第65話 怒りと悲しみと

 嘘だ。



 けれどそう思えば思うほどに、疑念が沸き上がってきてしまう。



 ――彼は、いったい真鍋まなべに何をしたのだろうか。



紅葉もみじはね、特別なんだよ』



 千弥せんや――。



 夕陽の丘でそう呟いた彼の顔が脳裏に蘇る。



 絶望と悲嘆を織り交ぜたようなあの表情。


 その中に宿る、やっと見つけた光を追い、しきりに縋り付きたいと願う心。



 妄執に囚われてしまった悲しい瞳。


 さとりという宿命に翻弄される哀れな――魂。



 玄関を抜けると、紅葉はリビングの扉を勢いよく開けた。



「あ、紅葉。おかえり!」



 三人が振り向き笑顔を向ける。



 悠弥ゆうや廉弥れんや


 そして――千弥。



「グッドタイミング。今、ちょうど千兄がヴァイオリンを弾いてくれるとこ」


「紅葉もこっちへ来いよ」



 駆け寄る悠弥の足が止まった。


 紅葉の表情を見て息を呑み、立ち竦む。



「どうして!? どうしてみんなわたしから大切なものを奪おうとするの!? 真鍋君は関係ないじゃない!! そんなに〈さとりトリ〉が欲しいならわたしにそう言えばいいじゃない!」



 紅葉の頬は涙で濡れていた。



 自分が何を言っているのかも分からない。


 信じた者に裏切られた。


 そんな悲しみが自分自身を覆い尽くしていて――。



 悠弥が伸ばす腕を、紅葉は迷いなく払っていた。


 悲しみに彩られていく少年の目をぐっと睨み返す。



「も、紅葉……。ごめん、俺……」



 幼い顔に涙を浮かべ、悠弥は堪らずリビングを飛び出す。


 足音を立て玄関の扉を開け、泣きながら外へと走っていく。



「ちょっと言い過ぎだぞ、紅葉。悠弥はまだ子供――」


「うるさい、廉弥! あんたは最低最悪の男よ! 真鍋君の過去を盾にして脅迫するなんて、男のすることじゃないわ!」



 廉弥の言葉を遮って、紅葉は捲し立てた。



「……悪かったよ。でも、あいつはそれでも紅葉とは別れないって言ったんだ」



 ぼそぼそと呟くと、廉弥はバツが悪そうにリビングを出ていった。

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