鉢:奇妙な同居生活

 正直に、至って正確に現在の感情を言葉に当てはめるならば、「困って」いる。

 目の前には、穏やかな微笑をたたえた青年がいる。白いワイシャツにグレーのチノパンツという地味な服装だ。ワイシャツにネクタイは締められていない。

座卓を挟んで対峙している彼は、予定外の来客であり、予想外の闖入者でもあった。


清世きよせはんが戻ってこられるのは聞いておりましたとも」


 上座に座る彼に対して仰々しいほどの卑屈さで頭を下げる老婆に、少しだけ嫌気が差した。ような気がした。


「狭苦しい家やが、時期が来るまでゆっくり過ごしてもろうて構いませんえ」


 そこまで言って老婆がずず、と茶を啜る。奇妙な程に沈黙が重い。彼が何か言ってくれたらここまで沈黙が重くなることはないだろうに、そんな薄い期待を抱くだけ無駄だろう。


 湯呑を静かに置いて、老婆は値踏みするように青年を見た。表情は笑んでいるが眼は笑っていない。

 《目の前の人間が自分の利になるか否か》を見ているだけだ。そこに顔の美醜や人間性などは関係ない。例えば彼がどのような思いで今此処に居るのか、そういったことも、老婆には全く関係ないことなのだ。

たっぷり10秒ほど見据えた後、老婆は今度こそ口の端を歪めて本当に笑んだ。

 理由はいくつかある。

 本家でも「厄介者」とされている彼を預かることで本家への貸しを作ることが出来る。

 「厄介者」であるが、同時に彼は「本家跡継ぎ」に非常に近しい存在でもある。

 ……恩を売っておくことに越したことはない。

 そう結論付けたことを態度には出さなかったが、表情にはありありと漏れ出ていた。それに老婆本人が気づいた様子はなく。


「清世はんのお世話はこっちの……が致しますでな、何でも言いつけてもろうて構いませんえ」


 老婆が面倒くさそうに手で払うようにして指した女性は表情を微塵も変えることなく静かに頭を下げた。


「お久しぶりでございます」


 老婆の後ろに控え、一言も声を発することのなかった女性。清世には視覚的記憶見覚えがあった。記憶の中の彼女はもっともっと幼くて、もっと表情があったはずだが。……どれほど感情を握りつぶされ磨り潰されてきたのだろうか、想像するに難くないが、言葉にするまでもないだろう。


「……ところで」


 清世は頭を下げたままの彼女を視界に納めながら軽く指先で顎をつまんだ。


「私の記憶が確かならば、彼女は義弟おとうとの許嫁であったはず」


 はて、とわざとらしく言葉を吐き捨てる。


なったのですか?」


 鋭い視線が老婆を射抜いた。ぐ、と言葉に詰まる老婆を、熱のこもらない瞳が見返している。


「本家に恩を売っておくことは世渡りのひとつとして認めましょう、特段気にすることでもない、……しかし、」


 声にも表情にも熱は感じない。ただひたすらに平坦だ。しかし、そのフラットさが底知れぬ恐ろしさを孕んでいるように思えた。


「人を人として扱わないというのは……どうかと思いますがねぇ」


 ましてや本家に取り入ろうとするのならば尚更。

 ぐ、と言葉を飲んだ老婆を、もう一度冷ややかな視線で刺し貫いて、清世は立ち上がった。そのまま卓を回り込んで老婆の後ろへ。


「お手数をかけますが、部屋まで案内していただけますか?」


 伏したままの彼女へと手を差し伸べて、清世は問うた。はい、と応えた声と表情にもまだ感情は現れない。じっと見詰めると硝子玉のような瞳が見返してくる。

 くるりと丸みを帯びた瞳だ。その色彩は銀のような、灰のような、なんとも言えない色味を帯びていて。嗚呼、と内心で頷いた。彼女の曽祖父を師匠が知っていると言っていた気がする。異国の血が混じっている故の絶妙な色彩なのだろう。

 差し伸べた手を振り払うわけでもなく、掴むでもなく、静かに自力で立ち上がる彼女に興味を抱いた。


「ご案内いたします、こちらへ」


 項垂れたように顔を伏せている老婆には目もくれずに、彼女は淡々と声を発した。彼女に促され部屋を出る頃には、もう老婆のことは意識から消えていた。






……





「私のことを憶えていらっしゃったとは、思いませんでした」


 案内された離れの一室にスーツケースを置きながら。そんなことを言われる。

振り返ると先程までとは違う表情をした彼女がいた。


「……随分と苦労したようですね」


 問いかけの形をとった確認だった。ゆるく首を振られ、弱々しい反対に苦笑する。


「苦労するのはこれからです」

「私にも貴女にも余計な立場というものがくっついていますからねぇ」

「清世さまが大人しくしていてくだされば、なにも問題はなかったと思います」

「おや、私は大人しくしておりましたとも」

「どこがですが」


 責めるような彼女の口調に浮かんでいた苦笑が深くなる。


「充分すぎるほどに大人しいでしょう、誰も流血していません」

「流血前提なのがおかしいと思うのは私だけですか」

「貴女だけですね」


 そう言い切ると、堪えていたものが溢れたように彼女が吹き出した。

くすくすと笑う彼女に息を吐く。漸く記憶の中の彼女と目の前の彼女が合致した気がした。幼い頃の彼女はこうやって無邪気に笑う子だったのだ。


 こうして、奇妙な同居生活が始まった。





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