第103話 諸刃の剣

「ですわよね! 廉弥れんやさんには本当に驚かされました。まさか、婿むこに行っていいかなどと言われるとは、さすがのわたくしも予想してなかったんですもの。自分が高木家を必ず盛り立てて、借りたお金を将来全額返すとまで言い出すなんて。――でも、二人とも以前よりずっと幸せそうでした」



 律子りつこの言葉に、千弥せんやは苦渋の色を浮かべる。



「律子さん、実際あなたは残酷な人ですよ。僕たちを可哀想だと思っているのは分かりますけどね。だけど、それでも以前のままの方がずっと僕たちは幸せだったのかもしれません。――人の心を知る、それは本当に不幸なこと。だけどそれは、どう足掻あがいても逃れられない僕たちが背負った宿命なのに、知らなくてもいい安らぎを知ってしまった。……あなたのように賢い人が考えなかったのですか? 彼女に出会うことが、僕たちをより苦しめるかもしれない、と」



 知らなければ良かったと、出会わなければ良かったと。



 いつかそう思う時が来るだろう。



さとりトリ〉という存在に出会うことがなければ、兄弟三人は互いに手を取り合って生きていけたかもしれない。

 


 人の心の醜さに打ちひしがれて、たとえ死を望もうとも。



 それでも三人だけは信じ合っていけただろう。



 未来永劫どこまでも——。



 紅葉もみじという存在は、希望と安らぎを与えてくれる尊い光でありながら、同時に自分たちを引き裂く存在になる、諸刃もろはの剣だ。



 いつか悲劇が訪れるかもしれない。



「ごめんなさい。わたくしも〈覚トリ〉が実在するとは思わなかったのです。――もとより判断できるのはあなた方、覚の力を持つ者しかいないのですから、実際のところ今もよく分かってはいませんが……。それにお義母様も、最初はお義父様からのお手紙を信じてはいらっしゃらなかったようですし……」



 律子は珍しく弁解をした。



 ほんの少しだけ反省の表情を見せて続ける。



「……けれど、〈覚トリ〉は覚の心を奪い、そして未来をも変える。ねぇ、千弥さん。素敵だとは思いませんか?」



 千弥はもっと苦渋の色を濃くした。



「あなたはまるで、僕たちを争わせようとしてるみたいだ」



 リビングの空気を、鈴のような律子の笑い声が揺らす。



自惚うぬぼれ屋の、千弥さん」


「……」



 悪戯っぽく笑う律子に、千弥は無言で胡乱な目を向ける。



 こんな彼女を初めて見たと、妙な気分にさせられた。



「選ぶのは紅葉さんです。いくらいい男でも、あなたに選択権はないのですよ。彼女が三人のうち誰を選ぶのかとても興味深いわ。いえいえ、もしかしたらあなたたちとは全然違うどこかの誰かを選ぶのかもしれませんよ」



 紅葉の心は誰にも読めない。


 だから、その可能性も否定できはしない。



 愉快そうに笑う律子からすっと視線を落とし、千弥は至極不満という顔をした。



「律子さん、僕は一度も女性に振られたことはないのですよ」



 彼が吐いた抗議の言葉は、卑屈な響きを含んでいる。



「だとしたら、初めての失恋になるのかしら」


「そう……なりますね」



 千弥の不服そうな返事に、律子はやはり楽しそうに笑った。

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