第35話 紅葉のリクエスト

 あれから十日ほど経って、やっと完治したという感じだ。


 身体の痛みも取れたし、顔の青痣もほとんど目立たなくなっている。


 しかし実際のところ、紅葉もみじが思っていたよりもずっと怪我の状態は重かったようだ。


 靖彦やすひこ千弥せんやがいたお陰で入院せずに治療してもらえたが、もし病院に担ぎ込まれていたら大変なことになっていただろう。


 入院費を考えただけでも恐ろしくなる。


 医者の家庭は素晴らしいと、紅葉は心から感謝していた。



「それより千弥さんこそ珍しいですね。今日はデートじゃないんですか?」


「……うん。そうだったんだけどね、面倒くさくなっちゃって」



 なるほど。


 面倒くさくてデートを断る。美丈夫だからこそ赦される所業。


 大きく頷く紅葉の後ろに向かって、千弥が突然声をかけた。



「二人とも出ておいで。ちょうど良かった。僕からのお礼として、紅葉に一曲プレゼントしようと思っていたところなんだ。一緒にどう?」



 驚いて振り返ると、廉弥れんや悠弥ゆうやが扉の陰から現れた。


 いつからそこにいたのか紅葉にはまったく気配が知れなかったが、千弥にはずっと前から分かっていたようだ。



 千弥の膝枕で溶けたフジコは、そのままチーズになっている。


 今回は、なぜか悠弥が来たことにも気づかずに、完全にお昼寝モード。


 四人は垂れたフジコを床へと放置して、リビングへと入っていった。



千兄せんにい、ヴァイオリン?」



 廉弥が嬉しそうに訊く。



「残念だけど、今日はピアノ。気分的にね。何がいい?」


「俺、ショパンがいい! 千兄の〈革命〉は完璧だもん」



 難易度の高い曲を悠弥は易々とリクエストした。


 対して、千弥も淡々と請け合う。



「うん、いいよ。でも紅葉のリクエストの次ね」



 三人の美形が一斉に紅葉へ視線を固定した。



(うっ……)



 どうやら……。



 何か曲名を言えと催促されているらしい。


 当然、紅葉にクラシックの知識など皆無だ。


「うーん」と唸ってみたが、ない知識は出てこない。


 ふと、保育園でのお遊戯が頭に浮かんだ。



「あ。わたし、〈きらきら星〉がいいです」


「だっせー」


 悠弥と廉弥は声を揃えてバカにした。

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