従荷:魔女と呼ばれた日 後編
眠りから目醒める時の、浮遊感のような倦怠感のような……独特の何とも言えない心地が
髪を梳いて頬を撫でられる感覚に夢だろうかと自問して、感触の生々しさに一気に眠気が醒めた。
「起きたか」
そして、優しくかけられる声に今度は血の気が引いた。
「
弾かれるように飛び起きて、素早く周囲を見回す。正装した
「少しは休めたか」
「申し訳ございません、継さまの前で眠りこけるなど……」
「構わん、むしろ眠れるほどに気を許してくれることの方が大事だ」
「え?」
「お前は俺の前でも完璧であろうとするだろう?」
彼の言葉に反論しようとして、できなかった。常に完璧を求められ、それに応じるように振る舞ってきた。このくらいできなければ不釣り合いだと言われたらそれ以上で返してきた。そうでもしないと自分が何の為に此処に居るのか解らなくなりそうだったから。
「昔はもっと身軽だったが、今はそうもいかない。それは俺も良く解っている。
だが、二人の時くらいは少しくらいいいだろう」
幼い頃にしていたように、頭を撫でられる。その武骨ながらも優しい仕草に、胸の奥が軽く痛んだ。
「……ありがとうございます」
「しかし、ちょうど良い時間に起きたな。そろそろお前を起こして着替えてもらおうと思っていたのだが」
その言葉に、壁に掛けられている時計を見る。眠っていたのは1時間弱のようだ。余裕を持って着替えや化粧が出来る。不器用な心遣いに緩く笑んで、
「では、お言葉に甘えて準備してこようと思います」
「嗚呼、ちょっと待て」
着替え類を準備しておいた部屋に戻ろうと歩き出そうとしたのを止められ、振り返りつつ小首を傾げる。
「お前に着てもらいたいものがある」
窓際にほど近い執務机の上に、まとう紙が置かれている。着物だろうか。それを受け取りながら、覗き窓から見える柄に驚いた。
「このお着物、先々代の……」
「憶えていたか」
朱に金糸と銀糸をふんだんに使った刺繍と、藍染めの桜。
「お披露目なのだ。それなりに着飾れと緑が五月蠅くてな」
「ですが……私がこれに袖を通して」
「良いに決まっている。お前は
きっぱりと断言され、無意識に抱いていた遠慮やら卑下やらがどうでも良いことの様に思えた。彼がそう言うのならば、そうなのだろう。
「お目覚めになりまして?」
隣室に控えていた緑が顔を覗かせる。顎のラインで切りそろえられた髪が揺れる。
「着付けを致しますから此方へどうぞ、佐久夜様」
手招いて呼ばれるのに、素直に従っておく。一応、彼女も着付けは一通りできるのだが。おそらく、他人の手でしっかりと着付けてもらった方が崩れなくて良いのだろう。
「継様もそろそろ準備なさってくださいましね、白がやきもきしておりましてよ」
「わかったわかった、そう小言を言うな」
継がうんざりしたように手をひらひらと振った。物心ついた頃からの乳母のような関係性から、いかに次期当主と言えど強くは言い返せないのだろう。
「殿方はこれだから……さ、佐久夜様、せっかくの晴れ舞台、うんと可愛くいたしましょうね」
†
晴美は上機嫌だった。天気が良い。気温も寒くも暑くもない心地よい温度。世界は明るく、これから起こることを考えただけで自然と頬が緩む。
長かった。そう思えるくらいには長い時間を要した。事の始まりは数世代前、由緒正しい家に外の血を入れるという愚行を犯した分家があったことからだ。それは直系の分家を含め、傘下の者たちも巻き込む惨事になった。その中でも一番のとばっちりを受けたのが自分の家だ! ともすれば分裂していこうとする分家たちを纏め、ここぞとばかりに逆らってくる不穏分子たちを蹴散らし、本家の権威と地位を守るため心血を注いだのだ。
嗚呼、だがその苦痛も今日で報われる!
あの生意気な小娘には内緒で料理も会場も手配をすべてキャンセルしておいた。慌てて何か作っていたようだが、一流料亭やホテル並の料理など出来る筈がない。料理出来たとしても、会場である大広間は空だ、あと数分もすれば外部からの招待客も到着するだろう。自分は何食わぬ顔をして招待客と共に会場に入って、それで殊更に困惑し、驚いた
そうすれば自分が手を汚さぬとも佐久夜の信用は地に落ちる。次期当主も落胆して今度こそ自分の娘を嫁にと言いだすだろう。娘が嫁に入るということは、本家への足掛かりができるということ。本家が誇る権威も地位も全て意のままなのだ!
晴美は晴れ晴れとした笑顔で着物の裾を払った。後ろに控えていた使用人が来客を告げる。嗚呼、今日は良い日だ。
†
広大な敷地の中には母屋以外にもいくつか建物がある。洋館や武道場などがそれだ。今回の催事は次期当主である継が正式に婚約を発表する場も兼ねている。会場は外部の招待客のことも考えて洋館のメインホールだったはずだ。
しかし、案内役が促したのは本宅の大座敷だった。襖が取り払われた大広間は広々としていて、毛足の長い絨毯が敷かれている。庭へ降りることも考えられているのか、縁側も開放されており
座敷に招かれた人数は数十人。ちらりと周囲を見渡すと分家のなかでも本家に近しい家の面々ばかりだ。
「なぁんか、おかしくね?」
「……そうね」
背後から突然響いた声に驚くこともせずに
「みぃんな礼装してるのに座敷だけは殺風景だ」
囁かれた
何があっても咄嗟に反応できるように鍛えられた自覚はある。極端な話、此処が粛清の場であっても絶対に生き延びてやる。そう決意し、軽く息を吸った瞬間だった。
「なんてことなの!?」
ややわざとらしい悲鳴が場を切り裂いた。振り返ると中年の女性が取り乱したように声を荒げている。
「
「佐久夜さまが準備するからってわたくしは聞いていたのに!」
晴美のヒステリックな声に、周囲がざわめいたのを優理は肌で感じた。晴美が叫んだのは今回の主役だ。
「ちょっと! 佐久夜さまは何処にいるの! なんてこと! 外部のお客様もいらっしゃるのに!」
これは、誰に説明されなくても解る。大失態だ。外部からの招待客は国賓に近い人物も名を連ねていたはずだ。その招待客を歓待する料理や酒、なにより会場設営すらも出来ていない。この状況は非常にまずい。婚約発表の場を手ずから設定することすら出来ない人物だと思われてしまう。
自分以外もそう思ったのだろう。ひそひそと囁き合う声がざわめく座敷を埋めていく。どうしたものか、と優理は思考を巡らせた。この場でどのように振る舞うかで今後の進退が決まる。擁護か、それとも批判か。
誰も彼も考えることはほぼ同じ。困惑と打算がありありと見て取れる。
「どうする?」
近衛が確認するように声をかけてくる。これ以上の猶予はないのだろう。座敷内の空気が佐久夜への非難で満ちていく。
「次期当主の伴侶としては不適格だと前々から思っていた」
「この程度も取り仕切ることが出来ないのは今後が不安だ」
「自分から言い出しておいて投げ出すのは無責任すぎる」
確かに一理ある。が、冷静さを欠いていると言わざると得ない。元々の取り仕切り役は声高に佐久夜を責めている目の前の晴美なのだ。いくら強行されたと言っても確認することを怠ったのは晴美の怠慢でしかないのに。
それを指摘しようとした優理が口を開こうとした瞬間、上座の襖がすらりと開いた。
「静粛に」
白袴に身を包んだ
「当主! この場で進言致します!」
直系傘下、
「晴美様に依れば今回の取り仕切りは佐久夜様がなされたとのこと、しかしこの場は何一つなく、佐久夜様の不備を指摘せざるを得ないかと」
そうだそうだ、と群衆が続く。その声を遮るように優理は一歩前に出た。
「では、私からも進言をひとつ」
手にしていた扇を開いて、口元を隠す。
「私が確認しましたのはそちらにいらっしゃる笠原の晴美様が今回取り仕切り役を行われるということ、晴美様が佐久夜様が『自分がやる』と言い出されたとおっしゃられたこと、そして現在何一つ準備が整っていないこと、……何より、全責任を任された晴美様が当日、此処に至るまで確認を怠ったということです」
ざわりと座敷の空気が揺れた。戸惑ったような空気だ。晴美の迫力に圧されて現状を把握できなかった人間が大半だったのだろう。
継は群衆を感情のこもらない瞳で見ていた。声の大きさに惑わされて何も見なかった人間の群れだ。これが今後を担っていく人物になるとは多少の嘆かわしさを感じる。
懐からスマートフォンを取り出して、目的の画面を出す。そしてそのまま【再生】ボタンをタップ。
[ちょっと、聞いてる!? 料理が手違いで出来ていないらしいの、アナタのお披露目でもあるんだからどうにかしてくれる!?]
『晴美様、どうにか、とおっしゃられても……』
[私は知らないわよ、他のことで手が回らないの、あとはお願いね!]
『えっ、あの、』
ツーツーツー。
一斉に晴美に非難の視線が集まった。当の晴美の顔色が赤から白、そして青へと劇的に変化していく。
「……自分の怠慢を棚にあげて押し付けた挙句、自分が被害者のように振る舞うとは……ずいぶんと舐められたものだな」
継の声は低い。
「なんで、こんな……」
握りしめられた手が震えている。座敷の空気は一変した。佐久夜へ向かっていた非難がすべて晴美へ向かっている。都合の良い風見鶏のようだ。これこそが民衆の愚かさだと実感しながら、優理は特に感情のこもらない眼で晴美を見ていた。
「こんなはずじゃ」
ぶるぶると震える手を見て、あ、と思った。追い詰められた人間がやることはひとつだ。
「アンタのせいよぉぉぉぉぉ!!」
叫びと同時にやや大きめな体躯が動く。上座に居る、佐久夜へ。
咄嗟に手を出そうとして、その手を近衛が引き寄せる。飛び出した晴美を誰も止めなかった。いや、もっと正確に言うのならば止められなかった。佐久夜の細い身体が突進によってバランスを崩して、ぱぁんと張られた頬の音が無情に響いた。
「無様だな」
吐き捨てるような継の声を聴いたのはどのくらいいたのだろう。
「よりにもよって、本家の―
晴美の襟元を掴んで、無造作に引きはがし放り投げる。
「本家に対する忠誠はその程度、ということですわね」
されるがままだった佐久夜が立ち上がり、嘆息と共に言葉を吐き出す。赤く腫れた頬を撫でるように手を動かすとべり、という音と同時に緑の髪が揺れた。
「貴女如きが容易く触れられるほど佐久夜さまはお安くなくてよ」
継と同じように緑が吐き捨てるのとほぼ同時にべり、という音が響いた。無言を貫いていた現当主の顔がめくれあがってその下からやや沈痛な面持ちの佐久夜が現れた。
「晴美さま……」
哀しそうに、本当に哀しそうに佐久夜は晴美の名を呼んだ。出来れば信じたかった、というのが彼女の本音なのだろう。
それをどうとったのかは本人にしか解らないが、晴美は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら叫んだ。
「この……っ」
尻もちをついた状態からとびかかろうと手を広げた晴美を、今度こそ近くにいた者たちが取り押さえる。絨毯に顔を押し付けられながら、晴美は叫んだ。
「この、魔女……っ!」
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