第55話 特別なんだよ

 緑の草が風になびいている。



 うぶ毛のように細い葉はそよそよと風に揺れ、その輪郭を曖昧にしている。



 それは蜃気楼のように空気に漂う――不気味な妖気。



 葉の間に何かほんのりと赤い色が見えた。


 紅葉もみじはそっと腕を伸ばす。



 突然、草むらから、この世の物とは思えないほどしわしわの顔が現れた。



「梅さん、ごめんなさい!」



 大声をあげて飛び起きた紅葉は、状況が把握できずにきょとんとした。


 左横では千弥せんやがハンドルを叩いて肩を揺らしている。



「心配しなくてもいいよ。梅さんには僕から連絡しておいたから」



 やっと状況を理解した紅葉は、千弥に深く謝った。


 運転中に助手席の人間が眠りこけるなどマナー違反だ。



「疲れていたんだろうね。よく寝てた。可愛い寝顔だったよ」



 そんなはずはないだろう。


 断言できる。



 紅葉の肩には自分の垂らしたよだれの跡がついている。


 どう考えても爆睡だ。



「ここは?」


「外に出てみよう、夕陽が綺麗だよ」



 風が頬の熱を奪っていく。



 一面草原の小高い丘。


 その先には、湖が夕陽を受けて燃え立っている。



「静かだね、紅葉」



 その言葉を、千弥が再び口にした。



「時々、ここに来るんですか?」


「うん。静かな空気に包まれたい時にね」


「……すみません。家では、わたしと悠弥ゆうや廉弥れんやがうるさいですもんね」



 ははは、と千弥はめずらしく声をたてて笑った。


 凛とした彼の声は、澄んだ空気にどこまでも伝染していくかのようだ。



「違うよ、紅葉。僕はさとりだから、いつも雑音に悩まされているんだ。近くに人がいる限り、どうあっても心の声が聞こえてしまう。知りたくないことも知ってしまう。とても不便な身体なんだ」



 何かに打たれたように紅葉は立ち竦んだ。


 そして数瞬後、小さく訊ねる。



「それが理由なんですね。彼女を振ったのも、一人の人と一ヶ月以上は付き合わないというのも……」



 瞳にかかる前髪を掻き上げると、千弥は少しだけ視線を落とす。



「うん。長く付き合うと、どんどん嫌な部分を知ってしまう。そして、僕がどんなに知らない振りをしても、彼女たちはどこかで気づいてしまうんだ。いつも心が見透かされていることに。そうして僕は彼女たちを傷つけてしまう。だから、ね。……少しは僕のこと、可哀想だと思ってくれた?」



 千弥の問いに、紅葉はあからさまに嫌な顔をした。


 そして彼の端正な顔を睨み付ける。



「そんなわけはないでしょう。千弥さんは全然可哀想じゃない。それはあなたの都合であって、他の人はその犠牲になっている。それが全てです」



 ここへきて、千弥は少し真剣な表情をした。



 もう一度前髪を掻き上げて、くるりと紅葉に向き直る。



「紅葉はね、特別なんだよ。今この瞬間だって、僕は君との会話が楽しくて仕方がない。君には分からないことだろうけど、こういう何の変哲もない会話すら僕には無縁だったんだ。誰かに何かを訊く前に、全てが分かってしまうのだから」



 千弥の腕が伸びてきて、優しく紅葉の髪をいた。


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