第36話 革命

「いいよ。モーツアルト、僕も好きだよ」



 静かにピアノの蓋を開け椅子に座ると、千弥せんやは長い指で鍵盤を試し叩く。


 澄んだ音が、一瞬でリビングの空気を変えていく。


 奏者と聴衆の集う演奏会のそれへと。



「この曲はね、正しくは〈きらきら星変奏曲〉といって十二通りのバリエーションがあるんだ。簡単そうに聴こえるかもしれないけれど実は難曲。いろんな技巧が駆使されてるから、完璧に弾くのは意外と難しいんだ」



 言い終わると同時に、千弥は流れるように弾き始めた。



 薄いレース地のシェードを通して五月の風が舞い込んでくる。


 千弥の奏でる旋律はその風に乗り、まるでそよそよと優雅に踊っているかのようだった。



 すっかり紅葉もみじは圧倒されていた。


 何度も聴いた曲なのに、まったく違う新しい曲に感じる。


 心のずっとずっと奥の方に染み渡っていく。


 そんな演奏に、何故だか目頭も熱くなっていた。



 最後の第十二変奏はとても華やかに終わった。


 余韻さえも美しい。



 最初に拍手を送ったのは悠弥ゆうやでも廉弥れんやでもなければ、紅葉でもなかった。


 知らないうちに後ろの扉には梅と律子りつこが立っていたのだ。



「珍しいわね。千弥さんがヴァイオリンではなくピアノを弾かれるなんて……。それもモーツアルト。素敵だったわ」



 律子の笑顔には涙が浮かんでいる。


 梅の笑顔は不明だが、なんだか様子が変だから泣いているのかもしれない。



「律子さんも梅さんも大袈裟ですよ。あ……律子さん、もうすぐ病院から呼び出しの電話がきますよ」


「あら。何か問題でもあったのかしら」



 千弥の言葉に、律子と梅は急いで退散する。


 少しして律子の携帯電話が鳴る音が聞こえてきた。


 これが〈さとり〉というモノの能力なのだろうか。



「千兄、次は〈革命〉!」



 目を輝かせて、今度は悠弥がねだる。


 廉弥も勢いづいて、ベートーヴェンの〈月光の曲〉をリクエストした。



「あの……千弥さん、ありがとうございました。この曲ずっと好きだったんです。でもお陰でもっと好きになりました。わたしは梅さんのお手伝いに戻りますから、あとは三人でどうぞ」



 笑顔で礼を言うと、紅葉は丁寧にお辞儀をした。


 三人に向かって手を振り、静かに退出する。



「えーっ。紅葉、もったいないよー」


「もう二度と弾いてもらえないかもしれないぞー」



 悠弥と廉弥の不満声が紅葉の背中を打つ。


 暫くして、激しい曲が聞こえてきた。


 その曲は――まさに〈革命〉だった。

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