第85話 それは恋じゃないと決めてしまわないで

 訊くのが恐い質問だった。


 視線を落とし、手に持つ林檎を紅葉もみじはじっと見つめる。



「まさか。とても感謝しているんだ。〈さとりトリ〉に未来を奪われて、僕の未来は綺麗さっぱり消滅した。そうはいっても、覚の能力も先読さきよみの能力も失われてはいないんだけどね。でも――僕はもう自分の未来を読むことができなくなったみたいなんだ」



 静かに笑いながらも、千弥せんやは少し寂しげな表情をした。



「……千弥さん、訊いていいですか?」


「うん」



「本当に、喜んでくれていますか?」


「うん」



「……本当は不安なんですよね?」


「う……ん」



 珍しいことに、千弥は頬を赤くしていた。


 視線を逸らしはにかんでいる。



 その様子に、紅葉の理性はピキッと音を立ててキレた。



「甘い、甘い、甘ーい! 千弥さん。あなたは自分の未来を知って絶望していたくせに、いざ読めなくなると途端に不安に襲われたんでしょう。『ああ、僕はこれからどうなるんだろう』、『今日は、明日は、明後日は、どう過ごしたらいいんだろう』って、もじもじと! もう、情けなく叫んでる心の声が聞こえてくるようですよっ」


「……よく……分かったね」



 紅葉の勢いに押され頬を引き攣らせる千弥。


 まったく抗議一つせずに認める彼に、またしても紅葉は声をあげる。



「いいですか、よーく聞いてくださいよ、千弥さん。それが〈普通〉なんです。みんなそういう不安の中で一生懸命に生きているんです。だからこそ幸せがあるんですよ。いつも先のことが分かっていたら、嬉しいことなんてないでしょう? 驚くことなんてないでしょう? 千弥さんは、これから幸せになれるんです。喜んでください!」



 先のことは分からない。


 曖昧だからこそいいのだ。



「うん、そうだね。ありがとう」



 微笑んだ千弥の笑顔は薔薇のように美しかった。


 紅葉は顔を赤くして、また林檎を口へと運ぶ。



「紅葉……お願いが、あるんだ」



 その言葉にハッとした。



 彼の望みを叶えられるのだろうか。


 何故か紅葉は、異常なほどに身構えていた。



 そんな彼女を千弥はクスリと笑う。


 そして腕を伸ばし、紅葉の手を取った。



「ねぇ、紅葉。〈覚トリ〉は覚の命を奪えると言ったけれど、本当はそれだけじゃない。覚の心をも奪うんだ。こんなことを言うと、きっと君はまた、それは違うと否定するかもしれない。だけど――悠弥ゆうや廉弥れんやも、そして僕も、君のことが好きなんだ。だからお願いだ――」



 視界は全て真っ白になった。



 次の瞬間には、身体が強い力に囲まれる。


 千弥に腕を掴まれて、そのまま引き寄せられていたのだ。



「それは恋じゃないと――決めてしまわないで欲しい」



 願いというより、それは祈り。



 誰かを大切にしたいと思う心。



 悠弥と廉弥を想う心。



 きっと彼には分かるのだろう。



 いつか兄弟三人はそれぞれの道を歩み出す。


 ひとりの人間として、家族という枠から一歩を踏み出していく。



 そして、彼らは――。



 紅葉は思考を閉ざした。



 先のことは分からない。


 だからこそ、いいのだと。



 そして、静かに紅葉は頷いた。

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