第58話 優しい味

 ひぃぃっ。


 紅葉もみじの悲鳴は宇宙に呑み込まれた。



「紅葉さん、どうかしたのですか?」



 超絶至近距離に梅の顔があったのだ。



 爪先立ちで紅葉の顔を見上げている。


 何もそんなに近づかなくてもいいだろうに。



「目がウサギになっていますよ」


「すみません。タ、タマネギが目に染みただけです」



 挙動不審になりながらも、紅葉は慌ててタマネギを剥き始める。



 けれどきざむ前から涙が出るはずもない。


 ばればれの嘘をついて恥ずかしくなり、紅葉は顔を俯かせた。



 昨夜は朝方まで眠れなかった。


 真鍋と別れたことが悲しかった。



 だけどそれ以上に、何の思い出も作れなかったことを彼に対して申し訳ないと思った。


 ほとほとと涙が流れて、枕を濡らしていた。



 自業自得だと反省している。



 それに結局、真鍋とは縁がなかったのだと納得もしている。


 けれど、それでも別れた今になって、後悔することが山のように頭に浮かんできてしまうのだ。



 その一つひとつに紅葉の目からは涙が流れた。



 再び目前に梅の顔が現れた。



「ひぃっ」



 今度は悲鳴が漏れてしまった。


 が、梅は構わず紅葉に盆を差し出す。



「朝食の支度はわたくしがしますから、紅葉さんはこれでも召し上がってゆっくりしていてください」



 盆には抹茶ババロアが乗っていた。



 梅特製のデザートで、生クリームとあんこが添えてある。


 ほろ苦さと優しい甘みが調和する、絶品の甘味だ。



「梅さん、ありがとうございます」



 涙腺が故障中なのか。



 あれだけ泣いたはずなのに、また涙が出てしまう。


 無造作に腕で涙を拭うと、紅葉は笑顔で礼を言った。



 キッチンを出たところで、バッタリと長身の男に出会ってしまった。



 バスルームから出て来た千弥せんや


 今一番会いたくない人間だ。



 後ろめたさがつのってしまった紅葉は、目を合わせないように不自然な挨拶をして――そして逃げるように去っていった。



 広い屋敷なのに何故こんな時に限って、こうもいろいろな人間と顔を合わせることになるのだろう。


 急いで自室へと向かう紅葉の前方には廉弥れんやの姿が……。


 やはり視線を合わせることなく、小さく挨拶だけを交わす。



 逃げ込むように自室へ入る。


 と、何故か部屋には悠弥ゆうやがいた。



 紅葉の顔を見た悠弥は一瞬だけ目を丸くしたが、特に何も言わず出て行ってしまった。


 机上にはメモが置かれていた。



『今日の夜九時にリビングに来て』



 真っ白な紙にその一行だけが書かれている。



(なんだろう……)



 純粋に訝る紅葉は、腫れた目を氷で冷やしながら梅の抹茶ババロアを頬張る。


 とても優しい味がした。

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