第59話 行方不明の夫

「朝よりはマシになりましたね」



 夕方になると、流石に目の腫れは治まっていた。



「ご心配をおかけしました」



 深々と頭を下げる紅葉もみじを、梅は「夕食の支度の前に話がある」と言って、離れにある茶室へと連れていく。



「足は崩しても構いませんから」



 そう言って、手早く点てた薄茶を差し出す。



 紅葉が茶を飲み干すと、梅はふっと吐息を漏らした。


 そして遠い目をして小さく呟く。



「わたくしの夫は行方不明なのですよ」



 弾かれたように顔をあげ、紅葉は梅の顔をじっと見た。


 梅は寂しげにゲホゲホと笑う。



「あの時代のことですから、当然わたくしたちの結婚は政略結婚でした。けれど……恥ずかしい話ですが、当時わたくしには心に想う別の人がいたのです。しかし、決められた結婚を断ることもできなければ、その人と共に駆け落ちをする勇気もありませんでした。そして――すぐに戦争が始まり、わたくし一人を残して、その人も主人も戦地へ赴いて行ったのです。ほどなく終戦を迎え、わたくしの元に戻ってきたのは、その想い人ではなく主人の方だけでした」



 そこまで話すと、梅は自分の分の薄茶を点てた。



「わたくしはなげきました。戦争を恨み、神を呪い、主人に罵声ばせいを浴びせ……。最低だったと思います。でも主人はそんなわたくしを責めることなく、いつも優しく労ってくれました。毎日のように花を届け、毎月のようにわたくしに贈り物をしてくれました。それがいつもいつもわたくしの欲しいと思ったものばかりで……。わたくしの心は雪が溶けるようにゆっくりと開かれていったのです」



 ハッとして、紅葉は梅を見た。



 しわしわの顔に梅は微笑を浮かべている。



「そうです。主人はさとりだったのです。とはいえ、とても微弱な力だったようで、誰にも覚られずひたすら隠して生きてきたと打ち明けてくれました。それからずっと、わたくしたちは本当に仲睦まじく過ごしてきました。あの時までは――」



 言葉を切り、梅は思い詰めたように押し黙る。



 少しして「わたくしも足を崩していいですかね」と言うと、徐に紅葉の横へ来て両足を投げ出した。


 洋服の裾から短い足がちょこんと覗いている。



「わたくしは再び間違いを犯しました。悔やんでも悔やみきれません。孫が生まれ、三人ともが覚の力を持っていると知った時、主人のせいだと責め立てたのです。主人さえ覚でなかったのならば、三人が苦しむことはなかったのだと。惨いことに、三人が持つ覚の力は異常に強く、いつも孫たちは耳を塞いで泣いていました。さらに夜霧よぎり家に狙われていると分かった時には、もうわたくしは見境もつかないほどに主人を罵倒して。――そして、主人はこの家を出ていったのです」



 ここで紅葉は初めて疑問を持った。


 自分を茶室へ連れてきて、梅はいったい何を伝えたいのだろうか。

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