獣:涙と共に

 「日常」こそが「幸福しあわせ」であると、一体どれほどの人間が意識しているのだろう。夜眠りに就いて。当たり前に朝に目が醒める。怯えることなく外に出ることが出来て、目的地まで歩いて行ける。水を飲めて、食べ物が食べられる。

 そんな「当たり前」のようなことが「幸福しあわせ」だと意識している人間はおそらくそう多くはない。「当たり前」は「当然」になるのだ。意識なんてしなくても在るものだと思い込む。

 慢心にも近い何か。順応と言えば聞こえはいい。


でも。


 そんな、「」を望むことすら出来ない人間も居る。それは何処まで行っても自分で。だから。


 はぁ、乱れた呼吸を整えるために一旦深く吐き出す。どくりどくりと耳元で脈打つ鼓動が五月蠅い。軽く吸って、また吐く。大丈夫。言い聞かせる。

 大丈夫。呼吸も整ってきた。乱れた呼吸は視野を狭める。整えて、まずは現状の把握。

 薄暗い路地裏。耳を澄ますと表通りの雑踏が聴こえる。怒声は聞こえない。

痛みは……ない。ただ、熱がある。

 危ない兆候だ、と自分でも解ってしまう。

 極限状態になると生存のために不必要な情報を脳が切り捨てる。痛みがだ。

 右の掌についた血液が乾いてただただ不快だ。左腕、肩にほど近いそこに異物がある。

 ナイフだ。刃渡りは10センチもない。それがだいたい半分以上、自分の腕に刺さったままだ。反射的に抜こうとして、抜いてはいけないという理性の警告に身体が従った。抜けば出血が酷くなる。動く度に異物が身体の中で動いて痛みになりきれない熱としてこもっていく。


 はぁ。はやる感情を呼気と共に吐き出して、冷静に、と自分に言い聞かせる。

 スカートのポケットに入れておいたスマホを取り出し、操作しようとして指先が反応しないことに苛立つ。その苛立ちを紛らわすためにもうひとつ呼吸を。

 指先に付着して凝固した血液を拭い、もう一度操作しなおす。

 緊急連絡先に登録していた番号に発信しようとして、何かに気付いたように歩き出す。ヒトであれ動物であれ呼吸は付き物だ。生きている以上、呼吸は繰り返す。それは気配となり、空気となって漂う。その空気に不穏なものが混じったことに気付いたのだ。


 歩きながら発信して、耳に当てる。2回目のコールで相手が出る。


《今どちらに》

「駅前通りの商店街裏です」

《負傷は》

「左腕に。止血しています」

《追っ手の数は》

「襲撃者は3名でした。他にもいるかもしれませんが、確認できていません」

《わかりました、そちらに応援を向かわせます》

「一か所に留まるのは危険ですから移動します。どちらへ行けばいいですか」

《そこからなら西に向かって商店街を抜けてください。住宅地に入る前に迎えに行けるかと》


 冷静な声に、感情が引きずられる。焦りも不安もこの場では無駄だ。胸の奥が痛むのも、そうだと自分が錯覚しているだけに過ぎないと―思えてしまう。


「……やはり、私は生きていてはいけないのでしょうか」


 口唇から零れ落ちた言葉は、全くの無意識だった。無意識であるが故に、それは自分の奥深くから出た言葉だった。


「ごめんなさい、忘れてください」

《【存在の許可】が欲しいならいくらでも差し上げますが……、それは求めるものとは違うでしょう》


……返す言葉もない。

 息を詰めたことが伝わったのか、苦笑するような響きが耳に届く。


《生きていてはいけない生命などこの世界にはありませんよ、貴女は既にそれを知っているはずです》

「……はい、」


 解っているのだ。そんなことは言われなくても解っている。けれど。


「だいじょうぶです、解っています」


 言い聞かせるように応えて、歩調を速める。


「……ただ、私に、それだけですよね」


 出来るなら平穏に生きていたかった。普通に生きて、生活をして、それが当然と言えるようになりたかった。そうなるように努力もした。

 そんな努力も、なにもかも、結局は血の鎖に囚えられて繋がれてしまった。


《生きていることが不都合というのなら、精々ふてぶてしく生き延びてやりましょう。こちらの平穏を破ったのは相手側あちら、放っておいてほしかったのに藪をつついたのも相手側あちら。なら、手を出したことを後悔させてやるくらいでいいんじゃないでしょうかねぇ》


 通話相手の声に不穏なものが混じったことを気付いていたが、なにをどう言っても何より襲撃という形で話し合いという手段を潰したのは相手側むこうなのだ。


「……とりあえず、この場を打開することが先決だと思います」

《おっと失礼、それはまた後日にしましょう》

「はい、」


 言いながら路地裏を抜ける。

 視界が広がると同時に右手から車が接近し、停車した。


「サク、乗って」


 灰色の軽自動車だ。後部座席側のドアが開き、飛び込むようにして乗り込む。とほぼ同時に車が発進する。


「サク、横になってて。そんでそこにブランケットあるから」

「はい」


 応えつつシートに横たわる。ナイフが刺さったままの傷と顔を隠すようにブランケットをかけて、一息。


「サク確保したよー、それと、たぶん追っ手が7名ね」

《こちらでも確認しました》


自分のスマホと、運転席近くに置いてあるスマホから同じ声が聴こえて、今度こそ微苦笑した。


「……クロウちゃんと合流したからこっちは切ってもいいですか」

《残念ですが、いいですよ。何かあればこちらからかけなおします。

嗚呼、あと》

「はい?」

《貴女の判断はよ》

「そーそー、普通反射的に抜いちゃうもんだよね、そういうの」


 言いながらクロウが前を見たままこちらの左腕を指さしてくる。

 刺し傷というものは抜いた瞬間から出血が酷くなる。更に言うなら今回のような刃渡りが短いものでしかも場所が腕ということもあり、抜いて止血するよりは刺さったままの方が良いと思った、だけなのだが。


「えっと、ありがとうございます……?」


 褒められたのかなんなのかちょっと判断しかねるので、とりあえずお礼を言っておく。

 鴉が笑んだような空気があって、全身から力が抜けるのを自覚する。緊張の糸が切れる。肩の力が抜けた。嗚呼。

 じくりと傷が痛んだ。

 目元が熱い。じわじわと視界が揺れている。鼻の奥が鈍く痛んで、何かがこみ上げてくるような気がした。



 涙が出るのは、生きていたいからだ。不幸だと思うのは、確かに幸福しあわせがあったからなのだ。

 例え誰に疎まれ憎まれても。







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