第82話 覚トリ

 それは、スローモーション。



 普段は肉眼で見ることなどできないのに、今は一コマ一コマがはっきりと視界に映る。



 目の前の景色が、現実よりもずっと遅い速度で再生されていく。



 音もなく、色褪せず。



 ただその刻が確かに存在したことだけを告げている。




 さとりトリ。




 ――彼女の心を誰も知らない。



 誰にも止められない。



 彼を襲う切っ先に追いついた時。


 彼女は自分が下した判断が正しかったのだと確信した。



 吸い込まれていく刃が、肌を焼くような痛みを与えてくる。


 だけどその痛みこそが、これは確かなことだ、信じていいと教えてくれる。



 身体がひるがった時――。



 彼の顔が斜めに見えた。



 少しずつ角度が変わり、そのまま彼を眺めると。


 そこには一つの傷もなく、美しい姿が確かな形で存在していた。



 あの時よりも――綺麗だ。


 夕陽の丘で見た彼より、今の方がいい。



 自分はずっと貧乏だった。


 失恋だってした。


 でも、それでも幸せだった。



 この人よりもずっと希望に溢れた日々を送ってきた。



 そう……。




 ――この人を自由にしてあげよう。




 彼自身の未来、その運命から。



 自分が本当に〈覚トリ〉だとしたら。



 そうしてあげられるのは自分だけだから。



 遠くで名前を呼ぶ声が聞こえる。



 可愛い子供が呼んでいる。


 あの子はなんて名前だっただろう。



 子供の後ろに佇む茶色い髪と瞳。


 確かに知っているはずなのに、どうしても名前が思い出せない。



 心臓の音と共に流れ出る血液は、少しずつ勢いを無くしていく。



 身体も冷たくなってきた。


 視界は狭くぼんやりとして、何が映っているのか分からない。




 だから……彼女はここで思考を断つことにした。




 曖昧だからいいのだと。



 だからこそ、そこに未来があるのだと。




 突然、光が瞼を打った。



 温かい光は身体の中心へと染み渡り、どこまでも限りなく流れていく。



 耳元で「寂しかった」と囁きかける。



 それは黄金の滝。



 真っ青に澄みきった泉へと架かる、細く儚い――金色の滝。




 ――ねぇ、千弥さん。




 新しい未来が、見えますか?

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