従荷:魔女と呼ばれた日 前編

 空がある。どんな時でも変わらず空は自分の頭上高くに在る。こんなに酷い気分の時にでも、だ。


 佐久夜さくやは朝からずっと台所に立っていた。今日は大きな催事がある。当然、自分も出席しなければならない。が、その催事で振る舞われる料理の殆どが出来ていないと今朝知らされた。下らない嫌がらせだ。自分に対して良い感情を抱いていないからと言って、結局は自分たちの首を絞めていることにどうして気付かないんだろうと思ったが、こんなくだらない嫌がらせをするしか出来ないんだろうなと少し憐れみに似た感情を抱いてしまう。


 たぶんそうだろうという予想が外れていなくて良かった。無駄になっても良いと予め注文していた鉢盛に刺身、それらはそろそろ此処へ運ばれてくる。あとは煮物や酢の物、ちょっとした甘味くらいで十分だろう。

 手早く里芋や大根、人参の皮を剥いて下ごしらえし、下茹でを。下茹でが終わったら引き上げて調味した汁と別に下茹でした肉を加えて更にコトコトと煮込んでいく。煮あがるまでは余裕があるから取っておいた大根と人参を飾り切りして煮立たせた酢と酒、砂糖とみりんと合わせてなますに。炒って粗く摺った胡麻も忘れずに。

 なますを冷蔵庫に入れたらオーブンの予熱を始める。これを忘れてはいけない。材料は既に計測しておいたし、アレンジが効くレシピも調べておいた。

 卵をボウルに割入れて砂糖を入れ、電動ミキサーで泡立てていく。時間はかかるが手動よりかなり楽だから良いだろう。うん。泡立てが十分出来上がったらミキサーを止めずに小麦粉を振り入れてなじませる。これで基本の生地は出来上がった。生地を三つに分けてひとつはそのまま、残りの二つにはココアと抹茶をそれぞれ混ぜて型に流しこんでおく。ココアの方にはチョコチップ、抹茶の法にはゆで小豆を混ぜ込んで。オーブンに入れて40分強。これでシフォンケーキの出来上がり。

 いい感じになますが漬かったのを確認して小鉢に盛り付けていく。煮物は一旦火を止めて味を沁み込ませておいて。

 ここまで休憩なしで大体3時間ちょっと。早めに気付いたこともあって多少の猶予は出来た。注文していた鉢盛や刺身も問題なく届いたし、あとは盛り付けだけ。


「ふぅ、」


 無意識に詰めていた息を吐いて、額を拭う。と。


「……美味そうだな、」


 突然背後からかけられた声に驚く。


「……つなぐさま?!」

「すまん、驚くとは思わなかった」


 こちらの動揺などお構いなしに出来上がった料理から眼を離さずしゃあしゃあとのたまうのは本日の主役、本家の次期当主だった。

 佐久夜さくやは慌てて前掛けを外し、頭を下げた。


「今日は咲江さきえ伯母が取り仕切っていると聞いたのだが。……何故お前が料理しているんだ?」


 鋭い問いかけに佐久夜は少しだけ逡巡しゅんじゅんし、何か下手なことを言って墓穴を掘るよりここはもう正直に白状した方が良いと諦めた。


「咲江さまではなく晴美さまから「料理が出来ていない」と今朝がた連絡をいただいたので、作っておりました」

「……あのクソババどもめ」


 呻くように呟かれた声に、嫌悪が渦巻いている。


「すまなかったな、お前には苦労をかける」

「勿体ないお言葉です」

「材料費諸々まとめて俺に回しておけ」

「それは……」

「安心しろ、本来払うべき人間からちゃんと回収するから」


 にっこり、という擬音つきの笑顔がなんとも空恐ろしい。倍以上請求されるんじゃなかろうか。


「青、」

「はい」


 笑顔のままの呼名に淀みなく答えたのは、彼の背後に控えていた人物だった。


「残りは青に任せて俺の部屋に来い、少しは休めるだろう」


 軽く一礼し佐久夜の手にしていた菜箸をそっと受け取り、青と呼ばれた男性が見事に大皿に刺身を盛り付けていく。


「あ……でも、」

「心配するな、お前も十分料理が上手いが青もお前に負けず劣らず良い腕を持っている」


 言いつつ顎をしゃくるように示した先には残された大根の切れ端で飾り切りとツマを作る青が居た。負けず劣らずどころか数段上だろうと思ったが、それを言うのは憚られた。


「じゃあ、お言葉に甘えて、」


 佐久夜の言葉に、やわらかい微笑で会釈された。同じように会釈を返しておく。

 控えるように数歩後ろに下がって彼についていく。通りかかった使用人も親戚面々もその姿を見つけるやいなや足を止めて顔を伏せた。なるほど、若くして次期当主に指名されたのは伊達ではない。

 歩くこと数分、屋敷の中でも奥まったところにある彼の私室の前。


「継様、どちらへいらして……」

「小言は後にしてくれ、緑、とりあえず茶と菓子、……いや、携帯食でも構わん、何でもいいから喰うもんをこいつに与えねば」

「あら、佐久夜様」

「ご無沙汰しております」

「……なんとなく事情は察しました。すぐに準備致します」


 折り目正しく礼をして、下がる女性を何ともなしに見つつ、佐久夜は緑と呼ばれた彼女が自分が小さい頃から全く変わっていないが、今何歳なんだろうかとふと思った。呆けていたわけではないが、思考が鈍っている感覚があった。


「……顔色が悪い」


 言いつつ、手を引かれる。引かれるまま身体のバランスを崩すとそのまま厚い胸板に頬が当たった。何をするんですか、と非難する暇もなく腰を抱えられて持ち上げられる。そのままソファに下ろされて、まじまじと顔を見られた。


「お前、また痩せたな?」


 問いかけの形を持った確認だった。そう言われても最近体重計に乗っていないから解らない。答え様がなくて沈黙を保っていると思いっきり嘆息された。が、どういう反応が正解なのかがいまいち解らないままなので曖昧に笑んでおく。


「失礼します」


 トントン、というノックの音と同時にやや大きめの銀トレイにティーセットといくつかのクッキーや飴やチョコレート、せんべいやあられなどの菓子類とバータイプの携帯食を乗せた緑が部屋に入ってくる。

 なめらかな動作でローテーブルにセッティングされていくのをぼんやりと見ながらその白い指先に目が行く。整えられ、赤く染められた爪。

 不意に視界に武骨な男性の手が入ってくる。その手がチョコレート味の携帯食を掴むと、やや乱暴にパッケージを破る。おなかが空いているんだろうか、と疑問に思いながらその動作を眺めていると、やや眼をすがめた彼が携帯食を突き付けてきた。


「喰え」


 命令形に拒否するわけにもいかず、携帯食を受け取って、一口かじる。甘い。

 そういえば最後に食べたのはいつだっけ。昨日の朝?忘れた。携帯食の中に入っているピーナッツバターがやたらと甘く感じた。粗く粒が残してあるから噛み応えがある。


「お茶もどうぞ、」


 やわらかい口調と仕草で勧められた緑茶はやや薄めだ。何も言わずとも配慮してくれているんだろう、そのやさしさが胸に痛い。


「ありがとうございます」


 素直にお礼を言って湯呑を受け取る。じんわりと手に広がる熱が心地よい。指先が冷えていることを今さら自覚した。


「緑、咲江伯母と晴美叔母がやってくれたぞ」

「あら、今度は何をしてくださったんですか」

「今日の会食に出す料理を全く手配していなかった。しかもこともあろうにこいつにわざわざ連絡して料理させていた」

「あらあらまぁまぁそれは酷い。ということはこちらが手配していたものをわざわざキャンセルして下さったのですね」


 手の込んだ嫌がらせだこと、と緑が頬に手を当てて嘆息する。


「佐久夜様、お作りになったメニューを教えていただけます?」


 膝をついて問いかけてくる緑に、佐久夜はえっと、と記憶を掘り起こした。


「先々月にお世話になった料亭さんに頼んだ鉢盛と、お刺身が人数分、それと本日仕込んだ煮物となます、あとシフォンケーキです」

「先々月というと秋月さんですね、あそこの鉢盛なら不足はありません。

 ……会食まであと2時間弱、焼きものと蒸し物を追加すればでしょう」


 緑がゆっくりと口唇で弧を描いた。


「ならそれで頼む。思いっきり派手にやれ」

「かしこまりました」


 一礼し退室する緑に、佐久夜はきょとんと継を見上げた。佐久夜に向き直った継は見るものが見れば恍惚うっとりするような綺麗な微笑を浮かべていた。


「いいからお前は喰って、少し寝ろ。会食には間に合うように起こしてやるから」


 何と反論したとしても言いくるめられる自信があった。だから素直に頷いて携帯食を齧っておいた。









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