従参:拾われる

 記憶に残っているのは薄暗くて湿気が籠る地下だった。太陽なんてただ眼を灼くだけの痛みで、それが羨ましいとか欲しいとかそういうことを思ったことも願ったこともなかった。恐らく、自分はこうして暗闇のなかで朽ちて死んでいくのだろうとぼんやり思った。

 生きる気力なんて根こそぎ奪われた後で、もういいやと開き直って諦めるしかなかった。このまま死ぬのならそれでもいいと自分に言い聞かせるのは慣れてしまっていたから。鞭で打たれる痛みは慣れないままで、打たれた場所はじくじくと不快な熱を伴って脳髄を蝕む。こんな痛みが続くなら、死とは開放ではないか、と。そう思ってしまうのは自分が愚鈍故だろうか。解らない。でも、そう遠くない時間で自分は死ぬのだろうという不思議な確信があった。

 皮下脂肪の少ない腕や脚にはいくつも皮下出血が出来ていてまだらになっている。満足な食事なんて口には入らないから。

 嗚呼、でも。

 一度でいいから必要とされたかったな、とぼんやり思った。


 生まれた国は戦争で焼けたのだという。残ったのは多くを炎の海に沈めた加害者勝利者で、わずかな食べ物や資源や、金目の物、それらすべてを根こそぎ奪い尽くしていった。その中にはもちろん人間もいて、便利な道具にされていた。女性は肉の穴として使われたし、男性は使い捨ての労働力道具にされた。自分のような年端の行かない子供たちは、気まぐれに殴られ蹴られる玩具おもちゃだ。

 抵抗なんて出来るはずない。そんな腕力なんてない。なんで殴られるのかもわからない。ただちょっと目についたからという理由で蹴られ、殴られ、怯える様を嗤われた。そして、大半の子供は奴隷商人に売られた。一人当たりの金額なんてわずかなものだ。数十人単位で売られて、どこかの組織の慰み者にされるか、実験材料にされるか、誰に売られても大した差違はなかった。


 自分が売られたのはどこかの麻薬組織だった。子供なら大した警戒心もなく客がつくという理由で。売れなければ鞭で打たれるだけ。混じり物が入ったクスリから始めて、客たちはそのうち刺激が足りなくなってもっと良いものをと求めだす。一度クスリに汚染された脳は理性を焼き尽くしてただの動物へと書き換えていく。それを、ずっと間近で見てきた。


 だから、自分がそうなってもおかしくないと、むしろ自分が人間であると称するのはなにか、いわゆる「かみさま」とかそういうものに対して申し訳ないような気分でいた。そして、「彼」が目の前に立った時、嗚呼、自分はのだと思った。

 黒い髪に鋭く細い瞳。その瞳に射抜かれた瞬間に全身に寒気が奔った。こわい。そう思った。心臓がどくどくと音を立てるのをどこか遠くで聴いているような感覚であるのに、どんどん熱が奪われて冷たくなっていくような感触。知らずに手を握りしめていて、食い込んだ爪の痛みにようやく気付いて、自分が震えていることを自覚した。


 がたがたと震える自分は「彼」の眼にどう映ったのだろうか。その黒い瞳にはおよそ感情が浮かんでいるような様子はなかった。そして、たっぷりの沈黙のあとに「彼」はおおよそ似つかわしくないような仕草で首をこてん、と傾げて自分に向かって声を投げた。


『Comprends-tu les mots?』


 耳慣れない音に身体が無意識に跳ねた。震えは止まらない。


『Nolite intelligere verbum?』

『Do you understand the words?』

『Verstehst du die Wörter?(言葉はわかりますか?)』


 幾つかの音に聞き覚えがあって、そろりと顔を上げた。「彼」は柔らかな微笑を浮かべてゆったりと頷いた。


『Wie heißt du?(名前は?)』

「……Nein(無い)」

『Wo sind meine Eltern und Brüder?(親兄弟は何処に?)』

「Verstehe nicht(わからない)」

『Hast du einen Versuch?(行く宛ては?)』

「Nein(無い)」


 何もかもがないのだ。それはもう、どうしようもないほど解っていた。


『Also kommst du mit mir?(では、一緒に来ますか?)』

「Was?(え?)」

『Wir garantieren Essen, Kleidung und Unterkunft. Du kannst frei kommen und nicht kommen(衣食住を保証します。来るも来ないも自由ですよ)』


 手袋に包まれた手が差し伸べられる。その手を取って良いのか瞬間迷って、それでも震える手を出した。これ以上悪くなることなどない、そう思ったから。


『Es sieht aus wie eine wunderschöne Katze(綺麗な猫のような眼ですね)』


 やわらかく手を握り返され、同じようにやわらかく笑まれる。ゴミ溜めから連れ出されたのは何年ぶりだろうか。油と埃にまみれた頭を優しく撫でられる。


「こっちは片付いたよー」

『そうですか、主犯は?』

「確保済ぃ。いやぁ小汚いおっさんの罵詈雑言は耳が腐るね」

『そのうち適切にするとして……鴉、人員が欲しいと言っていましたね』

「んー? 言ったは言ったけど、もしかしてその子供?」


 黒い髪の男がちらりとこっちを見たのが解った。反射的に身体が跳ねるけど、それをなだめるようにまた頭を撫でられた。


『ここまで生き残っていたのはこの子だけです』

「ぁー……まぁ情報絞るのも出来るっちゃ出来るか」

『末端の子供に何を期待してるんですかねぇ』

「特になにもぉ?」


 頭上で交わされている言葉は何一つ解らないが、それでも不穏なものは感じなかった。


「Ich sage Krähen Wer bist du?(俺は鴉。お前は?」

「Kein Name(名前、無い)」

「Es kann nicht ohne geholfen werden(無いのか、なら仕方ない)」


 夜みたいな黒い色をした男性はなんでもないことのように笑った。


「Im Laufe der Zeit wird Ihnen dieser Typ einen Namen geben(そのうちこいつが名前を付けてくれる)」


 だから安心しな、と笑う瞳には嘘が浮かんでいない。


 こうして、自分は拾われた。



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