終章
第102話 レクイエム
彼が部屋に入って来ても、
いつもと同じ柔和で優しく、そして女優のように優雅な眼差しのまま。
美しい口元に静かな微笑を浮かべ、ただただ彼が発する言葉を、少しも急かせることなく待っている。
どれだけの時間が経過しようと、彼にとってある結論を導きだすために必要不可欠な対価であるのだと、彼女もよく認識しているのだ。
「驚かないのですね」
「いいえ、
律子はやはり静かに首を振るだけで、ゆっくりとソファから腰をあげる。
流れるように自然な所作で移動してグランドピアノの蓋を開けた。
そして、子供が鍵盤を遊び弾くように、人差し指で〈きらきら星〉を弾いた。
「千弥さんがモーツアルトを弾かれたの、何年ぶりだったのでしょうね」
「さあ、覚えていませんね。僕は……死を望んでいましたから」
幼少の頃から、才能に恵まれたモーツアルト。
それ故に他者に妬まれ、毒殺されたとも噂される。
実父を極度に恐れ、幾たびかの病に冒され。
この世を呪うほどの恐怖に苛まれながら壊れていった巨匠。
レクイエム。
八曲目〈涙の日〉の八小節目までを自らの手で描き、若くして没していった。
彼は脳裏に描く旋律に、自らの未来を映していたのだろうか。
この曲が己の葬送曲になることを、本能のどこかで理解していたのではないだろうか。
その想いが、千弥の心に重圧をかけていた。
「たぶん、あの時から僕は変わっていったのだと思います。〈きらきら星変奏曲〉――十二通りのバリエーションを演奏したあの瞬間から……。明るい旋律が、それまでの頑なに固執した想いを解きほぐしてくれたのでしょう。そう――彼女が現れなければ、僕は今、生きてはいなかった」
優雅に湾曲した壁に背を預け、千弥は瞳を伏せて穏やかに呟いた。
静かに蓋を閉じた律子は、身体を預けるようにそっとピアノにもたれかける。
そして、千弥の端正な顔を見上げ微笑みかけた。
その瞳にはほんの少しだけ意地悪な光が宿っている。
「最初に
「そう……でしょうね」
「次に
楽しそうに問う律子は、まるで少女のような笑顔を見せた。
千弥は少し嫌な顔をする。
が、律子の顔を見て心を読むと、頬を赤らめポツリと一言感想を述べた。
「……想定外でした」
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