獣勇:決意
幸せな日は続かないということはちゃんと解っていた。辛いことも哀しいこともいつかは終わると解っていた。善悪は別として、「ずっと同じ」などということはない。良い事も悪いことも全てはあざなえる縄の如し、巡り廻る輪廻、全ては流れる水のよう。「今」哀しくても、「今」辛くても、「今」苦しくても、いずれはそれも終わる。
だからこそ、「今」を生きていかなければならない。たとえどんなに痛めつけられてもその痛みに膝を折るようでは自分の名前に対して顔向けできない。
―だめだ。
無駄に聡い清世のこと。些細な傷であろうとそこからいろいろなものを暴露されてしまう。これ以上彼に迷惑をかけるわけにはいかない。
ふぅ、と軽く息を吐いて。眼を閉じる。この程度の襲撃は予想の範囲内だった。ただ、相手の害意が強すぎた。拉致される、誘拐される、身柄を拘束される。そういう程度ではなく、明らかに自分を排除しようとする範囲の害意だった。武器が小型のナイフだったことはまだ予想の範囲内だったのだが、その振るわれ方が予想の斜め上だっただけだ。首を狙われて振りかぶられたナイフを払い落としたり奪ったりする猶予がないと瞬時に判断して首ではなく影響の少ない上腕部で受け止めただけだ。しかしそれも太い血管を避けて、骨に至るような深さでもなかった。
相手側もそれは予想していなかったようだったから、そのまま刺してきた手をとって投げ飛ばした。
……自分の範囲を間違えたわけではない。
己の力量を見誤ったわけではない。まだやることがある。世界が敵なら自分は精々ふてぶてしく嗤うだけだ。向こうの想うように泣いてなどやらない。
「サクー、そろそろ着くよー」
軽い調子で告げられた言葉にはい、と応えて。閉じていた瞳を開く。大丈夫だ。視界は揺れていない。
●
滑らかに走っていた車体ががくん、と揺れる。次いで、前にのめるような重力の移動を身体で感じて斜面を降りているのだと実感する。地下に通じる斜面。それはつまり
「はい、お疲れェ」
緩やかに停止した車がエンジンによる微振動を止める。吐かれた息と同時に声が聴こえた。
「お疲れさまでした」
労わるように言いながら身体を起こす。かけていたブランケットを畳もうとして、左腕があまり使えないことに気付く。
「嗚呼、いいっていいって。そこらへんに投げといて」
鴉が苦笑しつつ運転席から降りてドアを開けてくれる。
「これ以上負担をかけたら俺がキヨに殺されちゃう」
「清世さんが? 鴉ちゃんを?」
当然のように差し出された手に自分の手を乗せながら問う。清世が気に入っている人材をみすみす失わせるようなそんなことをするはずがないと解っている。
「まぁそれはいいとして、痛くない?」
「嗚呼、だいじょうぶです」
無理矢理な話題転換に気付いてはいたものの、藪を突いたら蛇どころかそれ以上におそろしいものが出てきそうな予感がしたのでそれに乗っておく。
周囲を一瞥し、安全を確認してから歩き出す。地下の駐車場にはいつも通りいくつかの車が停まっていて、その何台かは防弾仕様になっている。光を反射しにくい塗料を塗られたそれはやや黒ずんで見える。自分が乗ってきた軽自動車もそのひとつで、灰色のボディカラーのはずなのに少し暗い。
「キヨが治療するだろうからあんまり心配はしてないけどさ、やっぱり女の子が傷つけるのって気分良くないじゃない」
「まぁ、世間一般としてはそうでしょうね」
「サクは慣れてるっていうけど、俺は慣れないのー」
「鴉ちゃんは優しい上に心配性ですね」
数年単位の付き合いだというのにこの黒い色を纏った
微苦笑した自分に鴉が頭を掻いた。
「サクはほーんと危なっかしいっていうか無自覚っていうか……俺が言うのもなんだけど、もうちょっと自分大事にしてよ」
「してますよ?」
「俺らからするとぜーんぜん! 他人が傷付くより自分が傷付いたほうがマシっていうのはわからんでもないけど、過ぎればただの傲慢だよ」
「…………そう、言われましても」
思い当たる節はある。目の前で誰かが傷付くのは嫌なのだ。それを見て嫌な思いをするよりも、自分が傷付いて痛みを感じている方がかなりマシだ。いっそその方が良いとさえ思っている。
「まぁ、そういうトコも含めてのサクだろうけどね、やっぱりこっちも心配するもんだから」
眉尻が下がった
地下駐車場から直通のエレベーターで1分もかからない。ちん、という軽い電子音の後に開いた扉。一気に視界が広がる。
天井が高い。広いリビングルームはゆうに30畳を超えている。大型のモニターとパソコン類、医療器具などは一箇所にまとめられている。中央にあるのはやや低めのリビングテーブルに、10人は軽く座れる大きなソファ。敷いてあるラグは毛足が長く、やわらかい。
「ただいまぁ」
「ただいま戻りました、ご心配かけました」
「おかえりなさい、早速ですがこちらへどうぞ」
清世に促され、ソファから少し離れたリクライニングチェアに腰を下ろす。左腕を清世に見えるように姿勢を整えて、袖を捲り上げようとして瞬間躊躇った。ナイフは腕に突き刺さっているのだから。
「失礼、」
清世がそう声をかけると袖口から鋏を入れられる。血で固まった服はあっさりと切り裂かれ、ナイフが刺さったままの腕が露出される。
うわぁ。
傷口だの血液だのに抵抗のない佐久夜だが、その生々しさに眉を寄せた。10㎝ほどの刀身が結構な深さで刺さっている。痛みはあるが、慣れたのかそれほど痛くない。
「抜きますから痛みますよ、……麻酔をしても良いのですが」
「この程度なら麻酔は不要です、手間もかけてしまいますし」
「……貴女の剛毅なところも美点ではありますが……ねぇ」
「嫁入り前の女性に傷跡を残すなんてこと清世さまはなさらないから、信頼していらっしゃるんです」
生々しい傷に眉を顰めることなくそう言ったのは小柄な女性だった。
「猫ちゃん」
呼ばれた名ににっこりと笑いながら、ガーゼの入った滅菌パックを破る。
「見る限り神経にも傷はなさそうですから縫合するよりも洗浄して閉鎖した方が良いと思いますよ、清世さま」
「……まぁ、傷が残らないようにそうしましょう」
外傷を所謂イソジンや逆性石鹸などで消毒しなくなったのは比較的最近のことだ。破傷風などの危険があるならまた話は別だが、切傷なども余程のものでない限り微温湯で洗浄して
清世が嘆息したのは、自分の考えを言葉にされたからだろう。
「抜いたら圧迫止血、そのまま洗浄を」
「はい」
予想される痛みに、身体が強張らないように深く息を吐く。清世がナイフを抜くのとほぼ同時に猫がガーゼで傷口を押さえる。呼吸を止めないように覚悟していたから、悲鳴は出なかった。
厚いガーゼが赤く染まる。数分そうしたまま、ぼんやりと考えた。
……どんなに傷を負っても、どんなに害されても、結局は生き残る。
だから、絶望なんてしていない。哀しいとは思わない。
幸せは続かないけれど不幸や痛みにうずくまっていては、あの平穏でやさしい日々を取り戻せないから。
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