け取ってソファへと促す。断られるかと思ったが、穏やかな笑みもそのままにソファへと腰を下ろす。その姿に内心ほっと息を吐いた。
何か飲み物でも、と思ったが側近である青を退出させたのは自分だ。どうしたものか、と瞬間の苦悩を汲み取ったように清世は殊更にやわらかく笑んだ。
「嗚呼、どうぞお構いなく。それほど長居もできませんので」
「……義兄上には敵いませんね、……ありがとうございます」
軽く頭を下げ、対面に座る。
「それで、本当の御用件はなんでしょう?」
「おや、バレていましたか」
「義兄上がわざわざこちらまで足を運ばれるということは、それなりの理由があったのでしょう。緑が世話を焼いたというのも私のところに顔を出す良い理由であったかと」
考えを述べれば、満足気ににこりと笑む。どうやら答えは及第点のようだ。
「
「解っております」
「……以前から話は来ていたのですが、英国爵位を受けようと思っています」
「アイゼンロードのことですね」
「やはりご存知でしたか」
「義兄上のことですから、差しさわりのない程度に調べさせていただきました」
「でしょうねぇ、まぁ、そういうことなのでこちらの名前は棄てることにします」
あっけらかんと、まるで窓の外が快晴であると告げるような雰囲気で義兄はとんでもないことを言うものだ、と思った。
名前を棄てるということがどういうことか、継は識っている。
「……義兄上はそれで、良いのですか」
この家に属するというだけで得られる恩恵は多い。それは社会的にも経済的にも、だ。それをいともあっさりと棄てる、という。
「
ふ、と笑まれた。それは、幼い頃から向けられてきた笑みと全く同じで。
掻き毟りたくなるような感情が胸に渦巻いた。
「憶えていますか、幼い頃登った樹の上で降りられずに居たあの時のこと」
不意に問われた言葉に、記憶がよみがえる。
外遊を兼ねた視察、という名目で訪れた英国。義兄が世話になっているという領地は緑豊かな土地だった。お目付けの目を盗んでは、義兄と共に遊ぶことを強請った。大きくなったことを示したくて、大きな樹に登った。登っている時は良かったが、大きな枝につかまって眼下を見下ろした瞬間にその高さに身体が震えた。
「憶えていますとも。あの時は義兄上が助けてくださった」
恐怖で震える自分を困ったように笑みながら抱きしめてするすると樹を降りた、その力強い腕を忘れられない。半分しか血がつながっていない弟など、見捨ててもおかしくなかったのに。
「あの時とは違って、貴方には救けとなる手足も、共に歩むべき
嗚呼。
継は清世の本当の目的に気付いた。
「
物心つく前から自分の許嫁として育てられた、そして、物心つく前から傍にいた存在。
それは自分だけではなく、
「余計なお世話だとは思ったのですがねぇ」
「私が当主を継げば、義兄上にも利はあるかと思いますが」
無駄だろうと思いながら、引き留める材料を提示した。
「利よりも火種が大きくなる方が大きいでしょうねぇ」
「ですか」
「ですよ」
視線が絡み合う。不思議と凪いだ気持ちだった。義兄が居なくなるのは寂しい、そう思うのに。
「さて、」
視線を外したのは清世の方だった。思考を切り替えるように短く言葉を吐いて、腰を上げる。
「諸々決まったらまたお知らせしますね、それでは」
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