Op.11「身カラ出タ錆」
文芸サークル「空がみえる」
身カラ出タ錆
身カラ出タ錆
女は男の着物を着てはならない。
また男は女の着物を着てはならない。
あなたの神、主はそのような事をする者を忌みきらわれるからである。
――『旧約聖書 申命記』
(Ⅰ 彼の日常が始まる)
(Ⅱ 彼の日常は続きながら…)
Ⅲ 彼の日常の中で
台風五号が過ぎ去り、松居一代と船越英一郎の衝撃的な確執も世間から忘れられようとしていた。彼にとって船越英一郎の受難は所詮、自分で蒔いた種でしかなく、取るに足らない矮小な問題としか感じられなかった。あの断崖絶壁の末路へ犯人を追い詰めることにかけては名演技の俳優以上に、自分の方が家庭的窮地に立たされているのだ。何故ならば冤罪、いや、冤罪にも達しない架空の手錠によって八月上旬の蜃気楼のような日常を凌いでいた。妻子は相変わらず彼の前に姿を現わすこともなく、彼の作為的な日常的日常性は、東京のスカイツリーから大阪のあべのハルカスに通ずる綱渡りのように続けられている。家出した妻の幻影に話しかけ、透明な娘と一緒に風呂に入り、寝小便で汚れていない息子の寝具を洗濯する。この八月からの彼の生活は、一切手を加えずに撮影すると実に奇々怪々な映像となるだろう。家の中であたかも誰かと会話しているような独り言を繰り返し、家族四人分の食事を用意し、誰も手をつけなかった食器を片付け、誰も着用しなかった衣類を洗濯し、自宅の中における当たり前の家族空間を依怙地なまでに保持していた。他人の目からは彼が天動説の世界に飛翔してしまったように思われることだろう。黄色い救急車を呼ばなくてはならないのかもしれない。
八月十一日金曜日、山の日。いよいよ盆休みが本格的に始まる。この週末から次の水曜日まで、彼の勤める会社は窓口対応は行なわず、専ら社内の庶務にのみ仕事が限られる。
週末の祝日、出社している者は片手で数えられる程度の人数だった。そしてフレックス・タイムのように社員は出たり入ったりしている。仕事もないのに顔を出す係長もいた。カスタマーサポートを所轄しているのだが、そもそもあらゆる窓口が閉まっているのにそのような役職の人間が職場に来てもやることはない。係長は社屋二階通路の自動販売機にありったけの小銭を投入しては返却レバーを押し、それを壊れた機械のように幾度となく繰り返した後、肌の色が抜け落ちるようにふわりと退社していった。まるでアルベール・カミュ『シジフォスの神話』を実演してみせたような不条理勤務劇だった。
ゲイザー・ヴォーカル・バンド『イエス・アイ・ノウ』が流れると、午前の業務の終了を意味する。十二時から一時間の昼休憩、社員食堂には彼と部長しかいなかった。後者が近所のコンビニで買い込んできた食料品を二人で胃袋に詰め込んでいる。二人はそれぞれ自分の中学生の頃の夏休みを思い出していた。世代は違えど、同じ時分の経験というものは根底で似通っているものである。気心の知れた仲同士で集まり、何をするということもなく時間を送る。飲み、食い、遊び、たまには遠出もし、気随気儘な自由を満喫し、思い出を共有する。それは恐らく、誰しもが体験するかけがえのない青春の一幕であり、形が変われど、いつの時代においても連綿と続けられてきた若者の通過儀礼なのだろう。
「新入りの追い出し、板に付いてきたな」と部長が言う。コンビニで買ったスター・バックスのフェラペチーノを、安い惣菜のパンの包装や空けていない缶ビール、ワンカップの瓶、そしてもう一方の手の突き立てた中指も画面に巻き込んで写真に撮り、《会社の後輩と表参道でスタバなう(キラキラした絵文字つき)》とツイッターに投稿していた。
彼の朝一番の使命は、新人社員一同の撃退だった。それは例年のごとく、八月一週目からじわじわと規模が大きくなっている。若者たちの攻勢が最高潮に達するのは終戦記念日前後だろう。その集団神経症的な様相は、太平洋戦争の学徒出陣を
毎年、新入社員はこの会社の夏期休暇の方針に戸惑い、
今日も午前中、会社に押しかけた欠勤新人たちが「どうして勝手に休まさせられなきゃならないんですか」「連休なんていいから、仕事させてください」「有給なんていらないです、何でもしますから出勤させてください」「連休、暇なんで、仕事させてくださいよ」「ネットで炎上しちゃったんですけど、会社も特定されてて、どうすればいいですかね? いや、フェイスブックで小学生の子を強姦したことがバレちゃって、通報とかもされてるみたいで」と怒濤の猛攻撃に見舞われたが、今日は数名の同僚とともに各個撃破を遂行した。とっとと帰りやがれ、この薄汚い社会の蟯虫ども、いいだろう、社長室で脱糞してきたら今日だけ仕事をくれてやる、そうだな、首相官邸に焼身自殺しながら突撃してこい、という彼の提案した試練が最も効いたらしい。昼休みになると会社の中は空き巣のように静かになった。
「休めってんだから、素直に休めばいいのに。給料も出るんだ。学生の頃は、親戚を虐殺して欠席する知恵を回していたようなやつが、いざ社会人になって、生真面目に労働意欲を発揮するのは摩訶不思議ですね」
彼にとって、新入社員という人種は、怠けるくせに休まない奇怪な連中だった。その不可解な現象は、彼の首をキリンが寝る時の姿勢のようにぐるんと捻らせる。
「おまえは中途で拾ったし、無菌培養された人材でもないから、右に倣え原理主義者の心情はわからんだろうさ」
呟いてから僅か三分で55いいね、10リツイート。部長はせもたれに自重をうんと傾け、至極満悦な面持ちになった。承認欲求が満たされ、現実には腹も膨れ、何も文句がなかった。部長のアカウントはネカマだった。
「そんなもんですかねえ」
「そんなもんだって。おまえ、なんで採用してやったか話したっけ?」
「部長の後輩だからでしょう、お情けで拾ってもらった恩は、忘れてませんよ」
「いやいや、おまえ、面接の日、来なかっただろ、それだけじゃなしに、履歴書のコピー押し付けて、わけわかんねえ黒人を寄越してきやがった、ろくに日本語も使えない、しかもHIVキャリアの
部長にまくしたてられ、十年近く前の記憶が瞬時に蘇った。その黒人は彼の知り合いで、ペソナ・ビヤデュカ共和国から出稼ぎに滞在している黒人である。留学時代、相手が米国にある日本企業の工場で期間工をしていた時に知り合ったのだ。帰国する際、日本に来いよ、おれの国は児童ポルノ天国だぜ、と旅費を振る舞ってやり、相手は数か月後に来日してきた。太平洋を渡るまで躊躇した理由は、悪い葉っぱが日本では違法であるという点、銃刀法違反がある点、そしてペソナ・ビヤデュカ共和国と日本国は国交を結んでいない点、そもそもペソナ・ビヤデュカ共和国なんて国家が実在しているのかわからず、少なくとも国連に加盟していないし、グーグルで検索してもヒットしない、であるにもかかわらず、厳然たるペソナ・ビヤデュカ共和国の国籍を有する人物である点に尽きた。心配すんなよ台湾だって日本国は国家として承認してないんだから、と彼の説得で念を押され、この黒人は極東の新天地へ遙々やってきたのだ。今でも両者は交流が続いている。面接の日、妻と昨晩ベッドの上でしこたま愉しんで寝過ごした――というより、本音のところでは雇われる気がなかったのだ――彼の代理で、黒人は面接の場に赴いたのである。履歴書に添付した写真とまったくの別人が、彼と偽ってカタコトの日本語を使い、面接の椅子に座っている。当時、面接官を担当した部長は内心、まあ、まあいい、うん、まあいいぞ、それはそれだ、逆に常識を疑え、いやむしろ、これは面白いぞ、そうそうこういう文脈の状況なんだ、それを理解してやれるのはおれしかいない、そう、おれだけなんだ、こんなユーモアセンス溢れる
黒人を帰して部長はすぐ実行に移した。もしもし、先ほどの面接の件ですが……は? 面接? 誰だよてめえ……いや、だから弊社の求人に申し込みましたよね、今日が面接だったでしょう……だから何だよ、何の話だ、てめえ悪戯電話なら通報するぞ……(小さな女の声)ねえ、どうしたの、そろそろサービスタイム過ぎちゃうんだけど……わかってるから、ちょっと黙ってろ、あぁ、もしもし、歯槽膿漏の臭いがするから喋るんじゃねえ、おい、えげつねえ
あれから約十年が経過した。部長はこの後輩との間に色々あった。結婚式の司会を務めた。二人の子供が産まれた際には、それぞれ丁重な祝儀を送った。今の彼の自宅も、土地選びに部長は奔走して協力した。主任のまま燻っているこの弟分を、部長は何とか自分の後釜にしてやりたいと考えている。そしてゆくゆくは、栄達の殿堂に送り込みたいと企んでいる。今、この会社は、二〇二〇年東京五輪の利権産業に食い込み、関東の方で支社を置くかどうかと上の方が検討している。都民ファーストの誰かとの人脈があるそうだ。仮にそうした事業拡張が実施されると、部長は率先して最前線に旅立ち、現在の自分の椅子と机を、目の前の部下に譲り、部署を託すつもりでいる。部長になれば会社が自動車の面倒を見てくれる。新規購入の場合、高級外車とまではいかずとも、購入金額と諸々の維持費を会社が全面的に負担してくれる。しかし、そのような部長の構想は、青写真どころか陰画さえ存在していない空想に過ぎない。口約束で迂闊な期待を与えてしまっては、後顧の憂いに発展する可能性がある。部長はこの十年間、自分が目にかけている
もっとも部長が、転勤の機会を虎視眈々と狙っているのは、一日も早く家族と別居したいという欲望が一番である。部長は十代の娘にしか欲情できない男であった。来年からは二〇〇〇年生まれが法律的に解禁となる。その時節に合わせ、東京での酒池肉林の日々が夢想として膨らんでいた。
「まあ、でも、あれだ、学校の行事の気を付けみたいなもんさ、じっとしてられないんだろう」
いかにも家庭に居場所がなさそうな風貌をしている上司の述懐に対し、それ以上の疑念は言語化されることもなく、残っているサンドイッチを咀嚼する為に彼の口が動かされる。
彼の頭の中は、休憩時間中、真夏の北海道の広大無辺な平原のように清涼で爽やかだった。部長と雑談しているうちは、家族のことを忘れられた。しかし、実際は忘れてなどいない。片時も忘れられる筈がない。忘れている気分になっているだけである。しかし、贋作の忘却であっても、
通路の方から爆弾のような複合的な笑い声が聞こえてきた。食堂の二人はその方向を一瞥したが、すぐに顔の向きを戻し、食事に意識を集中する。
この理不尽な新人連休期間、役員や管理職連中は無邪気な平社員時代に戻り、最低限の業務を片付けると、さながら学生気分の復活めいたどんちゃん騒ぎを連日催し、社屋を無秩序な饗宴会場にするのである。昨年の八月五日、社長室に平均八〇ミリシーベルトの放射性汚染土が大量にばらまかれるという事件があったが、日頃の鬱憤を晴らすべく関東へと遠征した営業部連中の置き土産である。その翌日、社長が隠し金庫で密かに保管している複数のUSB端末(社内の女子トイレを盗撮した数テラバイトに及ぶ膨大なデータ)が全て粉々に破壊されていたが、彼の上司たる部長閣下の鬼畜の所業である。そのまた翌日、怒り狂った社長がイスラム国の工作員に扮して会社に突撃し、違法改造で実弾を装填した小銃を振り回してきたので、流石に警察沙汰へと発展したが、関係者全員(社長並びその他役員並び管理職多数)の乱闘は立件されず、新聞の記事にもならず事なきを得た。社長は元法務省官僚の現知事と親睦が深く、これら大人の悪ふざけの尻拭いは全て、知事殿の忖度に丸投げしているのであった。
午後は社内で天変地異の底抜け騒ぎであった。カール・マルクスが見れば、『資本論』など書く気が失せるほどの無政府主義的大盛況であった。宗教が阿片であるように、共産主義理念が死後の千年王国到来の預言実行マニュアルであるように、天国と地獄は紙一重でしかない。快楽は苦痛を伴えばこそ初めて脳内麻薬の分泌を促し、多幸感が発生する。世の中の構成員としてのあらゆる束縛を断ち切り、人間という化けの皮を脱ぎ捨てた管理職たちによって、社内は、冷房が一定の規範を担保しながらも傍若無人な無法地帯と化していた。夏の賞与を費やして買い漁った無数の爆竹を点火し、四方八方に投げ付けながら無邪気に哄笑する課長、高級出前寿司五十人前を経費で落として真夏の大宴会を催す会計課、一階ロビーにて大音響でアダルト・ゲイビデオ鑑賞会を開催する専務、その隣で股を濡らしながら鼻息を荒くしている腐女子の専務秘書、一方、彼と部長は二階の自分たちの部署でビール瓶叩き割り大会と称し、室内を麦酒臭い泡の極楽浄土に変えていた。甲子園の夏、自分たちが暮らしている地区の代表高校が敗退してしまったからだ。若く尊き敗北者たちの健闘を労う一心で、二人は瓶から直接ビールを口へ流し込み、中身が残っていようと腹いせに膂力に任せて叩き割り、狼のごとき絶叫をあげた。二人の中ではリヒャルト・シュトラウス『オールソー・スプラック・ザラシュストラ』である。スタンリー・キューブリック『2001年宇宙の旅』の原人である。つまり、ヴーン(コントラバス)パーパーパー(トランペットの旋律、徐々に強く)デデーン(管楽器の一斉登場)デンドンデンドンデンドンデンドン……(打楽器)パーパーパー(続けて再びトランペットの旋律、先ほどより強く)デデーン(管楽器の一斉登場、これもまた一段階音圧を増して)デンドンデンドンデンドンデンドン……(打楽器)――中略――チャララー・ラー・ラ~ラ~ラ~・ラ~ラ~ラ~(壮大荘厳な感動的オーケストレーション)である。あのモノリスは実在したのだ! スマートフォンというエデンの園の知恵の実を、量産可能な工業的モノリスを、二十一世紀現代人は自らの科学文明の発展と進歩によって獲得したのである! だったればこそ、彼と部長の両名はビール瓶を高らかに掲げ、道具という概念を発明した何万年も遠い過去の偉大なる先祖さながらに、誇らしく、凛々しく、雄々しく、猛々しく、ビール瓶を振り上げ、デスクやパソコンやコピー機や壁にぶつけて粉々に叩き割るのである。さあ、輝かしき人類史の開幕だ! 地球知的生命体が待ち侘びた進化の夜明けだ! 小脳という本能に支配された矮小な次元から脱出し、知性をもって世界を観測する自我に目覚め、人類がビールの銀河という宇宙の未知なる領域へ漕ぎ出す日が到来したのだ! 酒だ! 飯だ! 飲め、食え、踊れ、生きろ!
爆竹が二人の部署にも来襲する。来るならきやがれ、給料泥棒の軟弱野郎がよぉ! 薄汚い豚の畸形児を詰め込んだその頭蓋骨、パズルのピースみてえに粉砕してやる! 部長が喉を熱して怒鳴り、ビール瓶をバットにして
八月十二日、土曜日。起床、出勤、退勤、帰宅、就寝。妻子、戻らず。
八月十三日、日曜日。起床、出勤、退勤、帰宅、就寝。妻子、戻らず。
八月十四日、月曜日。起床、出勤、退勤、帰宅、妻子、戻らず――――
最早、彼の日常は限界寸前だった。彼自身も極限状態に追い込まれ、気息奄々としている。帰宅すると、義父から電話が入り、数日間、湘南の方を観光していたことを娘から連絡があったと教えられた。しかし、そのような間接的な情報だけで、彼の心の動揺が終息することはない。連絡があった、つまり実家には戻っていない。ややもすれば
現実感が消失したまま、彼の肉体は湯を張った浴槽に浸かった。
浴槽の中で、先ほどの義父との何気ない通話から、彼の頭に回想の連鎖が生まれていった。それは彼と妻の馴れ初めだった。十五年前の西暦二〇〇二年、大学から放校処分を受けた。その年は今世紀初の独立主権国家がアフリカ大陸で誕生した年でもあった。放校事由は実際の学則とは関係がなく、大学総長の愛娘を傷物にしたことによる私的な怨恨、強権発動に起因していた。それから、FIFAワールドカップに熱中したり、北朝鮮拉致被害者の帰国のスクープに感心したり、ロシア旅行を計画していたが(モスクワ劇場占拠事件が起こったので)治安の問題を鑑みて断念したりした。彼の生活費は日雇い労働などで賄われた。そして年度が変わると渡米し、オクラホマ州立のとある二流大学に籍を置いた。兎に角、学位取得が目標だったので、学部などは考慮に値しなかった。強いてオクラホマを選んだ理由は、年末頃、暇潰しにジョン・エルンスト・スタインベック『怒りの葡萄』を読んでいたこと、そして読書の場所としていきつけにしていた有楽町のピアノ・ジャズ喫茶店でジョージ・マハリス歌唱版の『ゲット・キック・オン・ルート・シックスティシックス』が流れていたからだろう。《国道66号線、最高だぜ》……《オクラホマ・シティは
そして、妻とはニューヨークで知り合った。卒業後、定職に就かず、帰国するつもりもなく、親の脛を囓りはせず、腐れ縁の友人と一緒に大麻と酒と女に惑溺しながら、浮草のように自立して生計だけは立てていた、
友人の出版デビューが決まると、三人で再びニューヨークに集まり、ささやかな祝宴を開いた。舞い上がってとことん鯨飲し、すっかり出来上がった友人は、一人で二軒目に行くと言い残し二人の前から去って行った。
わざとらしく、手汲みの湯を顔になすりつける。項垂れながら深々と息を吐くと、湯の水面に弱々しい波紋が生じる。勃起していた。水の中の急所はゆらゆらと輪郭をぼやかしていた。
恋人時代の初夜を克明を思い出す必要はないな、と記憶の脚本を圧縮して押し潰す。
米国で仕事を見つけるつもりがなかった彼だったので、日本に帰国し、約半年の間、大型二輪で全国を放浪した。そして都内で安いアパートを借り、大手の下請企業に派遣社員として雇われた。彼女から再び連絡が入ったのは、初の給料が口座に振り込まれた日だった。週末、港区の小洒落たバーで再会した。そして今度は彼のアパートで二人は寝た。彼女は報道関係を辞め、貯金を減らしながら再就職先を模索中だった。家賃を折半し、同棲を始めた。彼女が妊娠したので、二人は結婚し、妻の実家に近いこの地方都市に居を定めた。二人の貯金と、互いの両親から祝儀の代わりにと渡された分で家のローンの頭金を支払った。全然の新生活だった。彼の月給に加え、蔵書や衣類などを売却して得た小銭を生活費にあてるような日々が暫く続いた。長女が産まれ、二人目の息子が産まれ、そして今、経済的に安定し、結婚してから十年近くになろうとしている。
「町内の皆様、おはようございます……」と、誰にともなく彼の声が囁いた。どうしてそんな言葉を口にしたのか、視界に立ちのぼる湯気に包まれた頭脳ではわからなかった。もしかすると、年に一度の夏、『つくる会』の街宣は、彼にとっての生活の象徴でもあるのかもしれなかった。
風呂から上がり、戸締まりを確認すると、二階の寝室に移動する。しかし、寝付けない。よもや、妻と二人の我が子が『つくる会』に誘拐されたのではあるまいか、と突拍子もない推理が頭に浮かんでくる。しかし明智小五郎でも金田一耕助でも神津京介でもない人間なので、そのような推理が的中する筈もない。
眠れない女が心の四つ葉のクローバーを探し求めるのであれば、眠れない男が勤しむ行為はただひとつしかない。ベッドから身を起こし、スマートフォンを手に取ると、内部データの動画を物色する。妻とのハメ撮り映像が内蔵マイクロチップの容量の八割を占めていた。
自慰を行なう際、イヤホンで大音量の音楽を聴くというのが彼の流儀である。今回も例外でなく、左右の耳にイヤホンの先をねじこむ。再生する動画は先月の海の日、子どもを妻の実家に預けて殴り込みをかけたラブホテルでの一夜、ノアの大洪水のように激しかったあの日の営みのものに決めた。この日、恐らく妻の魂に五百人ほどの赤子の魂が着床したに違いない。
音楽アプリケーション起動、再生。動画再生機能、作動。準備万端、自宅の寝室はいざ鎌倉。
今回の選曲はクイーン『ドント・ストップ・ミー・ナウ』である。
《今夜オレは思う存分楽しんでやるぜ》……ティッシュの箱をかたわらに、下半身を赤裸にさらけ出し、ベッドの上で膝立ちになり、早速、下腹部への血流凝集を開始する。自慰は戦争である、儚く悲しき孤独な戦争である。男の烙印、払拭出来ない
やはりマスターベーションはたまらなく気持ちがいい。性交も気持ちがいいが、それとこれとは次元が異なる。気兼ねなく快楽の心拍数も上がっている。全身が神話の巨人へと変貌したように、彼自身が世界そのものと化したように、行為そのものが今の彼の世界の全てとなっている。膨張の度合も半端ではない。頭から爪先までの神経は、男根に間断なく与えられる刺激の為に総動員され、更に動脈は緊急経路の設置を余儀なくされ、全ての血液が股間へと送り込まれている。
心臓本部! 心臓本部!
上半身と下半身の境目に位置する自慰現場から絶え間なく状況が報告される。
勃起は依然として持続中! 勢いは増す一方! 勃起率計測不能、このままでは神経隊も血流隊もどうなるか予測がつきません! 心臓本部! 右心房、そちらの状況を伝達願います! 動脈は正常に稼働中の模様!
こちら心臓本部! 脳下垂体からの報告、エンドルフィンの分泌係数が異常な数値であるとの! なおも刺激が加えられていることより、皮膚の痛覚が麻痺、あるいは間断ない皮膚への擦過すら快感となっていることが推察される!
激しく反復する行動によって、脳内麻薬の分泌は過剰に活発となり、ドーパミンが大脳皮質から蛇口が壊れた水道のように溢れ出し、そして恐らく途中から手の反復運動が舞踏病のように彼自身の意志から離れている。だが妄想の妻の膣も負けていない。極上の締め付け具合だ。自分の手も極上だ。極上と極上の頂上決戦だ。であるならば、フェラチオする妻の口に敗者復活戦の資格が与えられる。妻の口はまるで格闘技の試合中に乱入する同業者の観戦客のようだ。何よ、私だって負けちゃいないわ、そっちは二つもでかい荷物を
《オレを止めてくれるな》……《こんなにも最高の時間を過ごしているんだから》……《オレはこんなに気持ちいいこと以外に何も望まない!》
そして、射精に達した。精子濃度満点の男の汁が、とてつもない量でティッシュの上に降り注ぐ。彼の視界は凄まじい快感の烈風に激しく点滅を繰り返す。快楽によって天上の空白感へ急上昇していたところ、いざ射精という最高潮に到達すると、そこは何も足場がなかった。勢い勇んで飛び出すと一転し、現実という坂道を転げ落ち、光速じみた駆け足で絶頂に上昇した代償を支払わざるをえなかったので、肉体に跳ね返ってきた反動で満身創痍になるしかなかった。
《ララララ……ウウウウ……》
フレディ・マーキュリーのスキャットに同調するように、虚脱感がどっと押し寄せる。あれだけ絶頂へと音速の衝撃波じみて盛り上がっていたのに、放出した後では、なりふり構わず右手を酷使していた自分が、とことん愚劣でばかげた存在に思われた。しかし快感の余韻は残っている。整合性のとれない茫漠とした心境は、徐々にあるべき輪郭を復元し始める。
彼の日常、日常、日常、家族がいる日常、日常日常日常日常日常日常日常日常日常日常……。
「もういい! もう勘弁してくれ! もう沢山だ!」
絶後たる叫喚が寝室に響き渡る。下の服を直すと、イヤホンを引き千切るように耳から外した。
「こんなもの! こんな! こんな! こんな!」
スマートフォンが全力で放り投げられ、壁と衝突し、致命的な破損こそしなかったが、画面がひび割れ、絨毯敷きの床に落下した。電源は死んでいない。スマートフォンの深刻な全身打撲に目もくれず、ティッシュを片付けると、この家の主は現実世界から遁走するように寝具の奥深くへと身体を潜り込ませた。
その時、オクラホマの友人から長い伝言が送信されてきた。よう、久しぶり、ニッポンはどうだい、夏だな、こっちは特に変わったことはない、ってわけはないか、トランプ政権発足からこっち、地元でも色々と胡散臭い民間政治分析家がいなごのごとく沸いて出てきて、心底うんざりするぜ、おれは別に、グレート・アメリカ・アゲインなんてどうだっていいんだ、オバマだってどうだっていいんだ、何ならヒラリーの方が当選して、旦那のモニカ・ルインスキーみたいなスキャンダルを起こしてくれたら、よっぽど愉快痛快だったろうぜ、今の時代なら生配信、世界初のアメリカ女性大統領の、世界初セックス・イン・ホワイトハウス生配信、相手は当然黒人だな、広告をつければそれだけで合衆国の財政は健全化されるだろうさ、なあ、ニッポンってお盆休みってんだろ、大変だよな、一週間かそこらしか休暇が取れないなんて、そっちの労働環境は狂ってるよ、もしおまえの会社も、そんなブラック・アンド・ブラック・オブ・ブラックな職場、ブラック・ブラッカー・ブラッキストな企業だったら、もう日本なんて見切りをつけて、家族を連れてこっちに来いよ、いや、まあいいや、冗談だ、忘れてくれ、他人の暮らしをどうこう言うなんて無責任だもんな、ニッポンは好きだぜ、そうだな、うん、おまえが昔連れて行ってくれたキョウトのマイコが印象的だな、そうそう、ニッポンの夏はユカタってのを着るんだろ、おれもユカタって好きだぜ、ユカタは脱がすときが一番好きなんだよな、そうそう、おれの新作なんだけどさ、映画化が決まったんだ、しかもハリウッド、日本でも上映されるんじゃないかな、契約金だってがっぽり入る、だから少し、執筆から離れてようと思ってるんだ、世界を旅しようかな、ニッポンにも必ず寄るよ、その時は是非ともよろしくな、おまえもこっちに来ることがあったら、今おれがハマってる葉っぱを堪能してくれ、エクスタシー・テスタメントってんだ、もう最高だぜ、ジェダイの騎士だって病み付き確実、ただ、面倒なことになっちまってる、KT法って厄介なもんがうちの州の議会で通っちまった、いわく、健全で無害な大麻ってのが普及し始めてるんだ、ふざけんじゃねえ、何が健全だ、何が無害だ、KT法が定める大麻ってのは、THC含有量が従来より低いやつを指すらしい、その製法が進んでいるんだと、こんな間抜けな話があるかってんだ、本末転倒もいいところだ、おれたち中毒者が、何が悲しくてそんなお子様ランチみてえなチャチなやつで満足しなくちゃならねえってんだ、それに比べりゃ、エクスタシー・テスタメント、抜群に効いてくるぜ、なあ、昔さ、お互い貧乏だった頃、金を出しあって買ってたやつあったよな、何だったっけ、そうそう、ケネディ・プッシー、ケネディ・プッシーだ、おれたちに
車が停まる音、暫くの静寂、そして玄関のドアが開いた。しかし、二階の寝室で瀕死の彼には届かなかった。
パパ! ただいま!
(Ⅳ そして彼の日常が始まる)
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Op.11「身カラ出タ錆」 文芸サークル「空がみえる」 @SoragaMieru
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