第89話 死ぬ気で走って

(痛っ!)



 突然。


 脇腹に激痛が走った。



 何かくっついてたものが剥がれるような、弾けるような、破裂するような嫌な痛み。


 目の前が一瞬、真っ白になる。



紅葉もみじさん、大丈夫ですか!」



 堪らず紅葉はよろめいた。


 けれど進む足は止まらない。



「だ、大丈夫です。もうすぐですから」



 今日を――今を、逃すわけにはいかない。



 時間がないのだ。



 たぶん梅は不死だろう。


 けれど、あの人は――。



 あの人に残された時間は、きっとそんなに長くはない。



 二人が一緒に過ごせる時間は限られている。


 来年まで待ってはいられない。



 少しでも早く二人は再会して、そしてお互いを赦し、心安らかな日々を送るべきなのだ。



 脇腹が熱い。


 生温かい液体が染みだしている。


 呼吸も浅く、熱を帯びている。



「紅葉さん、おろしてください!」


「……いいえ、梅さん。あの角を曲がったら、もう目の前ですから……」



 梅は悲痛の声をあげていた。


 紅葉の背中から伝わってくる体温は異常に高く、息はあがり、足取りはふらふらと心許ない。



 角を曲がったところで、紅葉はとうとう膝をつき倒れてしまった。




 ――間に合っただろうか。


 もう帰ってしまっただろうか。




 朦朧としていく頭を振り、紅葉は顔をあげる。



 視界は既に降り出した雪に遮られ、砂嵐のようになっていた。



 目を細め、霞む視界の中に焦点を定める。



 その中に、小さくなっていく赤い姿を見つけた。



 ――サンタクロース。



 口を大きく開けて、紅葉は彼を呼び止めようとした。



 しかし――。



 呼ぶべき名前を知らなかった。



「紅葉さん、出血が! しっかりしてください! 今、救急車を呼びます!」



 慌てる梅の腕を、紅葉はがっしりと掴む。



 反対の腕をあげ、遠のいていく赤い姿へと指差した。



「梅さん、あの人を追ってください」


「な、何を言ってるのですか! 早く救急車を呼ばないとっ……」


「お願いです! あの人は……あの人は、梅さんの――ご主人様なんです!」



 張り裂けそうな声で叫んだ。



 ここまできて諦めたくはない。


 お願いだから、その想いを分かって欲しい。



 梅は硬直していた。



 恐らく予想外の事態に頭の中が真っ白になってしまったのだろう。


 体勢もそのまま、口も開けたままの状態で固まっている。



 紅葉は焦った。



 もう赤い姿は視界から消えかかっている。



「早く! 梅さん、死ぬ気で走ってください!」



 何かに打たれたように梅の身体が弾かれた。



 途端に紅葉の腕から梅の腕が離れる。



 紅葉の視界を小さな身体が走っていく。


 ピンクの帽子が落ちたのもそのままで、どんどん彼へと追いついていく。



 梅の足は誰よりも速かった。



(流石、宇宙最強のヨ……)



 まるで銀河系に吸い込まれていくように、紅葉の身体はゆらりと揺らめく。



 しかし、その身体は誰かに抱き留められた。



 薄く開けた瞳には、柔らかい雪と苦笑した三人の顔が映っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る