Op.02「ウィダー・ガール」
文芸サークル「空がみえる」
ウィダー・ガール
ウィダー・ガール
何も知らない 笑顔のフォトグラフ
She lives in my memory だからもう 忘れるサ
もう誰も もう何も 傷つかなくていい
ただ一人 消えればイイ
言わなかった I miss you
She lives in my memory だからもう 忘れるサ
――『MEMORY』BOΦWY(作詞 氷室京介)より
第一章
彼は嫌な事があった時は、いつも川辺に立ち寄って静かな時間を過ごすのだった。国道の橋の手前で曲がり、細い道の中頃でスクーターを脇に停め、急斜面の土手をゆっくりと下ると、目の前で流れている川の涼気が不貞腐れた気分を癒やしてくれるように感じられる。この河川のもう少し上流の方は鮎の縄張りらしく、季節になると釣り人の姿がちらほら見受けられる。なだらかな地形の上で海を目指して進んでいる水流は、大気圏で氷結した太陽の光の分厚い雲の下で、黙然と自然の営みを維持している。冬の低い空は今日は冴えており、彼は雲も少ないその有様に嘆息を吐いた。雨が降るか降らないか、そんな微妙な曇天であれば言う事は無い。晴々しい空は好きになれない。不甲斐ない生活をしていて、そんな爽やかさとは無縁の人生を送っているから。大通りから外れたこの川沿いには、廃業した工場の跡地や、車の残骸が積み重ねられた空き地や、信じる神に見放されて人気も絶えた教会等が並んでいるくらいで、普段から人通りも少ない。道路とは所詮そんなものだ。人々の営為の成れの果てに埋もれた中を通るだけで、気が滅入ってしまうだろう。老廃物が蓄積されて腐敗した血管は、流れる血そのものに忌避され、忘れられた存在として静かに朽ち果てて行くしかないのかもしれない。そして、世の中には割合そういう社会の隙間や裂け目でしか生きていけない人種も存在している。
彼のような塞ぎ込みやすい気質の人間には、この場所はうってつけの逃避先だった。人目に触れない場所というのは、却って、そうした場所を望む者の需要によって存続している。空白は満たされないから空白なのであり、そして、誰も満たそうとしないから空白なのでもある。何かが一見無意味に思えたとしても、それは狭量な視野で本質を見落としているだけの場合がある。
夜のうちに驟雨があったのか、地面は夕方になっても湿り気を帯びていた。冷たい空気も世界が風邪を引いているかのように感じられる。しかし地球には防寒具が無い。重ね着の月に、彼だけが厚手の上着で寒さを凌いでいる。もう少し春めいてくると土手に雑草が生い茂り、ゆっくり休むには面倒が増えてしまう。草が群がると虫が集まる。夏になれば強烈な陽射しと暑気がそこに加わる。そもそも春夏という季節は、彼の中で存在価値が乏しい。景色が色褪せる秋の方が元気が出る。冬は不透明でくすんだ空模様を見上げているだけで、気持ちが和らいでくる。野生の獣が生き延びる為に眠りこける日々が終われば、人々は新たな季節の彩りに浮き足立つ。二度目の年明け。それは人間社会の中だけで通用する節目で、その社会に属しているから意味がある。しかし彼は、そうした色めいた世の中の流転がたまらなく疎ましい。風習や、慣例や、通念といった、過去から培われて来た伝統的価値観の賜物に対して、実体の無い不確かなアプリオリなものに対して、生理的な拒否感が表れてしまう。それは、ある種の疎外感なのかもしれない。自分が今、社会との繋がりが脆い感覚があるから、当たり前とされているものを自衛的に拒絶しているだけなのかもしれない。どうせなら、夏の終わりの夕焼けに世界全体が焼き尽くされてしまったらいいと、八月最後の悲しい黄昏に祈ってみる事さえある。彼は今でも夢を見るのだ。今日で夏休みが終り、明日から学校に行かなければならない……そんな愚にも付かない夢を見ている……いつまでも沈まない夕陽に向かって、途方に暮れている子供のように、人生の黄昏を垣間見ている。現に今、彼は土手の下でこうして一人、賽の河原に立ち尽くしているのだ。
ごつごつと禿げた地面の汚れていない部分に尻を落とし、煙草を吹かしながら、彼はほしいままにぼんやりしていた。日頃は自宅以外で喫煙しないが、この場所だけは例外である。携帯用灰皿を手にした儘、心地好い猛毒を肺に送り込み、たっぷり根本まで気分転換の一本を味わう。
両親兄妹の四人家族の中で、煙草を買うのは長男の彼一人だった。これに父が甚く立腹した場面を、彼は今でも鮮明に覚えている。成人してから吸い始めたのだといくら真実を述べ立てようと、父は息子の喫煙に断固とした拒絶反応を示した。息子の健康を気遣っての愛情に溢れた怒りでは全くない。更に、彼の父は煙草自体にそれ程の関心も持っていない。それなのに、あれだけ業腹だったのは何故かと言えば、相手が長男だったからだけの事である。そうなれば、右も左も関係ない。法律的に問題の無い事柄であろうと、自分の私情次第で理非をひっくり返す父の悪癖には、彼も流石にうんざりさせられた。
彼と父は前世の仇敵なぞの因縁でもあるのか、到底馬が合わない親子だった。彼は高校を卒業してすぐ一人暮らしを始めたが、進学の為という理由はその場限りの建前で、厳格で――ちゃんと常識的な尺度に基づく厳しさならまだよかったが――強権的な父から逃れたかったというのが本心だった。浪人時代の一年間、殆ど虐待にも近い父からの失望の叱責や幻滅の罵詈雑言は、思春期も終わりかけていた彼の人間性に決して小さくない影響を及ぼしていた筈である。何事にも懐疑的で及び腰になってしまうのは、小さい頃から家庭内の家父長制度の被害者であるのを推量させるに足る性格だった。父が善と言えば善、父が悪と言えば悪、そんな家庭環境で育った彼は、いかんともしがたい集団内の軋轢に苦しむ少年時代の家庭環境に、現在の身の上を予感させる内的な問題を抱えていた。
絶対的な存在である父から解放されたはいいが、待っていたのは打ち解けられない社会の中における埋められない距離感だった。親しく語り合う友もおらず、弱さを預けられる恋人もおらず、吹かれるだけで途切れそうな脆い関係で結ばれただけの、過ぎ去るだけの対人関係に束の間だけ孤独を紛らわす。そんな毎日が、大学を出てからもう何年も繰り返されている。彼と同じ学士課程修了という肩書を得た同窓生は、それぞれの進路に向かって旅立っていった。それでも大半は就職という一つの選択肢に限られていた。彼は所謂落ち零れの部類に入るのだろう。新卒の波に乗れなかった卒業生でも、何人かは結果的に正規雇用の戸口を潜り抜けた者がいる。都市部の大手を諦めて地元に帰ったが、そこで役所勤めの口を利いてもらった者もおり、経済面での安定を妥協した者もいる。在学時代から続けていた実益を兼ねた趣味を生業にして、今では最高の所得税率に及ぶ収入を得ている者もいる。宇和は風聞でそうした学友の卒業後を断片的に伝え聞いた。
彼等と自分の何が違ったのか、それは今でもわからない。わかったところで、何がどうなるとも思えない。厳然として彼はただ大学を卒業しただけで、定職にも就かず浮き草を演じている負け犬に過ぎないのだった。
一本吸っても胸の中の鬱憤は晴れない。彼は更にもう一本火を点けた。臭気を含んだ白い煙が、立春の薄暗い夕空に昇って消える。何も残らない。彼の気管を汚すだけだ。大学時代から駅近くのコンビニでずっとアルバイトを続けている彼だが、今日は清算の際に厄介な客から言葉の棘を突き刺された。それも店員としてちょっとした無償の善意を示したのを、横柄な客特有の陰湿な意地の悪さではねのけられたので、不快な思いは一入だった。相手は定年にはまだ年月があるような、自分の父親を同世代風の男性だったので、彼の中の心外はいつにも増して多かった。
当たり障りのない対応されたらわざわざ気を害する事は無いのだが、接客業務というのは得てして従業員の心遣いが報われないものだ。たかがアルバイトの店員風情がそこまで行き届いた配慮を見せるのも滑稽な話であるが、その辺を割り切れないのが彼の性分だった。放課後の短時間で入っている高校生の後輩二名にそうした不運を陰で蔑笑され、余計に陰鬱な心地に苛まれたのである。店長はもう、つうと言えばかあという風に相通じる間柄で、業務に関しては古参の彼を頼りにしている面もあるのだが、他の若い子からすると、彼のような人間はいつまでもコンビニ店員のアルバイトに甘んじている社会の敗北者として嘲弄の対象なのだろう。
尻が痛くなってきたので立ち上がる。眩暈はしなかったが、若干立ち眩み程度でもない意識の雑音が視界を乱した。気紛れに水際へ近づいてみると、丁度岩石に囲まれて形成された小さな水溜まりに一匹のめだかを発見した。流れの所為で出られないのか動かない。最早元の群れに合流する望みを断ち切ってしまったのか、めだかは四方の障壁の中でひっそりと己の命運を諦めているように見えた。このめだかはこんな絶体絶命の状況に追い詰められるだけの罪があるのだろうか。ただ単に自然の摂理に則りながら生きているだけで、どうしてこのような受難に遭わなくてはならないのだろうか。めだかの哀れな姿が、まるで何の保障もない日々をふわふわ漂うだけの自分と重なった彼は、近辺に散乱している塵から汚れの少ないビニール袋を選び、そこに川水を入れてめだかを捕獲した。自宅に間に合わせのプラスチックの容器があったのを頭に思い浮かべながら、彼は土手を引き返してスクーターに跨がり、袋の中身を零さないよう慎重に運転した。
自宅は駅の近くにある年季の入ったアパートで、二階の一番端っこの一室は、浦賀宇和と表札がかけられてある。アルバイト先と同様、このアパートでも彼は古株だった。大学を出て勤務時間が増えたので給料は上がったが、時間給で雇われている身分に変わりはなかった。アパート内の交際は無い。隣室は数年前から入居者が現れない儘で、他の部屋の住人とも挨拶すら交わすか交わさないか怪しい。そしてこのアパートの全員が、なるべく他の入居者と顔を合わせないように注意している具合だった。それは苦痛を避けたいが為にモルヒネ中毒になるような、悲哀を催す惨めな処世術である。背中合わせでしか他者と真正面に相対できない、そんな同じ穴の狢の坩堝がこのアパートだった。
彼が帰ると、妹の夕凪が奥から出迎えてきた。妹が勝手に上がり込んでいるのはもう日常化した事で、宇和は一々顔色を変えたりしない。七つ下の妹は現在公立大学の三回生で、実家からの通学だと朝が大変なので、屡々実家と大学の中間に位置する兄の住居で寝泊まりしている。偏差値七〇の妹なんて、三流私大文学部卒の兄にしたら血の繋がりを疑っても仕方がないのかもしれないが、厳然たる現実を認める外ない。
長男への教育には血道を上げていた父だったが、下の娘は幼少から比較的自由にさせてきたと見える。父が何も提案したり裁量を振るわなかったので、夕凪は何の習い事も稽古通いもしてこなかった。塾とも無縁だった。家で予習復習に取り組んでいる姿を見た試しがない。彼女の学力は生来のもので、叩いて伸ばすものではなかった。兄の方は金槌で殴打され過ぎた頭で、ようよう大学を出たといった具合だ。宇和はそこに兄妹の出来不出来の要因が潜んでいるのではないかと、邪推するのも吝かではない。
「めだか? 飼うの?」
「そうしよう。ひとりぼっちで可哀想だったから」
袋の中を覗き込みながら、夕凪は「へえ」と頬を綻ばせる。宇和も知らず知らず、何事にも興味津々な妹を見て仄かに頬が緩む。誰にでも人懐っこく、良くも悪くも遠慮を知らない妹は、平生から陰気な兄とは対照的に昔から円満な人間関係に恵まれてきた。中高は特進コースで優秀な学績を修め、どう間違っても卒業は揺るがない高校三年の頃、夏休みをアメリカのホームステイで過ごした。父の親戚に在米日本大使館勤めの知人がおり「出来のいい娘さんの人生経験に」と厚意で手配してくれたそうだ。卒業旅行としてそのホームステイ先の家族に連れられて北欧巡りをした。陽気な米国の恩人家族とはインターネット通話等で頻繁に連絡を取り合っているらしく、依然親しい付き合いがあるのは、宇和は英語の旅行土産を受け取る度に嫌でも思い知らされる。
妹がホームステイを終えて帰国してくると、服装の趣味が変わり、化粧を知って垢抜けたのは、つまりそういう事なのだろうが、宇和は「年頃の女の子だものな」と納得しただけで妹の貞操観念に一々口出しする分際ではない。彼も学生時代、一人暮らしをいい事に人並に爛れた若さを発散した経験を持つので、妹の自由恋愛をどうこう言えた分際ではない。飲み会の後に連れ込んだ女子と、一夜限りの汗を流したのも一人や二人ではない。酔った勢いで「今日は大丈夫の日だから生でして」とせがまれ、後で当事者二人、ひやひやさせられたのは何度あっただろう。
そんなだらしない学生時代の女性遍歴を持つ兄に比べたら、目先の欲求に惑わされず、自由恋愛の意味を曲解してもいない妹の方が、まだ断然自分を大切にしていると言えた。人好きのする彼女は、だが八方美人ではない。今は勉強に専念したいから恋人は作らない、不特定多数を相手にふしだらな交遊をするなんて以ての外だ、というのは平素の妹の言である。異性から言い寄られない事の負け惜しみではなかった。妹の容姿は敢えて言うと特徴が無い。特徴が無い点に彼女の美しさの秘訣があった。可愛いとか、大人びているとか、そういった美辞麗句は不思議と的を射ているとは思われなかった。特徴が無いとは、言い換えると彼女の魅力には過不足が無いという事になる。取り立ててどこがどう魅力的なのかと問われると、兄の目からも答えるのが難しい。しかし、容姿が整っていると言われると間違いではない。
非の打ち所のない妹に、宇和はコンプレックスを感じてはいない。寧ろのびのびと才気煥発な青春を謳歌している夕凪には、年齢が離れていて懐かれているからもあるだろうが、純粋に助けられていると実感している。家では終日般若面の父と、そんな父に唯々諾々と従属するしか出来ない繊細な母の板挟みで、もし夕凪がいてくれなければ宇和はとっくの昔に神経を故障させていただろう。天真爛漫な妹は家族の中で清涼剤の役割を果たしている。こんな侘びしい自宅でも、寝床に利用するならすればいい。前途有望な妹に微力でも支援が出来るなら余計に、彼はそんな風に前向きに受け捉えていた。
「今日、泊まっていきたいんだけど」
「構わないよ」
めだかを袋より広々として安定した場所に移している宇和の後ろで、夕凪はにこやかに万歳と手を挙げるのだった。夕食はスーパーマーケットの惣菜が主だった。大学の帰りに妹が購った物である。他には炊飯も既に仕度してあり、時間が来ると二人で食事の準備に取りかかる。インスタントの味噌汁と、台所の香りを放たない冷ややかな料理も、この浦賀兄妹にとっては何の不満もない。妹の一方的な雑談を聞きながら、宇和は黙々と箸を動かし続けた。
風呂を上がると、先程まで無邪気な表情を浮かべていた夕凪だったが、俄然と口数を減らしていった。だが閉じ合わされた唇の奥で、彼女の気持ちを含んだ言葉は無数に犇めいているのが瞭然と見て取れる。物言いたげな妹の様子を、宇和はノートパソコンでめだかの飼育方法を検索しながら横目にする。
「また親父に何か言われた?」
彼からの発言を待っていたかのように、夕凪の反応は早かった。
「お父さんが何か言うのは私にじゃないでしょ」
不貞腐れた返事を聞いて、宇和はパソコンの画面に向き直って溜め息を吐く。彼が家を出てからも、父の不出来な息子への毒舌や痛罵や呪詛は尽きる気配も無いらしい。何かと兄のていたらくをあげつらい憂さ晴らしをする父を、夕凪は断じて許容出来ない。家族に対する愚痴を身近に聞いて、いい気持ちになる人間はいないだろう。唯でさえ夕凪は兄が好きである。同じ腹から生まれた近親者として、邪な屈折のない親愛の情を抱いている。それは、敬愛や、純真や、誠意といった精神に基づいた妹の兄妹愛だった。兄への清らかな心情とは別に、夕凪の善美な人間性がそこから如実に窺われる。
「お父さん何かの病気じゃない。お兄ちゃんに対して、あんなにきつい物言いをするなんて」
「知らない。でも、お兄ちゃんが悪いんだ。親父の期待に応えられなかったんだから……」
夕凪は床に敷いた蒲団の上で、膝を抱えて座っている。不納得の顔で、パソコンを操作している兄の背中をじっと見つめている。
「自慢の息子になれなかったお兄ちゃんが悪いんだ。だからもう……な、夕凪は賢いからわかるよな」
「何それ。そんなのおかしいよ」
「いいから」
「全然よくない」
語気荒く言い返され、また始まったかと宇和は悩ましかった。
「お父さん絶対におかしい。お兄ちゃんは駄目だって平気で言って、自分がどれだけ凄いか偉そうに言って。大蔵省を嫌気が差して辞めたとか言ってるけど、どうせ出世街道から外れた負け組なのに」
最近は殊に父の頭の平和が目に余るのか、夕凪は兄の背中を不満の捌け口にしている。そうやって臆面もなく父を非難すると、長年抑圧されてきた兄の溜飲が下がると思い込んでいる節もあり、宇和自身はそんな妹のあざとい配慮に内心で迷惑している。被害者が事情を知らない他人に訳知り顔で慰められても、身勝手な善意としか感じ取れない場合もある。それで何かが解決する訳ではない。
二人の父は省を退職後に結婚し、当時新興住宅地として開発が始まっていた地方に持ち家を構えた。再就職は新居近くの局仕事だったが続かなかった。「東大法学部卒の都落ち男」という嘲弄に耐え切れず、ある日突然辞表を叩き付けたらしいのは、兄妹も親戚の口から伝え聞いた。その後にとある一般財団法人に滑り込み、現在はそこの理事やケーブルテレビ会社の社外取締役等を務めている。自分の経歴をさも武勇伝として脚色する父だが、夕凪にとってそれは、バブル崩壊もアジア通貨危機もリーマンショックも他人事だった世間知らずとしか映らない。どれだけ立派に務めを果たしてきたと父自身が豪語しても、娘の世代には、三十年間ぬくぬくと安泰な地位で給料を貰ってきた自画自賛でしかない。
「親父はちゃんとしてるから偉そうに言えるんだ。寝たきりのお祖母ちゃんの世話もそうだったじゃないか」
売り言葉に買い言葉だが、宇和は不意に口に出してしまっていた。そうすれば、聡明な妹から死角のない反撃が繰り出されるのは自明の理だった。
「それもお母さんが付きっきりだったんでしょ。仕事が忙しいって、面倒な事は全部お母さんに押し付けてさ。お母さん可哀想、お前の母親を養ってやるって結婚を迫られたんでしょ。本当の話ならお父さんなんて最悪」
人生経験も自分より豊富な夕凪が、どうしてこうも感情的になるのか、宇和はもどかしい気持ちだった。全てに対して物分かりのいい娘であれば、完全無欠に百点満点の人間なのだが、つくづく彼には惜しく思われた。
「何も知らないで誤解を招く言い方をするもんじゃない。なあ夕凪、こんな話楽しくとも何ともないんだから、もう止めよう」
「だってお父さんの内弁慶が許せないよ。お兄ちゃんはちゃんと自活してるのに、どうしてあんな目の敵みたいに酷く言うの。ちゃんとやっていけるなら、何歳になってもフリーターだって構わないと思う。お互いフリーターで結婚してる人とか、私は知ってるんだから」
ちゃんとやっていけていないだろう、と宇和は反論しそうになった。夕凪が自説を貫く時は、決まって海外での見聞をさも日本でも当然のように援用する。消費税増税の議論で、品目別の税率を無視して諸外国より日本は低いと熱弁する政治家にも似ていた。それは兄を頷かせる手法には足らなかった。
「お兄ちゃんはちゃんと自分で税金を納めて、銀行で口座を作るのとか、携帯電話の機種変更とか、全部自分で出来るじゃない。お父さんそんなの全然知らないよ。何でもお母さん任せだから。それなのに、あんな風に自己顕示欲が強いって、みっともないと思わないのかな? お兄ちゃんの方がよっぽど世間を知ってるよ。ねえ、そうでしょ?」
「はいはい」
張り合いの無い相槌を打たれ、夕凪は子供らしく頬を膨らませた。彼女も父の人間性の源泉がどこにあるのか、知らない娘ではない。浦賀の家を遡れば、元々は江戸の下町のしがない町民だったそうだ。そして脱亜入欧の思潮に騰躍する明治時代、上流階級に西洋文化を浸透させるべく奔走した、今風に言えばライフスタイル・コンサルタントで成功した男が一大転機となる。
また戦後の混乱期に方々の土地を転がして回り、その結果、一族の富は莫大に膨れ上がった。
宇和と夕凪の父は、そんな一家の傍流にあたる。苗字は本家の浦賀を継いでいるが、二人の祖父が非嫡子云々といざこざを抱え、父自身も親族付き合いを毛嫌いするような目に遭ってきた為に、あまり資産家の恩恵に与れる立場ではなかった。父の従兄弟の中には、住宅地開発の為に所有していた山を売り、親子三代ならば遊んで暮らせる程の財産をのんびり運用しながら、悠々自適な現代の貴族生活を満喫している者もいるという。
父が名誉欲や出世欲の権化となったのは、そうした運命の皮肉にさらされた所以なのだろうと、兄妹の客観的な目から鮮やかに見て取れる。遠近含めた親戚筋とくれば、都銀の重役だの、皇居警察幹部だの、内閣府審議委員だの、県知事だの、ポーランドに事務所を構える新進気鋭の芸術家だのと多彩かつ鴻名晴々しい。それに比べて、地方中小都市の小金持ちが精々の父は、今も変わらず壮絶な劣等感に身を焼かれているのだろう。待望の長男には自分の野心を実現してくれるように、遮二無二なって教育に躍起だったのも、そうした背景を鑑みると無理もない事と思われる。
しかし、宇和は見事に父の悲願を溝に流してしまった。中学は何とか市外の私立進学校に通っていたが、やがて勉学の限界が表れ始め、高校は平凡な県立に入り、大学は一浪した挙句、履歴書の学歴欄に記載するのも憚られるような三流私大の人文学部を卒業した。まして今も、職歴に加えられないフリーターとして、未来のないアラサー人生を送っている。長引く不景気の今日では、父が満足するような社会的地位を獲得するには、贔屓目に見ても中々の悪条件である。悪い結果はその先の選択を狭める。成功体験の欠如は、個人のアイデンティティを錆付かせて腐らせる。
親による子供への投資という意味では、彼は父に対して罪悪感もあり、不甲斐無さの自己嫌悪に項垂れた事も数知れない。宇和とて自ら望んでこんな状態に落着したのではない。彼も自分なりに努力を振り絞った。しかし現実は優しくない。図らずもこうなってしまった。元から現状を目指していたとは断然言い切れない。
夕凪が兄の真価を買い被っているのは事実だった。自分が苦もなく成し遂げられる課題は、兄の宇和にも容易な筈だとする主張を頑なに曲げようとしない。だから夕凪は、兄が考えられる可能性の中で最良の選択をとっているのだと思っている。宇和からすると、最近はもうそんな夕凪流の論理とまともに向き合おうとはせず、上の空で聞き流す事が多くなった。
凡人は天才の思考に到底追いつけない。それが世間の常識だった。
膝行して床に置いている水槽代わりの容器に近寄り、めだかを見下ろすと、夕凪は険しかった顔付きを潜めた。
「ね、めだかちゃんもさっきの話を聞いて、私の言う通りだって思うでしょ」
「わかる訳無いだろう」
一通りインターネットでめだかの飼育方法について情報収集した宇和は、明日から本格的にめだかの世話に勤しもうと決心し、パソコンの電源を落とした。
部屋の明かりを落とし、兄妹は隣り合わせに並べた布団に入る。すると、夕凪は顔だけ隣の兄に向け、再び口を開いた。
「お兄ちゃんはお兄ちゃんのやりたい事、やればいいと思うよ」
宇和は早々に眠ってしまったのか反応しない。
「親戚付き合いがややこしい家に嫁いできて、お母さんは凄く大変だって、この前、神奈川の叔父さんが話してくれた。それで、お兄ちゃんの名前を考えたのもお母さんなんだって。『宇宙の調和を保つみたいに、お兄ちゃんが皆を結ぶ絆になれるように』って。お兄ちゃんの名前には、ずっと苦労してきたお母さんのそんな願いが込められてるんだって、叔父さんが言ってた。叔父さんもお兄ちゃんの事、信じてくれてるんだと思う」
暗がりの部屋の片隅で、めだかは少し元気づいているような様子だった。
「私もお兄ちゃんの名前が大好き」
最後にそれだけを言うと、夕凪もほどなくして寝息を立て始めた。
めだかは半月するとあっさり死んでしまった。夕凪は犬や猫が死んだみたいに悲しんだ。
宇和は妹を連れてめだかを拾った川まで行き、小さな墓を拵えてやった。遠くの空を眺めると、分厚い雨雲が長く大きく浮かんでいた。彼は内心、近く到来するだろう悪天候に小躍りしそうだった。
第二章
ノートパソコンの調子が悪くなったので、新調する為に費用を工面しなくてはならなくなった。三年前の型式なので、今日び性能的には厳しい面がある。宇和は暫く気息奄々としたノートパソコンを鞭打っていたが、やがて絶命してしまった。インターネットを利用する為だけに、漫画喫茶を利用するのも面倒臭い。次の台を用意するしかない。こうした場合、妹は自分が小遣いとして所持している月限度額五〇万円のクレジットカードを臆面もなく渡してくるので、彼はそれを回避しようと最寄の家電量販店に走った。
宇和は自宅で金になる物を掘り出し、なけなしの足しにした。実家を出る際に詰め込んだ荷物は、未だ開封されてないものもあった。その中に高校時代に読んでいた本もあった。段ボール箱を開けた一番上に、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』の文庫本が十年近くの時を経て日の目を見る。文芸部の先輩が読んでいたので、自分も中古で買ったものだ。ヘッセはもう読んでいない。今ここで読み返してみると、きっとあの頃の自分が鮮明に蘇ってくる気がして背筋が少しざわついた。高校生の時分の、未熟な癖に世の中の何もかもをわかっている風な振る舞いは、今となってはその青臭さで意識が遠のいてしまいそうになるだろう。夢野久作の『ドグラ・マグラ』が二度と読み返したくない怪奇小説ならば、ヘッセの『車輪の下』は二度と読み返したくない青春小説のようなものだろう。彼は羽目を外した自分の姿を目の当たりにした気分で、そっと本の箱は元通りに仕舞い込んだ。
ノートパソコンを買ったその日、夕凪から連絡があった。大学の方で色々と活動がありここ最近は忙しかったらしい。中高時代は受験シーズンだろうと遊び回っていた彼の妹も、流石に大学になれば付け焼き刃では通用しなくなっているのかもしれない。同じ付け焼き刃で平均並の成績が精一杯だった宇和にとって、妹との歴然たる基礎学力の差は逆に天晴れな程である。
連絡の内容は、今度の休みにどこかへ出掛けようという誘いだった。彼に断る理由は無い。アルバイトの時間に差し支えさえなければ、何の問題も無い。どうして兄なのか、大学の友達ではないのか、その辺の夕凪の心情は彼にはわからない。気心の知れた兄と一緒の方が楽しめるというだけなのだろう。
了解の返信をしたため、彼は新しい電脳世界への扉を開いた。そしてまた無為な生活を送り、許された人生の時間をただただ浪費する。
どうしてこんなにも幸せでないのだろうと、宇和は時折ふと考える。世界屈指の経済大国で暮らしているのに、物質面で至れり尽くせりなだけで、人生の充足感がどこにも見出せない。寧ろ物質的豊かさも、それを満喫するだけの収入があってこそではないのか。たかだか時給で雇われている身分の彼には、その社会の爛熟に肖るだけの資格すらないのか。片時も止まらない毎日に漫然と押し流されているだけで、滄海の一粟としてどこの誰でもない人間を演じるだけの虚しい存在でしかない。現代人が優秀な学績を修め、社会的に認められる職に勤め、家庭を持ち、そして親類に見届けられる臨終を迎える事が人生の全てなら、彼はとっくの昔にそうした尋常な例から脱落している。成る程最早、自分は世間的に一般とされている幸福とは無縁の領域に属しているのではないのか。しかしそれでは何故、自分の意志を以て選び取った自由に、飼い犬に手を噛まれるような気分を強いられなければならないのか。一度の浪人で全てを諦め、分相応な大学に行くのと実家を出るのも、全部自分の意思で決断したではないか。駅前のコンビニのアルバイトであらゆる金銭の問題を解消しながら、ちゃんと留年せず四年で大学も卒業した。そして現在も何不自由のない暮らしを続けている。それなのにどうしてこんなにも満たされないのだろうと、宇和は言いようの無い不鮮明な息苦しさに苛まれる。何も疚しい事はしていないのに、何故か自分に非があるような罪悪感が付き纏う。生まれた瞬間から贖いの果たせない罪業を背負わされているような重圧感と、常に目に見えない何者かから後ろ指を差されている不快感。それは単なる気の所為だろう、繊細な気持ちに忍び込む暗い囁き声でしかないだろう。だが宇和自身にとって、それが錯覚か否かはどうでもいいのであり、現実に自分に影響を及ぼしているという点において、それは確かに存在しているのだ。
生き甲斐のない人生は、やがてその人の心を腐らせていく。現実生活が悪夢と化す。
実家から最寄の駅の改札をくぐると、ロータリーの方に見慣れた高級セダンを視界に捉える。向こうも宇和の姿を認めると、一旦降車して助手席へと回った。朝とも昼とも言えない時間帯、会社員や学生の波も引き、退屈な平日の午前が麗らかな日和に煌めいている。春一番に先だって訪れた低気圧はもうこの辺りを通過し、段々と息切れをしながら、関東方面の天気予報に半開きの傘印を広げている。今回の雨が冬眠中の動物への目覚まし時計でもあったのか、晴れてからは、瑞々しい季節の色彩が息吹き始めているのを肌で感じられた。空気は未だ冷たいが、仄かに春の足音が聞こえてきそうだった。夜明け前の残寒も、陽光に照らされて淡く滲んでいる。人々の着衣も季節の移り変わりの最中にあるようだった。
バスやタクシーに気を付けながら、彼は小走り気味になって先に着いていた妹と落ち合った。「あれかな」と電車の行き来を眺めて手持ち無沙汰を誤魔化していた夕凪は、助手席でシートベルトを胴に通しながら、運転席に乗り込んできた兄に微笑みかける。
「ごめん」
「いいよ。全然待ってない」
まったく恋人みたいなやりとりだが、二人はつゆともそんな色を意識していない。運転を替わり、宇和は駅前から軽快に出発する。すぐに赤信号に引っかかり、左折の方向指示器を点滅させながら、彼はあっと声を漏らした。
「ミラーのところの擦り傷、親父は何か言ってた?」
液晶画面に触れてカーナビゲーションの設定を調整しながら、宇和は隣席の表情を一瞥して窺う。夕凪は四角い携帯の画面に指先を滑らせながら、軽く首を横に振った。
今日は全国的に気温が上がると言っていたので、夕凪は短めのスカートに上も薄着だった。兄の印象で、視線を下に向けた時、物憂げそうに若干伏せられる瞼の感じが母によく似ていると思われる。目の形も似ているからだろうか、もう少し年齢を重ねるともっと母親に雰囲気が近づいてくるのかもしれない。一方の宇和は最近、「歩いている姿を後ろから見ると、不意にお父さんと見間違えてしまうのよ。やっぱりお父さんと宇和ちゃんは親子なのねえ、そういう部分から似てくるものなのかしら」と母から指摘されるようになった。彼は頗る不本意だった。
「別に何も。ちゃんと伝えておいたけど、本人、確認もしてないんじゃないかな。どうでもいいって感じだったよ」
夕凪は鞄から棒状のスナック菓子を取り出すと、早速ポリポリとやり始める。
「そう。ならいいんだけど……」
いかんせん宇和もどこで何がぶつかったのか思い当たる節が無い。しかし、兄妹で遠出をした時のものだろうと推定される。この高級セダンは父親名義の車である。宇和は時々、父の怒りの発火点がどこにあるのかわからなくなる。ほんの些細な事で烈火の如き激怒を撒き散らす時もあれば、そこは常識的に憤りを感じるだろうという場面で、一人だけ取り澄まして平然としている時もある。「うちの人は、よそとはちょっと神経の配線が違うみたいね」という母の言葉も、あながち冗談ではないのかもしれない。
「暖かくなれば、また色んなところに行けるね」
「そうだな」
平生つましい生活をしている宇和にとって、夕凪との外出が数少ない気分転換の一つだった。小さい頃から、二人一緒に出掛ける自体は珍しくない。宇和にしてみれば、それは母の手伝いのようなお守りのつもりもあった。お互い免許を取ってからは尚更、移動範囲が格段に拡大している。それまでも生徒時分の夕凪にとって、車でどこへでも連れて行ってくれる大学生の兄という存在が、おくびには出さずとも密かな一つの自慢だった。二人の外出の際に走らせるのは、週末や休日以外は車庫に入れっ放しである父親名義の車で、今はジャガー、前はベンツだった。夕凪は中高時代、「ユーのお兄さん、外車乗っててカッコイイよねー」と、同級生の友達が黄色い声を上げるのが快感でもあった。宇和には知られざる一面だが、才色兼備の妹でも年頃相応の虚栄心を持っているし、周囲の憧れを浴びて優越感に浸りたい気持ちもあるのだ。
目的地によっては夕凪がアパートまで車を走らせるのだが、今日は方向を考えて宇和が出向く方が話が早い。こういう場合にそれとなく実家に寄るのを提案する夕凪だったが、当の本人から曖昧な受け答えで有耶無耶にされる。時には夕凪が食い下がり、「お母さんが心配してるから、たまには顔を見せに帰ってきなよ」と脇腹をつっつくと、宇和も片意地を張っていられなくなる。それでも父が不在の時間しか行かないし、長居はしない。どうせ母との間に交わされる話題も、自分の将来に関してに収斂していく。
母親は純粋に息子の未来を憂慮しているのだろうが、宇和自身にとってはもう将来など過ぎ去ったものなのだ。あるいは今この時点が彼にとっての将来なのだ。そもそも、三十歳も目前にして将来も何もあったものではないだろう。
「そうそう。見た? 電気自動車」
「電気自動車?」
「お父さん買ったの。お兄ちゃん知らなかった?」
「え? どうして?」
思わず横に顔を向ける。すぐに姿勢を正し、高速インターと合流するバイパスを一直線に前進していく。
「母さんのフィアットは?」
まさしく寝耳に水だったので、宇和は詳しく経緯が知りたくなった。年末以降実家には帰っていないので、ここ二、三ヶ月の動向は一切関知していない。
「フィアットはあるよ。私も普段はそっち乗ってる」
「え? これとフィアットがあるのに、どうしてまた買ったの?」
何か勝手な想像が働いた気がしたが、宇和は即座に頭の中で掻き消した。
「本当、意味不明。まあ単に欲しくなったんでしょ。ディーラーの説明、私とお母さんもついて行ったんだけど、それはもう感心して聴いてたんだから。いい車だと思って、ホイホイ買っちゃったのかな」
宇和は呆れたような、何とも言えない相槌を打つだけだった。今更、父の思考回路を理解しようとは思わない。
「キャッシュで?」
すかさず宇和が訊ねると、対する妹はちょっと吹き出して頷いた。
「そう。キャッシュで」
この短い応酬は兄妹の定番だった。ローンやクレジットの支払いを毛嫌いする父が、可能な限り現金で清算を済ませようとする性癖に因んだ冗句だった。少し前は「お父さん、起きてからウォーキング始めるって言い出したんだけど、目標は毎日一万歩だって」「キャッシュで?」「そうそう。キャッシュで」というバリエーションもあった。
「それはいいけど、お父さんのあの口癖、外で言うのは止めてくれないかな。地味に恥ずかしいんだけど」
「『流石、これが二十一世紀だ!』」
「それそれ。って言うか、何なのかなそれ。前にニュースでボーカロイドのライブ映像が流れてて、それ見た時も『凄い。二十一世紀が来た』って。その後しつこく私にあれが何なのか訊いてきて、ああもう鬱陶しい」
父は余程、自分が生まれ育った時代に苦い想い出しかないらしい。二人の子供はそう解釈するしかなかった。
二人が思い返してみれば、確かに父は、懐古趣味やリバイバルブームといった年配の好みとは無縁の性格をしている。「古き良き」なんて価値観は冷笑の対象でしかない。半世紀以上を生きた今も常に、刺激的な新世紀の進歩に目を輝かせているのが二人の父だ。携帯電話に手を出したのも初期の頃だし、小学生だった宇和にパソコンを買い与え、ネットワーク社会の黎明期をリアルタイムで体験させたのも父だ。家電製品についても、実際に感嘆した新機能があれば、母の意見を歯牙にも掛けず新調する。父の著しい高度経済成長期蔑視と平成不況賛美は、やはり惨めな青春時代を強いられてきた過去の反動と推し量るのが妥当だった。
大抵の必要な物は、ネット通販で事足りる。こんな単純明快で便利な時代に生き、何故にセピア色の郷愁に在りし日々を懐かしまなければならないのか。知りたい情報は、ちょこちょことキーボードを叩けばわんさと検索出来るのだ。何時間もかけて旅行に出るならば、自宅で酒でも飲みながら、投稿されている動画でその手の映像を楽しめばいい。インターネットが発達し、人間関係が希薄化したと人は言う。しかし宇和も、そして兄以上に父を傍で見ている妹も、父はそんな世相を頗る痛快に満喫しているように見受けられた。常に常に、新しい何かを得る事で豊かな人生を――そう貪欲に追い求め続けるのは、皮肉にも浦賀の血に由来するものでもあると考えられた。
二十一世紀の今を絶対的に肯定する父は、昭和のどこにも居場所がなかったのだろう。恐らく父は、二世代程は早く生まれてきてしまったのかもしれない。そう考えていけば、宇和はあまりに遅すぎた父の青春が不憫に感じられた。
今日の行き先は伊勢だった。先ずは二見の夫婦岩を目指して、伊勢道自動車を下りると湾岸の方へと国道を進んだ。やはり仲睦まじそうな男女が主な客層だった。
「うちらは血の繋がった兄妹だけどね」
「そうだな。まあ、本来の連れ合いとこういう場所に来る事は一生無いだろうな」
卑屈でも何でもなく、混じり気のない気持ちだった。そんな事ないよ、なんて耳障りのいい慰めを言わない辺りに夕凪の現実感がある。「私も無いだろうな」と同調してしまう始末。夕凪の方も、自分の人生の中で結婚はさほど重要ではないらしい。
すれ違う参拝客は、多くが幸せそうにしている。興味本位で訪れている訳ではないのは一目瞭然だ。
夕凪が年配の利用客から記念撮影を頼まれる。鷹揚に承る妹は、まるでその一員であるかのように軽快にデジタルカメラのボタンを押した。
宇和には幸福な家庭という想像が欠如している。自分が一家の大黒柱として立派に所帯を持つ姿が欠片も頭に浮かんでこない。それは自分の父親に対する感情の裏返しでもある。自分の存在はあの男の遺伝子を受け継いでいる。自分がもし我が子を持つ人間となれば、父親と同じ轍を踏んでしまいそうで、その点についての恐怖が念頭を去らない。
よくも悪くも子は親を見て育つ。宇和にとっての父親は、この世界で一人しかいない。あの男が父親なのだ。尊大で、傲岸不遜で、自己愛的で、複雑な家庭環境で育ち、親の愛情を知らずに大人になってしまった。彼の父親とはそういう人物だった。あるいは彼の父親は家庭を持つべきではなかったのかもしれない。宇和も夕凪も、結婚とは互いに永遠を誓い合う儀式だという考えがある。あの男にそんなロマンティックな経験があるとは到底思えない。
夫婦岩そのものではなく、近くに伊勢湾の海が見られて満足だった。燦然たる陽射しに冷たい潮気が混ざり合い、何とも言えない日和が心地好い。
そして次は神宮へと進路を定めた。外宮はまた今度にして、まっすぐ内宮に向かった。神宮内の駐車場は満車だったので、付近の市営駐車場に車を停める。道路下の連絡通路を渡り、取り敢えず境内を参拝しようとまっすぐ通りを抜ける。大きな鳥居を前にした宇治橋を越えると、砂利の敷き詰められた聖域に足を踏み入れる。悠久の歴史を体感する程、情緒豊かな人間でもない宇和は、素人顔できょろきょろと周囲の木立や建物を眺めて奥に進むしかなかった。夕凪も言葉少なく取り留めの無い足取りをしている。霊感が湧いているのか、単に兄と同じく何の事かわかっていないのか、春先の桜の蕾のような化粧に彩られた横顔からは窺えない。
ぶらぶらと一巡した。中央の売店の巫女で目の保養をしつつ、休憩所に立ち寄ると、中の自販機で買ったジュースを飲みながら、垂れ流しのDVDを映しているテレビを二人で視聴した。最後におかげ横町で遅い昼食にし、前の通りで土産の物色といった順番だった。
最後にわさびアイスを二つ購入し、成る程確かにわさびの辛味が微妙な風味として溶け合っている事に喉の奥で感嘆しながら駐車場へと引き返していく。伊勢神宮を回ってしまえば、後はもう予定はないのだが、さりとて無駄に時間を潰すのも勿体ないと帰宅を選んだのである。そんなに遠い距離ではないし、伊勢ならまたいつでも気軽に来ることが出来る。
「通りの終わりの方にいた猫ちゃん、可愛かったあ」
地下の連絡通路を出た辺りで、夕凪は携帯の写真を再生しながら相好を崩す。
「道の真ん中で座っていたのと他にも、全部で三匹ぐらいいた」
「えっ、そうなの」
「間違いない。お店の横に水飲み場があったし、そこに一匹小さいのが隠れてた」
伊勢道から東名阪へ。太陽は落日の装いで西の空に傾いているが、一日の終わりには些か早い。しかし夕方になると、いつも亀山から四日市辺りが自然渋滞するので、予期せぬ足止めを喰らうのを避ける判断だった。
「それにしてもあの太った猫、全く物怖じしないでいられるもんだ」
「そりゃ観光地だし、人混みなんて慣れっこだもん。外人さんも多かったねえ。でも奈良の方が色んな国の人が来てる気がする」
「奈良は外国人の観光客が本当に多い。人種の万国博覧会が出来る、あれは」
少しだけ窓を開け、夕凪は涼しい風に前髪をふわつかせる。
「お水取り、見学したかったな」
「来年は必ず行こう」
「うん、そうしよう」
恙無く高速を下り、バイパスを引き返せば実家とは目と鼻の先だ。当然のようにそちらへハンドルを切る宇和だが、途中で夕凪から一声かかった。
「今日はアパートに泊まる。大学の鞄、そっち置いた儘だから」
「でもお土産。それに車も」
後部座席を一瞬だけ振り返る。夕凪は食器や赤福やちょっとした小物の他に、奮発して上質らしい松阪牛も買っていた。家族分のステーキを買っただけで、諭吉が軽々と吹き飛んでいた。そういうところは、やはり生来金銭に不自由した経験が無いお嬢様なんだな、と宇和は他人事のように感服してしまった。
「大丈夫、大丈夫。じゃあお兄ちゃんお願い」
前もって図っていたのかどうなのか、兎に角宇和は言う通りに行き先を変更した。実家の住宅地から離れ、市外へと二方向に貫く国道に差し掛かる。
「やれやれ」
「あれ、射精した?」
「村上春樹?」
「こいつは勃起させる!」
「それは大江健三郎」
下らない会話に嘆息する兄の横で、「これも一種のパスティーシュ、文体模倣だね」と暢気に呟いていた。川と線路と共に市街地から遠ざかり、いつしか風景は市と市の境目にある村落に変わっていた。
「そう言えば、お兄ちゃんどうして手を合わせなかったの?」
「無神論者だから」
さして理由なんてない。宇和は思い付きで答えておいた。
「それを言っていいのは、若白髪でイケメンな大学准教授だけ。読んだ?」
「読んだ、読んだ。推理小説は食指が動かないけど、夕凪に一押しされて一先ず読んでみたら、意外や意外、面白かったよ」
自薦した作家の小説に太鼓判の感想を貰い、夕凪はでしょう、と満悦そうだった。
「だけど作者と主人公の名前が一緒っていうのが変に感じてしまう」
「それはエラリー・クイーンの影響を受けてるから」
「エラリー・クイーン。あと所々、主役の二人のやりとりが同性愛らしかった」
「それはまあ、女性読者へのファンサービスっていうのかな」
「なんだそうか……たまげたなあ」
「魂消た?」
夕凪が小首を傾げるのを横目にして、宇和は愛想笑いで取り繕った。
帰りに大きな本屋に寄った。夕凪が真っ先に少女漫画の売場を目指して行った。宇和は別の区画をぶらぶらと往来する。
「ユングの赤の書が買いたいけど高くて手が出せない」
「私は英語版だけど持ってるよ。知り合いに譲って貰ったの。読んでないから今度貸してあげる」
知らないうちに、夕凪が兄のもとに近寄っていた。妹の厚意は丁重にお断りしておいた。
「お兄ちゃんは英語わからないから……」
何とはなしに、宇和は妹が持っている単行本を手に取ってみた。『アニメ第四期・大人気放送中!』と宣伝帯に書いている。
「一月に出た最新刊、ずっと買い忘れてた」
「これ、新しいアニメやってたんだ」
「今月でもう終わりだけどね。こういう少女漫画も、お薦めしたらちゃんと読んでくれるお兄ちゃんがいるって、なんか嬉しいな」
「漫画だろうと何だろうと、面白いものは面白いよ。なるべく食わず嫌いでいたくない」
二人は単行本を話題にしながらレジに移動する。
「今でも不思議なのが、温泉回の『目のやり場に困る』って主人公の台詞の意味なんだけど」
「いやもう、原作者からしてそっちの路線の人だから」
「それも主要支持層へのファンサービスなんだな」
雑談に気を取られていた夕凪は、宇和が清算を済ませるのを不慮に見過ごしてしまった。店の外に出てから、それが夕凪の意識に浮上した。
「あ、ごめんお兄ちゃん」
「いいよ」
「だってお昼も出してもらったし」
「偶にだから、いいって」
半ば強引に流して、宇和は運転席に腰掛けた。それからはもう、盛り上がりも何も無い帰途に着くだけだった。気象庁が仕事を怠けていたのか、薄暗い夕空の向こうに、再びどんよりとした天気が控えている。
駅前の安い駐車場に車を停め、もしもジャガーに悪戯をされたら父の普段の素行への天罰という事にして、兄妹はそこから歩いて十五分程度の自宅アパートに到着した。土産物と本屋の袋を提げて、脈絡の無い雑談を交わしながら階段を上がっていく。
突然立ち止まった兄の数歩先で、夕凪も歩を止める。怪訝そうな顔をしている宇和の視線を追うと、その先に一人の見知らぬ女性が一番端の玄関の前で佇んでいた。
「お兄ちゃん、あの人」
小声で問うた夕凪だったが、「知らない」という無愛想な囁きが返ってきた。再び女性を見やる夕凪も、まったく知らない赤の他人だった。
自分を怪しむ気配を感じ取ったのか、女性は二人の姿に気付いた。そして音を立てずに身を振り、さっきまで凝然と見詰めていた部屋の主と向かい合う。奇妙な訪問者は、地味過ぎるが故に異彩を放っているようにも見て取れる白地のワンピースを着ており、東洋的だが浮世離れした顔立ちをしていた。正面から見ても、宇和には彼女が誰だか皆目見当が付かなかった。
埒が明かないと意を決し、宇和はもう少しだけ距離を縮めて、角が立たないように表情を和らげた。
「すみません、何か御用ですか?」
あるいは同階の住人や、自分とは直接関係の無い、そういう類の人物かもしれない。そんな風に思考を巡らせながら、宇和は口火を切った。女性は暫く目を屡叩かせていたが、あっと夢から覚めたように間の抜けた吐息を漏らした。
「あ、私。あの、私」
「はあ」
要領を得ない相手に辛抱しながら、宇和はズボンのポケットから玄関の鍵を取り出す。幾ら見栄えのする容姿の女性といえども、何かと物騒な昨今、不審者と関わり合いになるのは御免被りたかった。
徐々に施錠を解く動作に移ろうとする宇和の前で、謎の女性の足が微かに床をこする。それにつられた宇和は、間近にある女性の儚げな瞳の光に少々面食らった。
「私、めだかです。あの時の、めだかです」
「そうですか。さようなら」
いよいよ不条理だと断定した宇和は、部屋に入ろうとする。流石に無理だと感じた夕凪が、自分も戸惑いながら、二人の間に入っていった。
「ちょっと。お兄ちゃん」
「ほら、夕凪も。お兄ちゃん鍵閉めるよ」
最悪は一一〇番通報も辞さない構えで、宇和は妹を手招きする。宇和の冷淡な態度を前に、女性は俄に悄然としていた。正体不明な相手の心情に配慮する義理は無いのだが、その消え入りそうな弱々しい様子を見ると、宇和は一思いに玄関を閉じるのも拒まれるのだった。
「いや、めだかって」
「あ、はい。はい、そうです。宇和さん……私、めだかです。あの時のめだかです」
「取り敢えずお兄ちゃん、話だけでも……」
流石にそれだけで事情を察知するのは難しく、夕凪が事態の進行の為に一言を投じた。万が一の時には警察に処理を任せればいいと兄に耳打ちする。宇和も四六時中家の前に居着かれても困るので、ややこしい問題になりそうな女性の存在に、嫌々ながらも対応するのを決意した。本屋の紙袋が、宇和の我知らぬ手の加減でクシャリと音を立てた。
「まさか現実にも、妖怪と呼ばれるものの類がいるんじゃないだろうな」
「ん?」――夕凪が振向いても、ぶつぶつと愚痴っている兄は一人で靴を脱いで行ってしまった。
仕方無く夕凪が女性を室内に招く。戸のカーテンを開けた宇和は、いつになく早足な雨雲を遠目に仰ぎ、今晩からでも降り出しそうだと期待した。
第三章
今度の雨は数日も降った。部屋に洗濯機を置いていない宇和は、外に出られず、脱いだ着替えが溜まっていくのが気になってしまう。月の約二五〇時間をコンビニの制服で過ごしているので、私服は週に一度纏めてコインランドリーに放り込むだけなのだが、運悪く悪天が週を跨いでしまうと、時期を逃してしまって始末に置けない。週間の習慣となると、強いて几帳面でもない彼は着手を怠りがちである。機微に長けた夕凪が、何も言わず車を出して兄の溜まった洗濯物を持ち帰り、家の方で洗ってくれる時もあるが、有り難いと思う反面、そうした家族の思いやりに釈然と出来ないのが宇和だった。
こうして経済的にも自立しているというのに、未だそれ以外のところで家族との係累が保たれている。それはつまり、父親に自分の現在の状態が筒抜けになっていると言っても過言ではない。それが宇和にとっては苦々しい。皮肉な親子関係だった。本人同士が互いを引き離そうとしても、斥力に働く謎の反作用でそれが中々叶わない。何かを忘れようとすればするだけに記憶に焼き付いてしまうように、恐らくはパラダイムシフトが起こらなければ依然として現状の儘だろう。だがしかし、宇和は今の暮らしに取り敢えず満足している。将来の不安等は、これからずっと付き纏うものとして完全に諦めている。老後を考慮して、なけなしの収入からちまちまと貯財に回すぐらいならば、今の充足の為に出し惜しみをしない方を選ぶ。そうした消極的な現状維持を暫定的に是とする事で、最も目を向けるべき問題から逃避しているのだ。
「雨……止みませんね」
空と地面の睦言みたいな雨音に紛れて、そんな独り言が宇和の耳朶に触れた。宇和も文庫本から顔を上げ、一時、雨模様に包まれた外の風景に目を休める。町が澱んでいるのは、空が曇っているからだけでもないと思われた。学生の卒業シーズンが終わり、在校生も春休み目前で、ただでさえ年度末の消化試合気味な気怠さがあるのに、こうも連日が不安定な天気であれば、否応にも気持ちが塞いでしまうだろう。宇和は爽やかに晴れているよりはこちらが落ち着くが、さりとて芳しくない気象状態に欣喜雀躍とするのではない。空が言い知れない暗澹を広げ、霊妙な風趣に非日常の片鱗を垣間見るのが好きなだけで、生活に差し支えがきたすのは微々とも望んでいない。
アルバイト先は徒歩でも構わないが、それ以外に風雨を凌げる移動手段を持っていない。雨足の加減で、合羽を着てスクーターに跨がるか、傘を差して自分の足を使うか判断していた。雨音に彩られた余暇は大人しく自宅でパソコンを触るか、積み重ねてある本の山から一冊抜き出すかして、時間を潰すしかない。昨日から読んでいるのは筑摩の百間集成、ネット通販で格別中古が安かったので一冊だけ買っておいたものだった。図書館を利用すれば無料で本が読めるのだが、彼はなるべく書籍は購入している。返却が面倒臭いのもあるし、自分の趣味に関連する品物は所持しておきたい所有欲には勝てない。
ながらく天気が崩れがちなので、下手の片隅で堆く山を築いている本の消化に励んでいる。アルバイト先にも文庫本を持ち運び、休憩時間にページをめくる。ロバート・ルイス・スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』、永井荷風の『墨東奇譚』、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』といった作品を次々に読破していった。
一区切りついたところで、ふと机の上を見て、宇和は慌てて本を閉じた。
「いいって、そんなのやって貰わなくったって」
相手の反応を待つまでもなく、男の手がそそくさと内職の品物を掻き集めていく。「あ、でも……」という間の抜けた声に応えず、宇和は名札のシールやそれを貼り付ける商品を次々に透明の袋へと戻していく。彼はこの内職代で国民年金の支払いを遣り繰りしていた。相手が夕凪ならば、毎度ここから意地の張り合いに発展し、アルバイトで家を空けている最中、意地になった妹に残りのノルマを横取りされる――無論、分け前を要求されたりはしない――のだが、穢れを知らないような白い両の手は、行き場を失うと暫しまごまごして、やがて渋々そうに膝の上に下ろされる。
内職の袋を自分の方に置いて、本の続きに集中しようとする宇和だが、悄気返る様子を無視出来ず読書が覚束無かった。上目遣いに一瞥すると、黒く艶やかな髪の下に沈痛そうな顔がある。まさしく己の至らない甲斐々々しさで自責の念に駆られている面持ちで、それを目の当たりにすると、どんな唐変木でも良心が傷付けられるのは已むを得ない。
結局この珍客の言い分を納得は出来ないが、不承々々部屋に居て貰っている。移り気に飼ったあのめだかの化身と真顔で告白され、更には人間に転生して恩返しにやってきた、是が非でも自分を嫁にして欲しいと三つ指をつかれても、何か裏があると勘繰るのは至極常識的だった。宇和は手当たり次第、携帯に記録してある名簿やソーシャル・ネットワーキング・サービスのアカウントから黒幕を突き止めようとしたが、旧知の間柄の中から悪巧みの容疑者は浮かび上がってこなかった。
こんな驟然とした怪談を据え膳と思うのは、短絡的で邪に違いない。縦しんば彼女が化け物だとしても、然らば益々警戒しなければ、この人畜無害で純朴そうな美貌の裏、若しや身の毛も弥立つ本性が隠されているのではないか。綺麗な薔薇には棘がある。罠とは得てして傍目には芳しい甘美なものに見えるのである。現実生活に即してみても、女性に声をかけただけでお縄になるようなこのご時世、宇和ははいそうですかと女の意志を了解する気はなかった。身元不明の女と同棲していると近隣に噂されたら、世間によからぬ評判が罷り通ってしまうだけでなく、更に何か不祥事でも起きたら最後、親類一同の顔に泥を塗る事になる。報道番組や新聞記事に犯罪者として氏名が載る事態だけは断固として防がなければならない。宇和はいかなる道理を前にしようと、こんな漫画や映画にありそうな筋書きを認める訳にはいかなかった。
こうして男女の旗色が平行線を辿っていた先日、夕凪が現状の冷静な認識を提唱し、兄の頑なな態度の軟化に注力した。幾ら依怙地を張ろうと、現に押し掛け妻が居座っているのは紛れもない現実なのである。彼は自分の置かれている状況に目も耳も塞いでいるだけなのだ。それでは何の解決にもならないし、寧ろ経緯を把握していない点では一向に不利な条件であるのは間違い無いのだと、夕凪は言外に態度で示し始めた。そうして夕凪の奮闘で、素性の知れない女は出鼻を挫かれる羽目にはならなかった。しかし怪しんでいるのは夕凪も同様で、彼女は安堵している相手に対し、きっちりと釘を刺すべきところは刺していた。だが、女と接すれば接する程に、儚げな雰囲気の中にも奥床しく芯の通った為人を感じ取り、自然と邪慳な対応をする気にはならなくなっていった。
「お兄ちゃんは日本語の達者な不法入国者だと思う。某国の工作員かもしれない」
ある日の欠けた月の冴えた真夜中、兄妹はそっと部屋を出て相談を交わした。渦中の人物はすやすやと無防備に寝入っている。鼻面を突き合わせている妹には、爽やかな湯上がりの香りが未だ残っている。女も同じ香りを漂わせて布団にくるまっている。
「そうかなあ。でも、どうして私達がめだかを飼っていたのを知っていたの?」
「前から覗き見でもしていたんじゃないかな」
「だったら、これは組織的な犯行? まさか標的はお兄ちゃんじゃなくて……」
頭から疑ってかかる兄を諫めたりせず、夕凪も有り得る限りの可能性と蓋然性を推考の俎上に上げていた。海外奇談も豊富な夕凪にとって、日本で常識的に考えられないような出来事に直面しても驚くに値しない。
「親父か親父の親戚筋か。こっちはこっちで、下手なサスペンスドラマみたいでうんざりするけど」
「う~ん。お兄ちゃんか私を人質にっていうのもどうだろうねえ」
「ねえ」と頬に手を当てながら言うのも、どことなく母の仕草を連想させた。
「親父が面倒臭い事に首を突っ込んでいるとか、何か知らないか?」
「さあ。議員さんとか警察の偉い人とお付き合いはあるみたいだけど、詳しくはわかんない」
警察という点に眉を顰めた宇和だったが、警察全体がどっぷり反社会組織と癒着している訳でもないだろうし、何よりそうした非日常沙汰を我が身に置き換えて考えるのは容易ではなかった。何も目聡い成果も出せず、二人は眠気もあってぐったりと疲れてきた。
「身代金の要求なら、美人局なんて回りくどい方法はとらないだろうしさ……」
「キャッシュで?」
真剣に話していて不意打ちに来たので、宇和は堪え切れず腹の中を痙攣させた。
「その通り、キャッシュで。もういいや。どうでもいい。寝よう」
「そうだね。まあ何とかなるよ」
すぐ近くの自働販売機で買った缶コーヒーを空にして、ゴミ箱に捨てると、二人は部屋に引き返そうと歩き出した。
「高一の時、総合学習で柳田国男全集を読んだけど、めだかの女房なんて話は記憶に無いなあ」
「本当にめだかのお化けだって与太話を信じるのか? 況してや本人の口から」
まさか死骸自体がそっくりその儘に変身したのでもないだろう。しかし彼は薄気味が悪く、川辺の墓を確認しに行くのは気乗りしなかった。
「信じるか信じないかで言えば、私は信じた方が面白そうだから信じる。めだかの女房、めだかの女房……ね、めだか女房。結構いい響きなんじゃない?」
「……」――駄目だこいつ、という宇和の冷めた視線は、深夜の暗がりだったせいだろう、悠長にへらへらしている夕凪には上手く通じていなかった。
そうして数日が経過した。宇和とめだか女房は、大した事件にも遭遇せず、決定的な破綻を引き起こしもせず、ぎこちないながらも共同生活を乗り越えていた。めだかの女房は、なるべく慎ましく分を弁えて、宇和の気を煩わせない振る舞いに徹しているのは一目瞭然だったが、宇和にとっては見ず知らずの他人が私的領域に踏み込んでくるだけでも相当なストレスだった。年の頃は妹とそう変わりがない風に見受けられ、器量も悪くないにしろ、それだけでこんな出鱈目な出来事を素直に認めるのは難しい。理性がそれを邪魔してくる。日常そのものの変容に対して、本能的な拒否感が疼くし、アレルギー反応めいた生理的な違和感が拭えない。しかし、めだか女房の方は優然としたものだ。まるで前生の因縁に約束されていたかのように、宇和のアパートに転がり込んだ事が至高の終着地点とでも言いたげだ。どうやら安部公房の戯作『友達』めいた展開にはならないらしい。向こうに悪意がないだけ、余計にたちが悪い。いっそ怒鳴り散らして追い出してしまえばいいのかもしれないが、もしそんな光景が近隣住人に知られると悪印象は必至だろうと、あれこれ逡巡もしては、敢然たる行動に出られない。剰えただ飯食らいの居候となれば、宇和が静かな怒気を帯びて神経質になるのも自然である。
だがそれに関しては、宇和自身も落ち度があった。めだかの女房は、妻らしく家事の一切を受け持とうと積極的だし、内助の功の心得もあると見えるが、それを悉く宇和が突っぱねるのだ。事ある毎に種々雑多の取り組みを妨害されてしまい、めだかの女房は立つ瀬が無く、意気阻喪としてしまう。炊事も掃除も、布団を敷く事一つにせよ、宇和は神経質な程に先んじて自分で済ませ、彼女の分までついでに片付けてしまうのである。彼はこれまで通りの生活を維持しようとしているだけなのに、結果的にそれがめだか女房の存在を容認するかのような一連の行動として帰着してしまうのだ。
宇和がめだか女房に突っ慳貪な原因の一つに、彼女の服装も挙げられる。白いワンピースは今では寝間着になり、普段着には善意の施しがあった。相談をした翌日、夕凪が買った儘で着ていない自分の服を見繕ってきたものだ。その妹の行為に、宇和は呆気に取られてしまった。あれだけ深刻な話をした明くる日、打って変わってすっかりめだか女房が兄の同居人のような態度で「そんな格好じゃあ、まだ風邪引くでしょう」と、衣類を譲るつもりで勝手に持って来たのである。余計な事をしないでくれ、と釘を刺せなかったところに、宇和と夕凪の兄妹としての関係性が窺われた。追い討ちをかけるように、服も下着も、二人はまるで生き写しであるのか、サイズはピッタリだった。もしサイズが違っていても恐らく、切り札である月限度額五〇万円のクレジットカードが雄叫びを上げていただろう故に、宇和は最初から何も言わないつもりだった。
重ね重ね恐縮して詫び入るめだかの女房に、夕凪は愛嬌花丸のウインクを一つ送る。それ以降、二人の中で男には理解出来ない友情が結ばれた。日に日に夕凪とめだか女房は親密になっていくのだ。女特有のコミュニティとは、男にとって一歩も立ち入るのを阻まれる別世界である。自分の与り知らないところで、妹と打ち解け合った仲になっていくめだか女房に、子供じみた敵愾心なのかどうか、苛々した気持ちを誘われるのだった。自分が部屋で寛いでいる余所で、夕凪がきゃあきゃあと舞い上がってめだか女房にちょっかいを出す、それが何気無く我慢ならない。遠慮を知らない夕凪におろおろと狼狽えながらも、実は満更でなさそうなめだか女房にも、宇和は甚く閉口だった。
雨が上がってからも、そんな兄妹と押し掛け女房の平凡な日々が過ぎ去っていった。新年度を迎えて夕凪は大学四回生となり、順調に学士取得への道が開けていた。どうやら院に進むのを決めているようだ。夕凪はめだか女房を教え子にして、彼女の学力を考査してみた。すると、文字の読み書きや数の計算だけは、一般的に義務教育課程を修了した程度だと判明した。彼女の旺盛な向学心を知った夕凪は、自室にしまってあった高校時代の教科書を引っ張り出し、片手間に家庭教師ぶるのに楽しみを見出すのだった。
宇和の幼稚な反抗は次第に、妹の不平等な中立的立場によって封殺されていき、めだか女房は水を得た魚のように、しゃかりきになって立ち働いた。一度の譲歩を許せば、堅固な堤防の決壊を意味し、待っているのは漸次に進行する黙認の強要だ。最早強情を張っても無意味と察した宇和は、不本意甚だしく、めだか女房の好きにさせようと観念した。めだか女房一人なら軽くあしらえるのだが、妹の夕凪にそちらへ加担されてしまうと、生活の様々な領域で彼の自治権が崩壊してしまうのは自明の理だった。
ある時はこれ見よがしに、行き先も告げず部屋を出ようとして、当然めだか女房に何の用事か訊き止められた。しかし夕凪に「いいよいいよ、気にしないで。お兄ちゃん行ってらっしゃい」と横から茶々を入れて、宇和は何故だかわからない悔しさに泣きそうになった。八つ当たりされた玄関が、風を起こし悲鳴を上げて叩き付けられる。宇和はほとぼりが冷めるまで近所をぶらつくしなかった。どうして家族に疎外されている中年親父みたいな、うらぶれた気持ちを味わわなければならないのか、春休みで若人の行き交う雑踏に迷い込んでも答えは見つからなかった。
憂鬱は寝ても覚めても蟠っている。宇和が朝からごろごろしていると、いつもなら家を出る時間帯なので、めだか女房は不安げな顔をしていた。夕凪は昼から来るとメールで知らせてきた。「今日はめだかちゃんにコインランドリーの使い方を教えるから、洗濯物はその儘にしておくように」と、自分が一番楽しんでいるのは文面から嫌でも読み取られた。
「あの、今日はお仕事は……」
時給で労働の対価を得ているのを、一々仕事と言われるのも、小馬鹿にされているようで神経が逆撫でされる。
「今日は夜から明け方まで……休む人の交替で」
「そうなんですか。ご免なさい。お昼ご飯は何にしますか?」
こんな取るに足らないやりとりさえ幸せなのか、めだか女房は莞爾として宇和に話しかける。
「別に、何でも。食欲無い」
「具合悪いんですか。気分が優れないなら、今晩のお仕事も休んだら……」
「五月蠅いな。そういうお節介が一々気に障るんだ。放っておいてくれ」
無愛想に言い捨てると、宇和はめだか女房の心配そうな顔を見ないように、ツンとした様子で寝返りを打った。
買い物ならめだか女房一人で任せられるようになっていた。お金の価値を初め、社会生活上の最低限の伊呂波は一から学ぶ必要は無かった。しかしコインランドリーは知らなかった。現在の米国大統領の名前は答えられないし、四十七都道府県を挙げろと問われても珍紛漢紛な反応、縄文時代と室町時代の区別もつかなかった。彼女の知識は著しくちぐはぐだった。
程無くして、部屋のじっとりした空気を蹴散らす高気圧娘が出現した。夕凪が来ると、めだか女房も緊張が解けたみたいに表情が明るくなる。活動的で面倒見よくしてくれる姉と、おっとりと思慮深い妹のような二人は、一週間分の洗濯物を持って出掛けて行った。彼が食欲が無いと言っても、帰りに何か適当なものを買ってくるのだろう。何でも自分の気分が基準だった宇和は、めだか女房に尽くされる事に窮屈さを禁じ得なかった。ともすれば、いっそ異邦の地まで蒸発したい衝動に駆られてしまう。
誰も自分を知らない土地ならば、きっと一から新しく始められる筈だ……しかしそれは、やはり現実逃避でしかなかった。今でさえちゃんと出来ない自分が、舞台を改めたところで、現在の二の舞を演じるのは決まっている。変わるのは世界ではなく、自分自身が変わらなければならないのだ。そうでなければ、いつまで経っても、父親からぼんくら息子と罵られても仕方が無いではないか。
うとうとしていると、世にも奇妙なインターホンが鳴った。訝しんでいると、訪問者が自分の名前を呼びながら玄関を叩く。中学からの知り合いの赤坂だった。宇和と同じ中学高校を出て、一〇〇〇近い叢書シリーズで有名な出版局のある東京の大学に進んだが、二年通って中途退学、今は地元に戻ってうだつのあがらない塾講師をしている。高校卒業後は疎遠だったが、向こうが帰郷してからは、偶に連絡を取り合う親交が蘇っていた。料金のかからない通話方法は、この情報化社会で幾らでも転がっている。
赤坂は市販のDVDを持参してきた。中身を訊ねられると、話は高校の文化祭へと時空を飛んだ。
「鎌野がプロのドラマーになったんだって。声優ユニットの後ろで叩いてたりしてるんだとさ」
「へえ、そりゃ凄い。全然知らなかった」
名前を聞けば、その人柄や性格も同時に思い出せる。実家がカラオケ喫茶で、地下に小さな防音スタジオもあった。親が音響関係に通暁で、文化祭ライブの裏方として色々と世話になった。浦賀と赤坂と鎌野の三人組は、最後者がドラムを担当していた。宇和はギター、赤坂はベース、他にフロントマンもいたのだが色恋との両立が出来ず、練習にも熱心に参加しない事が多発し、最終的に前日になって身勝手に脱退、已むなくボーカルも宇和が担当する事になったのだった。
宇和はノートパソコンを起動させ、渡して貰ったDVDを挿入した。予め音信も無く訪問してきた赤坂だが、お互いその点について何も差し支えは無い風だった。曲がりなりにも社会人の男が、平日の明るいうちから何をしているのかと若干疑わしく感じたが、宇和は神出鬼没な赤坂の事だと妙に納得した。
「それで昔の文化祭の映像を個人で編集したって、この前、何枚か焼いて譲って貰った」
「懐かしい。九・一一の直後だったかな」
ウィンドウを最大化して、十四インチの画面に、映像音声共々、時代を感じさせるデータが再生される。手作りした垂れ幕を掲げた壇上に、三人の男子生徒が各々の楽器や音響装置を従えて一曲目の瞬間を待っている。ドラムと並んだ下手側には、キーボード担当の音楽教師が余裕そうに手を振ったりしていた。既に見物客から盛んな声援が送られている。軽快なドラム・ソロのイントロが、高校生のライブ開始を告げる。曲名に合わせて、照明が鮮やかな青一色に転じる。この日演奏した全十曲は、八〇年代末に解散した某ロックバンドのコピーだった。
「俺は本当は、スレイヤーとかアイアンメイデンを演りたかったんだ」
「海外のメタルは無理! 六連符とか洒落にならんぜ」と、赤坂が当時のように拒否の意を示す。
頻りに左手を気にしながら、マイクの前の宇和は懸命に自分の役割を務めている。音程は外れていない、ギターのフレーズも間違えていない、間奏のソロも無事に乗り切った、歓声が波となって返ってくる、素人臭さは拭えないが練習の成果としては上出来に思われた。気恥ずかしさと懐かしさが綯い交ぜになって、宇和は暫く無言で映像に見入っていた。
「俺もう一曲目でオルタネイトになってるわ」
「鬼のダウンピッキングをものにすると言っていたのは一体何だったのか」
「忘れてくれ。そっちも一回目のBメロで音色がディストーションの儘だった。改めて見返すと、色々発見があるもんだ」
三曲目が終わった頃、娘二人が帰宅した。夕凪の反応は兄の予想通り、懐かしい貴重なデータに興奮した。荷物を手早く片付けると、めだか女房を巻き込んで男女四人がパソコンの前に集まった。
「あの、これって」
「十年前のお兄ちゃん」
「十年も前の……」
めだか女房は目を丸くして、映像に釘付けになる。弦楽器の二人は、着崩したカッターシャツの上にストラップを通して、観衆の熱狂を一身に浴びていた。カメラは客席の方から、各自のアップになったり全体を映したり、楽曲の流れに沿って要所で憎らしい動きをする。幾つかの映像を繋ぎ合わせて編集している箇所もあった。
飲み物を用意しようと、夕凪は一人、腰を上げた。めだか女房は若かりし頃の宇和に夢中のあまり、宇和の隣で固まっている。赤坂が観客の熱気を煽る。それに続いて、汗みずくの宇和が辺りを見渡した後で、マイクに顔を寄せる。大きな声でパソコンの中の宇和が叫ぶと、夕凪が観客と一緒に腕を振り上げて気前良く応える。その声に驚いて我に返っためだか女房は、客人へのおもてなしをそこで思い至り、慌てて夕凪の方へと立ち上がった。
短い楽器のユニゾンとブレイクに歌声を乗せて、曲が始まる。赤坂が吹き出した。
「あの野郎、自分の醜態はちゃっかり編集していやがる」
「映像が?」
「曲の頭のちょっとの間、片方のシンバルとハイハットの音が抜けてる。これは鎌野の奴が、スティック回そうとして失敗したからだ。俺はこの目で見た、しっかりと覚えてる」
「そいつは気付かなかった。何せ緊張するばっかりで自分の事で精一杯だったから」
「あれは鎌野が格好悪かった」
「この頃のお兄ちゃんは冗談抜きで女の子に大人気だったね。三年の時は他の学校からも沢山観に来てたし、地元のご当地アイドルみたいな勢いだった」
ジュースと菓子を出された赤坂は、どうもどうもと礼を述べながら、夕凪の述懐に感慨深く同意した。宇和は渋い顔をする。確かに異性からの黄色い声は絶えなかったが、隣に座る悪友も当時は高校生にしては破格の人気があった。地元でちょっと名の知れた眉目秀麗な男子高校生といった具合だった。だが、そうした人気とは裏腹に、実際は言われる程に華やかな青春でもなかった。第一、金が無かった。それは宇和とて同じだった。自分が女子の連中から秋波を送られていると何となく実感していながらも、それを殊更に雄としての特権であると認識していなかったのだ。
「おだてたって、手取り一五万円の給料明細しか出ないぞ」
「俺とそう変わらないのかよ。額面が同じなら、鬱陶しい餓鬼どもを相手にするより、コンビニのバイトの方が余程かましだ。畜生、出世してる奴等は全員死んでしまえばいい」――大学を卒業して都庁やメガバンク等々と就職口を見付けた都会の知り合いや、仲間と起業して何とか実業界の荒波に立ち向かっている元学友を思い浮かべ、赤坂は捻くれた声を吐き出す。だが傍目に、言葉以上に悔しさや嫉妬が感じられなかった。赤坂という男は基本的に隣の芝生を青く見ない。
内心でアルコールではないのかと残念がるが、赤坂はコップのジュースを一口に半分喉に流し込んだ。文化祭以外にも映像を収録しており、宇和は気になるものがあるか他のフォルダを開いていく。旧友はこの日一言もめだか女房の存在に違和感を覚えなかった。多少は言葉を交わしたが、紹介を受けるまでもなく、宇和の恋人か夕凪の友達だと認識しているみたいだった。
宇和は久闊を叙する一時を送り、久しぶりにリフレッシュ出来た気がした。その時の宇和の嬉しそうな面持ちは、めだか女房は殆ど初めて見る。彼女は昼の支度や洗濯物の整理整頓をやりながら、夕暮れまで旧懐を温め合っていた宇和を見て、心から幸せそうに頬を綻ばせていた。
第四章
妹の着信で目が覚める。彼が携帯電話に手を伸ばした途端、運悪く着信は鳴り止んだ。肩透かしを喰らい、彼は蒲団の中で力尽きる。夢半ばで蟠る眠気が勢力を蘇らせる。所詮、惰眠を貪っていたのだ、この儘で二度寝と洒落込んでも問題ない。今日はアルバイトが夕方からで、朝昼は何の予定も立てていなかった。寝返りを打つと、薄目に畳の床と壁が視界にぼやけている。めだか女房の蒲団は既に片付けられており、当の本人の気配は台所の方に感じられた。
全身を虚脱させて蒲団の温もりに浸っていると、携帯電話が再度鳴り始めた。彼は素早く手に取り、応対する。
「本当に行かないの? 未だそっちに寄れるけど」と、妹の夕凪。母の車の助手席だろうと窺わせる。
「行かない。それに……一人にしておけないから無理だ」と、彼は無愛想に返答する。声色は寝起きとは違う理由で低く曇っていた。そう、とだけ夕凪は相槌を打った。しつこく引き下がられる事も無く、宇和は通話を終了した。
「夕凪さんですか?」
話し声を聞いていためだか女房が踵を返してくる。いかにも機微に長けたような表情を見せるが、宇和は余計な説明を避けて溜め息を吐くだけだった。喋っているとすっかり意識が冴えてしまったので、彼も蒲団から出る事にした。蒲団をかしわに折り畳む。終日晴れて春真っ盛りのぽかぽか陽気だというので、狭い露台に蒲団を干すには絶好の天気だった。
顔を突き合わせて朝食を摂っている時も、めだか女房は釈然としていない様子だった。短い兄から妹への発言から、今日は外出の用事があったのだろうと彼女にも推測される。しかし、それを言及するつもりはなかった。
めだか女房が心中で察する通り、本来なら宇和も母妹と一緒に外出している日だった。しかし宇和は土壇場になって辞退した。そもそも勝手に同行を決められていたようなもので、彼にしてみると貴重な休日が潰されようとしていたのも同然だった。
宇和の同世代の親戚が、ある私設美術館の館長に就任したというので、母妹はその祝いに出掛けていった。父は来るかどうかわからない――この場合、歪んだ自己顕示欲を持つ父は、意図的に皆より遅れて行く算段だと宇和は容易に推し量られる。先述の通り、兄の彼も同行する予定だったのだが、それも彼本人の意思を完全に汲み取っている訳ではなかった。なので宇和は無言の儘に誘う声を撥ね除けた。そんな自分に直接関係の無い私用でアルバイトは休めないと言い返した。その後でふと去来してくる自己嫌悪に、思う存分神経症的な沈鬱を捧げた。用事がある以外で外を出歩きたくなかった。勿論これも用事の一つなのだが、宇和自身は何の益も無い時間の浪費としか認識出来なかった。寧ろ父親と顔を合わせなければならないだけ苦行に違いない。苦労は買ってでもやれという俗諺は、彼にとっては異邦の言葉ででもあるかのような抵抗感を与えてくる。
しかし家に居てもめだか女房と一緒なのである。ならば外に出るしかない、しかし家を出てから外の用事を考えるのは本末転倒もいいところで、彼には気の赴く儘に街中を逍遥する趣味は無い。益々自分の惨めさを痛感させられるだけだ。観光地には年金暮らしの老人や団体客が溢れているし、レジャースポットは家族連れやうら若い恋人が犇めき合っている。都会みたいに独り者の男の隠れ家といった場所は無いにも等しいし、とかく宇和のような立場の人間に、この都市部への通勤圏内として小さく整った地方小都市は退屈だった。生活の利便が悪くないので、ずるずると学生時代から居着いてしまっているだけなのだ。いや、都市部に移住すれば地下鉄があり、交通機関の料金や本数だけでも大幅に差があるだろう。人口が多く経済が熱い分、辺鄙な地方よりそれなりに雇用があり、更には行政のサービスも水準が高いかもしれない。住民の匿名性も高いだろう。そう考えると、進学の為に一人暮らしを始めたこの市街は既に留まっている理由は無いのだが、だからといって、宇和には今から心機一転して新生活に乗り出すだけの気概も無いのだった。現状維持とは退歩でしかないとどこかの哲学者は遺しているが、まさに現在の宇和はそのような状態にある。生きながらにして、漫然と死に向かって流されているだけに過ぎない。
彼はこの日も自宅で無気力にノートパソコンを触っていた。電気代だけで世界中の電脳情報を遊泳していられるのは、頗る安上がりな娯楽と言えた。終わった後に何も残らない。あれだけ頭脳に流し込んだディスプレイ越しの刺激は、パソコンの電源を落とした瞬間に跡形も無くなってしまう。それに孤独も感じない。或いは孤独は感じているだろう、だがそれに何らの心の働きが催されるのでもない麻痺が、精神を蝕んでいるのかもしれなかった。
「ご一緒じゃなくてよかったんですか。折角、親戚の方々とお会い出来るのに」
めだか女房は一丁前に伴侶らしい事を言う。それが宇和の臍を曲げる引き金となる。激情を知らないめだか女房は、そんな宇和の片意地を前にしても、ほっと嫋やかに頬で笑むのである。袖と丈の短めな花柄のワンピースと、その上に水色の薄手の上衣を羽織り、春先の気紛れな涼しさから肌を守っている。見目麗しい若妻とはこの事かと、世の男は感嘆の息を漏らすだろう。宇和とて一廉の物をぶら下げている雄である、若しも彼女が素性の知れた押しかけ娘ならば、とうに遠慮は挟まず同衾の味わいを得ていただろう。
だがやはり、この現代は法治社会で、戸籍の空白な人物に気を許すのは軽率ではないか。戸籍が無いという事は、法律的に存在しないも同然の人間なのだ。宇和は未だ、心の片隅でこの女性を警戒していた。それは寧ろ、一度彼女を受け容れてしまえば、その極限の天上じみた包容の海に溺れてしまいそうで、純粋に怖いという一面もある。悪い夢なら早く覚めて欲しい。現実ならば死んだ動物の化け物なんてお伽噺は止めて欲しい。今直ぐに身分を明かしたならば、然るべき場所に駆け込んで法的に夫婦となるべき書類に判を押すのも吝かではない。だがそれは可能ではない、何故なら彼女は法律上で認知されている個人ではないからだ。いわば密入国してきた犯罪者や、或いは故人とも類似した存在かもしれない。彼にとってそれは致命的な障害だった。感情的にも、彼個人の倫理観としても。そんな人物と親しくなるのは、意地悪な良識が邪魔をして来るのだ。天網恢々疎にして漏らさずというではないか。道理に悖る所業は、いずれ必ず天罰が下るのだ。たとえ限りなく灰色に近い白であろうと、それは何かの弾みで黒に染まるかもしれない可能性を秘めている時点で完全な白ではない。公道を走る以上、いつどこで警察の交通パトロールに遭遇するかわからない。悪事は絶対に発覚するのだ、それは最後に正義が勝つという二元論ではなく、それが彼の強い世界観なのだ。どう沈思黙考してもめだか女房の存在を実際的に了解するのが困難だった。一歩距離を置いているのは、宇和のささやかな現実の側としての主張だったのかもしれない。
そんな宇和の感情的な鎧さえ、めだか女房に対して何の防御にもならない事は、彼自身が最早思い知っている。そうとは言い条、頭の降参を直接態度に出すのは理性が歯止めを利かせている。どっちつかずの済し崩しに逃避するしか、落ち着いていられない。そうして毎日は無防備に打ちのめされながらも過ぎ去っていく。問題を先延ばしにして、袋小路で立ち往生するまで石は転がり続けていく。
今日の主役の親戚は、趣味で洋画を嗜んでおり、私的に高度な知識も習得して来たのを買われ、今回の栄達に与ったという。だが予め出来た結果でもある。人脈というものは得てして元から豊かな者に集まり、乏しい者は益々乏しくなるだけである。当の私設美術館も、新館長を発掘してきたのではなく、実質的には以前からのお付き合いの延長という形での人事であるらしい。館の所蔵品は主に前近代の西洋絵画で、カフェやレストランを併設しているだけで、基本的に作品の展示は行わない方針で運営されている。それは新館長も継承するそうだ。立地からして、来館者の数で運営を維持して行こうという眼目ではないのは察せられる。うら若き新任館長は、美術館の近くに独身男性には似合わない持ち家の新居を構え、終生の地とするのを心に決めているのだそうだ。彼の本格的な趣味を充実させる宝が、美術館という城の中でより規模を拡大されたのだろう。そうなれば、自分の趣味を満たしてくれる宝物をわざわざ多くの人目に触れさせる理由は無いだろう。
最初夕凪から今回の事を知らされた時、そんな親戚がいたものかと宇和は首を捻った。しかし、確かに記憶を掘り返すと子供の頃に何度か面識を持っていた。絵を描くのも見るのも好きで、小中学校ではいつも何らかの賞に選ばれていた。少年の頃から鑑賞眼にも才覚を発揮し、俗に言えば着眼点が周りよりも卓抜している秀才といった評価を得ていた。東京の美術大学に進み、欧州数ヶ国を巡っていた事までは思い出したが、その時にはもう年に一度も顔を合わせる機会も無くなっていた。
そんな彼の近況を知らされた時、宇和は率直に羨望の念を禁じ得なかった。高額の学費は勿論、新居も出世祝いという名目で親が負担してくれるという。生涯を通じて取り組める実益を兼ねた趣味に没頭できる環境が完備され、苦労知らずで至れり尽くせりの人生を送っている親戚の存在に、宇和はつくづく世の中の不平等を思った。自分は月々の支払いの為に齷齪と汗水を流しているというのに、余所では世俗を顧みず悠々自適の身分に甘んじていられる人間がいる。それが全くの赤の他人ならば他人事として意に介さないのも可能だが、なまじっか親戚の中にそうした特権階級が連綿と世代を重ねている現実が、否応無く出る杭を打つ悪魔じみた機械の稼働とさえ思われるのだ。
同世代の親戚に対する劣等感の所為で、同行を固辞したのは内心で認めざるを得ない。原因は環境にあるとこじつけると全ては楽に片付く。その通りだろう、父は東大を出て中央省庁に就職し、そこで何があったのか息子が知る由も無いが、まるで源平合戦の後の平家一族のごとく地方小都市に流れ着いてきたのだ。父が今も国家公務員を続けており、更に順調に官界で出世していたのならば、息子も都心部で生まれ育ち様々な可能性を見聞で吸収し、幾多もの選択肢を取捨選択出来ていたかもしれない。
「でもね、お兄ちゃん、うちが異端なんだよ。浦賀の人間だって言ったって、あれなんでしょ、お父さんって家系上ややこしい立場なんでしょ。うちのお父さん、うんと年上の従兄さんの家で肩身の狭い思いをしたとか言うんじゃなかったっけ。親戚の人達を嫉んだって筋違いだよ。お父さんはお兄ちゃんを立派な社会人にさせようと必死だったんだよね、方法は根本的に間違いだと思うけど。別に私はお兄ちゃんが悪いなんて絶対に思わないけど、こういうのって善と悪に一刀両断出来る問題じゃないと思うんだよね……」――いつかの日、宇和は妹の夕凪と話をしていて、そんな風にばっさりと切り捨てられた事がある。
確かに環境も要因の一つだろう。やはりまだ、アフリカから世界企業が生まれないのだ。どう足掻いても、足掻いた分だけ叩き落とされるだけの人間も存在するのだ。しかし、遺伝というか、逃れられない宿命というものも確かに存在するのではないのか、宇和は最近になってそんな風に全てを諦観しようともしていた。アフリカから世界企業が生まれないのが途上国ゆえの環境因であるのならば、或いは人類進化の出発点から有史以来旅立とうとしなかった人々の末裔故に、そうした成長や発展という可能性を芽生えさせられないのかも知れない。遺伝と環境は対立する要素ではなく、時として混合し、時として反発作用を発生させ、単純な二項式の解では始末を付けられないのかも知れない。
そう仮定の中に逃げ込む彼だが、そこには苦々しい陥穽が常に彼の足許に食らいついている。現実の彼にも立身する可能性は与えられていたのだ、他の誰でもない父親の意志によって。夕凪の発言も全く以てその通りだ。それを悉く潰してしまったのは、他の誰でもない自分自身なのだ。父親は息子から見て人格的に悪質の部類に入る人物だが、たとえ自分の無念やコンプレックスを埋め合わせる為の傀儡であったとしても、長男をこの経済低迷の時代で生き残っていける人材にする為に教育面の投資は行ってきた。それなのに、自分がスポンサーを失望させただけに過ぎない。それに反して、親戚連中も競争に勝ってきただけなのだろう。視聴率の悪いテレビ番組に予算を投じ続けるスポンサー企業がどこにあるだろう。見返りの無い施しを行うのは、右の頬を殴られても嬉々として逆の頬も差し出す聖人君子だけだ。
衣食足りて礼節を知るとはまさにこの事だ。この儘では取り返しの付かない程に人間が腐ってしまうと危惧していながらも、彼は抜本的な解決策を講じる気力が沸かないでいた。その一方で、幼い頃は立場の違いも無く親しんでいた相手が、自分を置き去りにして手の届かない場所へと進んでしまっている。この厳然たる現実に彼は慄然として、益々自分の殻の中に塞ぎ込んでしまうのだった。自分の惨めさを浮き彫りにされる為に、厚顔無恥な顔をぶら下げて親族の集まりに出向いていく面の皮を持っていない。
この出世に際して、身内を呼んでちょっとした会合が企画されたのは、所蔵品の中に言葉の通りに門外不出の作品があるからだった。宇和も今日足を運んでいれば、特別にその幻の絵画を目にする機会に恵まれただろう。現ハンガリー出身の地方貴族の画家で、今は数点しか現存しておらず、日本での知名度は無きに等しい。現存作品が少ないのは、当時の支配者だった帝国への反乱に関与したからで、暴動鎮圧後に本人が裁かれると同時に、作品の大半も葬られたからだと伝えられている。現在は主に子孫の家族が個人で所蔵しており、競売にかけられる事も無い。新館長は知己を頼ってその中の一作を譲り受けたのである。
勿論、金銭的な話が無かった訳ではなく、宇和は先日、妹から「メジャーリーガーの年収」だの「外国の宝くじ一等賞ぐらい」だのといった、抽象的でありながら莫大な金額を聞かされたばかりだった。流石に企業の節税対策と揶揄される類の額が動いた訳ではないだろうが、千の次である万の次の額となれば、庶民感覚からすると気が遠くなるものだ。
住む世界が違う筈なのに、家同士の繋がりが見える相手だと、頗る不愉快で金槌で殴られたような敗北感を感じさせられる。一つ二つ年齢が違うだけなら尚更だ。内弁慶の父は、そんな親戚の若者を褒め称え、そして自分の息子を引き合いに出して糞味噌に罵るのだろう。道化を演じて周囲を和ませる効果になるのなら未だしも、父の熱気は洒落にもならず、苦笑を買うだけなのは目に見えている。そんな地獄の竈で焼かれるような場所にわざわざ進んで顔を見せる程、宇和は神経が太くなれなかった。
妹は短期間の渡米中となり、暫くアパートは静かになった。めだか女房は相変わらず健気である。慎ましく家事に勤しみ、贅沢の一つも言わず、まるでこの先細り貧乏暮らしが幸せでもあるかのように健やかそうだった。世間は春めいているというのに、宇和の心境はシベリアの広大な荒野で置き去りにされたみたいだった。だがそこには敗戦当時の強制労働などは無い。自由が、今にも逃げ出したくなるようながらんどうの自由が濃密に漂っているだけだった。この日は朝から借りていた本を図書館に帰しに行き、その儘真っ直ぐ帰宅しただけだった。めだか女房も一緒で、帰宅ついでにお昼の買出しをしたいと申し出たが、あり物で構わないと宇和に言われたのでそれに従った。返却した本は、一年の殆どが雪に閉ざされた北仏の町を舞台にした、孤児の少女の半生を描いた十九世紀の小説だった。純白の世界で光を放つのは、主人公の少女の清らかな心と、それを支えている一途な信仰心だった。町に聳える由緒ある聖堂は、堅牢な、威厳を湛えた、それでいて迷える子羊の群れを優しく包み込むような雰囲気を醸し出し、長い歳月の人の営みを見守ってきた。少女はそうした町の歴史や伝説に生きる聖人の腕に抱えられ、純真無垢な魂を洗練させ、やがて燃え尽きていくのである。宇和の手から、そうした天使の羽根にも思える遠い北仏の雪は消え去った。
図書館を出た途端、現実のざわめきとむさ苦しさがぶり返す。しかし、隣にはめだか女房が寄り添っている。何気無しに視線を注いでいると、当の本人は頬に朱色を散らして上目遣いをする。よく出来た幻だと宇和は思った。きっと手に触れると実際の人間そっくりの感触がするだろう。若しかしたら何らかの禁忌を犯せば、化けの皮が剥がれるのかもしれない。宇和はめだか女房に対する何らかの決然とした解答を保留にし続けている。そして、それはある意味で彼女の存在の黙認となってしまっている。今更、今日までの優柔不断の態度を硬化させたところで何になるというのか。頼まれもせずとは言いながら、現にあれこれと世話になっておいて追い出すとなると、流石に宇和も寝覚めが悪い。さりとて本人に直接詳しい経歴を問い質すのも機を逃してしまったような気がする。全てはのっけの失敗だった。あの時点で敢然とした行動をとっていれば、違った状況に進んでいたかもしれない。だがそれも所詮は後の祭りに過ぎない。
手ぶらの帰途に、彼は自分と真逆の方向へと歩いている人々と擦れ違って行った。学生服を着た幾人もの若者の姿が視界を過ぎ去って行く。公立だろうと私立だろうと始業時間を迎えている筈だが、こんな時間帯にどうして街中をうろついているのか怪訝に思った。新学期の頭でまだ試験期間という訳でもないだろう。何という理由も無く、ああした制服姿を見るとげんなりさせられる。自分のそうした時代が思い返される。中途半端に満たされていたような、常に何かに餓えていたような、今思えば微温湯の中で未来の為に大切な何かを一つ残らず剥奪されているような時代だった。世の中が低迷していく途中で、自分達の未来は暗黒に閉ざされた世界にしか辿り着けないのではないかと漠然と感じていた時代だった。赤坂を呼んで暇を潰そうかとも考えたが、手にした携帯電話をそっと元に戻す。どうせまた、いつもの通りになるだけだ。安いチェーン店でアルバイトの人間が用意した料理をつつきながら世の中に対して毒づくのが関の山だ。若しくは簡易に得られる情報を肴に、刹那的な酒の高揚感を貪るしかない。赤坂は大学中退の出戻り組とはいえ、地元で塾講師をしている身である。正規雇用の身分である。一声かけていつでもこちらの都合に合わせられる人間ではない。赤坂は宇和をのらりくらりと生きている分際としてからかっているが、それは上辺の諧謔に過ぎない。宇和自身に自分の人生が満ち足りているものと思える要素は一つもない。
どうせ向こうに暇が出来ると勝手に顔を見せるだろう。宇和は今、赤坂に甘えている部分もあった。赤坂は愚痴の捌け口にもなってくれているからだ。めだか女房や夕凪では、その役目を全うするのは難しいだろう。
めだか女房は家に帰ると手持ち無沙汰にするしかない。内職は死守され、手を伸ばそうにもそれは叶わない。そして、朝食の片付けが終われば午前中は何をする事も無い。部屋の掃除といっても、宇和が窓のサッシの埃だ何だと神経質になるような男ではなく、寧ろ部屋中歩き回られるのが気に障るといった程だ。男女二人の質素な生活で、忙しなく家事に追われるという事態がそもそも有り得ないのだ。二人の会話は乏しい。窓の下の壁に軽く背を預け、膝を折り畳んでいるめだか女房の清楚な姿が、煌びやかな陽射しの下で幻想的な奥床しさを放っている。畳の床に伸びる影が、その先の宇和の身体に重なっている。
宇和は動画サイトにアクセスし、ミュージシャンのプロモーションビデオをぼうと眺める。本棚の前の気配に視線を誘われると、めだか女房が文庫本の背表紙の列を物色していた。膝行りで隣に近寄り、宇和は一冊の文庫本を抜き取りそれを渡した。竿竹屋の車が、間延びした声を放送しながら近所を走り去っていった。犬が遠くで吠えている。電車の音も響いている。
「ウィリアム・フォークナー……」
「日本の二人目のノーベル文学賞作家が影響を受けた人だ。フォークナーの他にも、こっちの人かな」
と、宇和は単行本の方からも一冊、めだか女房に見せた。ガルシア=マルケスの代表作である。そして最後に、その日本で二人目のノーベル文学賞作家の著作を重ねてやった。
「ぱらぱら読んでみるだけでも、構成とか舞台とかよく似てるってわかる。近現代の史実を軸にしながら、神話的な出来事を語るっていうのは、当時そういう作風が新鮮だったんだよ」
「この前、私が読んだ『溶ける魚』もそうなんですか?」
「え? シュールレアリスムはちょっと違うかな。文学史の上では無関係な訳じゃないけど、時代が違うから。シュールレアリスムなら、こっちがそう」
本棚一段目の左端から同じ作家の文庫本を幾つか一つに鷲掴みした。「俺は共産党時代の作品が好きだな。中後期のは、手法や主題が確立されてしまって、何ていうか悪い意味で安定してしまった気がする」と自分なりの見解を述べたりした。めだか女房は微笑ましげにして、宇和を見詰めていた。無学なようでいて、好奇心は人並に備えている。物覚えが悪い訳では決してなく、関心事を理解する能力は低くないと見て取れる。宇和はそんなめだか女房を話相手にして、ついつい饒舌になってしまうのだった。聞き手の姿勢次第で、語る方は幾らでも自分の言葉を引き出す事が出来るものだ。夕凪が家庭教師のような真似にやり甲斐を持つのも、こうしたやり取りを通じて理解出来るような気がした。
「わかりました。こちらのフォークナーさんの本を読んでみます。マルケスさんとオオエさんはその次に……」
宇和とは接し方の面で根本的に異なっているだろうが、めだか女房は習慣的に読書を嗜むようになっていた。
「お好きにどうぞ。この人がもう少し長生きしていたら、日本で二人目のノーベル文学賞はこっちで間違い無かったって話もある。個人的に、作家とかクリエイターが、政治とか社会問題に熱心なのは胡散臭いって思うから、古臭い思想被れが幅を利かせているのは鼻持ちならないな。日の丸掲げて天皇万歳してたら愛国者だなんて、それで一体現実の何が変わるのかわからない。日本人だから必ず日本を愛さなきゃいけないなんて、それこそ思想の強制なんだ。ファシストと同類じゃないか、そんなのは。運か偶然で名前が売れた程度で、自分に発言力があると勘違いしたり、知識人ぶってる奴とか、滑稽ったらありはしない。第一……」
宇和の語勢が上がってきた途端、めだか女房は思わず吹き出してしまった。それに彼は間を外される。
「宇和さんがこんなにお喋りな人だとは思いませんでした」
そう言い挟んで、めだか女房は暫く肩を震わせていた。目尻に小さな涙が煌めいて、細く白い指がそれを拭い取る。一頻り笑って頬が赤らみ、憂いを帯びた容色に一味違った色気を漂わせる。
「もっと沢山の事、お話しして欲しいです」
しかし、宇和はまさかの反応に興醒めしていた。無愛想に鼻を鳴らし、本棚から身を引く。
「どこかで聞いたような台詞だな。あんたは子供を何人も飢えさせても平気な男に嫁いだ女なのか」
「それはどちら様なんですか?」
めだか女房のマイペースな受け答えに、宇和は好い加減苛立ちを隠せなくなってきた。
「島崎藤村だ。作家になる為に、家族に貧困生活を強いて子供を餓死させた。大抵こういう人種はそうなんだ」
「それで奥様は幸せな人だったんでしょうか……?」
「そんな事まで知らないな」
人間の幸せなんて誰にもわかる訳が無いのだ。自分自身の幸福さえわからない人間が、幸せとは何かを解き明かせる筈もない。宇和は自分が幸せでいるとは到底思っていないが、しかし果たして絶望的な不幸に陥っているとも思っていない。高額所得者に比べると経済的にどん底の階層に属しているだろうが、貧困国の最底辺の身分とは比べものにならないくらいに恵まれた境遇にいる。所詮、人は灯台下暗しを止められないのだろう。
めだか女房は正座を崩さない儘、そこかしこに出しっ放しの本を棚に戻していった。仰向けに寝転がる宇和を横目にして、慈しみを宿しながらそっと微笑む。婉容な美貌は、年齢不詳の嫋やかさで逆光に翳る。彼女の手に残った一冊の文庫本は、イスラエル国王の倅の名前を二回、句読点を挟んで繰り返していた。
第五章
無味乾燥とした彼の日々は、春色にめくるめいても代わり映えしない。新生活に浮き足立っている人々の流れを、コンビニの中から他人事のように眺めているだけである。置き去りにされ続けている人間。取り残された男。疎外の真っ直中にぽつねんと佇んでいる男。果たしてそれは、外在的な悪手に苛まれた結果なのか。自ら分泌した毒に、痛みでしかない感覚を鎮圧した所為ではないのか。或いはいつまでも林檎を投げ付けられることのないグレーゴル・ザムザ。或いは獣にもなれなかった久木久三。或いは人間を失格する事さえも叶わなかった大場葉蔵。彼は最早、死という完全な状態には辿り着けず、現実から逃走する術も無い。背を向けたのは、決して世界ではなく、他の誰でもない自分自身なのだ……。世界は変わらず平常で、彼という個人がその世界を塞いでいるだけではないのか。彼は実は逃避しているのでもなく、ただ単にめまぐるしく移り変わる世上の風に煽られながら呆然と佇んでいるだけにしか過ぎないのではないか。
この時季は進学や受験に本腰を入れる等の為に、アルバイトを辞めていく学生も多い。アットホームな職場とも言い難いが、それでもささやかな送別が行われたりもする。宇和は責任者と一緒にプランを練ったりした。結局は、近場の飲食店で済ませられる事になった。そして次には、最も古い宇和は、補充で募集をかけた新人に作業を教えなくてはならない。彼の時間は止まっている。大学の学士課程を修了してから止まった儘なのだ。世界は今日から明日へとずんずん暦を刻んでいるのだが、彼の中身は何も変わっていないのだ。何も成長していない。何かを得る事も無く、そして失う事も無く、単調で退屈な毎日が事も無げに過ぎ去っていく。無病息災といえども、それはある意味、無害な日々に窒息しているとも考えられる。それはある意味、とても安らかなのかもしれない。真綿で首を絞められるとはこの事だ。淡い苦痛は快楽の隠し味なのだ。仮に半生を十分仕事に捧げ、多額の退職金と年金受給を約束された老後ならば、現在の宇和のような生活も悪くないだろう。アルバイトの給料を小遣いの足しにしながら、悠々自適な生活を送るのは、一昔に流行したスローライフを連想させる。しかし現実はそう甘くない。従来の都市型の生活に迎合しない姿勢をとったところで、先立つものがしっかり貯えられていないと話にならないのだ。田舎で新生活を始めるにも、纏まったお金を持っている者の特権でしかない。この平成時代は宵越しの金を持たない者には頗る冷淡で、そんな時代錯誤の人間に一抹の憐憫すら与えてくれない。彼には先立つものが無い。趣味に生きる、隠遁する、そういった生活様式も、所詮は経済的に安定した人々でなくては実現不可能なのだ。インターネットをしていると、つい錯覚が起きてしまう。自分は一人ではないのだ、似た者同士が世の中には多く有り触れているのだ、こんな不景気で高齢者層が既得権益を貪る若者虐待の時世なのだからそうとしか考えられない、そうに違いない、そうだと信じたい……そんな風に情報の選別にバイアスがかかってしまう、だが、実際のところは何もわからない。若年層の非正規雇用がどうこうと記事が騒ぎ立てるが、何も正確な事なんて誰にもわからないのだ。統計データならば尚更だ。そんなものは限定された集計側の恣意的な抽出にしか過ぎないのだから。完全失業者の算出方法からして好い加減な話なのである。
新人の教育と指導の為に、恐らく半月前後は手間がかかるだろう。宇和は憂鬱な気分でアルバイトに出向く。一人、市内の県立高校の定時制に通っている女の子が入ってきたが、宇和は自分より十も年下で化粧を覚えている異性に対して些か世代間の異文化を感じてしまった。妹の夕凪より年少の相手だ。たったそれだけの事で、彼は若干気後れを感じてしまう。まさかアルバイト仲間の縁で懸想を寄せる訳でもあるまい。年下の女子というだけで半透明な夕凪が薄く透けて見えるというのに、そんな相手に秋波を送る態度を取るのさえ破廉恥ではないかと私心が膠着する。それは公という名の強固な仮面だった。彼は決して公私混同の自主原則を譲らない。アルバイト先に必要以上の個人情報は伝えないし、雑談程度の無駄口でさえも億劫に感ずる時もある。さりとて極端に寡黙というのでもなく、彼には彼なりの無難な外面というものがある。過ぎ去って行った幾人かのアルバイト仲間には、それが機械のように無機質な印象として彼の存在が記憶されてしまう例もあった。
女の子は以前本屋でアルバイトをしていたが、年度末に潰れてしまったので、春から心機一転こちらへ鞍替えという経緯だった。
「本屋ってあそこの……給油所の前の……」
宇和は学生時代はよく利用していたので、名前を聞いただけで即座に合点が行った。ここ数年は専ら南米大河の如く津々浦々に販路を張り巡らせている電脳通販と古本屋の馴染みになっていたので、新品の書籍を購入するのさえ遠い昔の贅沢に思われる。よくも樋口一葉が一撃で吹き飛ぶ価格の海外文学硬表紙本なぞを欲望の赴く儘に買っていたものだ、と今ならぞっとする。そして容赦の無い出版不況の世知辛さを思った。どこのどの業種の店がいつどのようにして幕を下ろそうと、それは宇和自身には無関係な事だ。一々地方都市の店舗の経営にかかずらっていられる分際ではない。そんな現象は資本主義社会なら当然だ、市場原理だ、競争の自然淘汰だ、消費者は何に対して消費するかを選択する自由があるのだ。だがしかし、彼は実際の見聞とそれに伴う心情の揺らぎをそんな効率配分で器用に振り分けられない。それは鋭さなのか鈍さなのか、彼自身にもわからなかった。どうしてもっとあの店を利用しなかったのか、否、彼一人がそうしたところで何も変わるまい。遅かれ早かれその本屋は潰れていた。若しかしたら赤字でも何でもなく、経営者の意志で店仕舞いとなったのかもしれない。彼は数日間、得も言われぬ惘々とした心境になっていた。
新人の女の子と引き継ぎの時間になる日があった。宇和が奧に引き込んできた時は、既に制服に着替え、奧の小さな事務所で本を読んでいた。本屋で働いていた子なのだから、読書が趣味で何も不思議ではない。住所は旧市街の中に建っているアパートで、母子家庭なのだそうだ。定時制の高校を出ると、もっと勉強がしたいから大学受験を受けるのだと以前話していた。
「本が好きなんですよね」
お疲れ様です、と軽い挨拶の次にそう質問され、宇和は短く返事をしながら肯く。定時制高校に通っているという先入観からか、大人しく本を読んでいる姿が一種異様なようにも目に映る。それは自分の下らない偏見なのだと宇和が思い至るのに、この女の子の存在はそれだけで何かしら彼への影響を与えていた。
「専ら小説しか読まないけど」
若干の嘘を含ませて、宇和は何かの予防線のように言い足す。彼女が普段どういった類の書籍を手に取っているのか、それはこれまでの休憩時間で見知っていた。
「こういう本はどうなんですか?」
「どういう本?」
今、彼女が持っている単行本の表紙を提示され、彼はとぼけた風に問い返してみる。著者は近頃巷で仄かに話題となっている人物で、テレビの政治報道バラエティー番組や、所謂保守や右翼と呼ばれるような人々のインターネット配信番組などに顔を出している。宇和もこれが初耳の名前ではない。更に、当人は現在も彼らが暮らしているこの市に在住しているというのだ。講演や取材等で家を空けている日の方が多いのかもしれないが、現実として住民票は宇和と同じ地方自治体が管理しているのだ。
「興味無いね」と、宇和は子供の頃に人気だったゲームキャラクターの真似をした。
「先輩ってのんぽりなんですか? 年齢からぎりぎり就職氷河期世代だし、政治に期待しない態度もわかりますけど」
意想外に一丁前な発言を受けたので、男の方は閉口気味に溜息を漏らす。未だ成人もしていない小娘に、イデオロギーを活字にした本の受け売りだけで何がわかるものかと反論したい気持ちもあったが、不毛な議論は体力と時間の無駄なだけだと辛抱する。
「国をどうこう語る前に、自分の生活で精一杯なだけさ。期待しないんじゃないよ。期待するしない以前の問題で、一々干渉しないしされたくない。それだけなんだ」
「それじゃあまるで中学生ですね。参政権もあるれっきとした大人なのに、それって権利の放棄じゃないですか? 日本に日本国民として生きている以上、私達は国家に対する権利と義務があるんですよ。どんなにアナーキーな態度をとったって、そんなのは、えっと、モラト……じゃなくて、ル、ル、ルサンチマンの裏返しでしかないんじゃないですか。領土問題とか、社会福祉とか、私達はもっと国家の運営に参加している個人として自覚と責任を持つべきだと思わないんですか? それが民主主義じゃないですか。今の儘だと既得権益が維持されていくだけで、私達は益々搾取される側に追い込まれるんですよ。それは変えなきゃいけないと思わないんですか? まさか浦賀先輩って、一度も選挙の投票に行った事が無いとか言わないですよね?」
ご尤もと返答しそうになって、宇和はそれを沈黙で覆い隠した。自分が暮らしている市や県の首長がいかなる人物なのかすら知らないし、知る必要が無いとも思っているし、知らなくても差し支えが無かったのは事実だ。歴史上、日本の政治は王族や貴族や武士といった特権階級の領分だったのだ。この国の庶民は所詮、商売か畑仕事でその日の糧を獲得しながら、鬱憤晴らしという名の政治家批判で瓦斯抜きをさせられて満足するだけの身分なのだ。明治維新とフランス革命は同じではない。パリ・コミューンとなれば日本では到底起こり得ない現象だろう。時代劇で悪代官はいつも正義の味方に成敗される立場だが、無知な百姓よりも未だ有能な人材である事実は違いない。数億円を着服した悪徳官僚と、所得税が非課税の額しか賃金を受け取っていない貧困労働者、この両者のどちらが国家に貢献しているというのだろう? そして仮に若しこの両者が生死の天秤にかけられた時、救うべき人材はどちらなのだろう?
そもそも宇和個人からすれば、日本の国政と言われて、明治維新から近代化遊びの延長でしかないではないかと叫びたかった。政教分離すらしていないし、頭だけがころころとすり替わる、まるで古代アテナイ末期の衆愚政治と同類ではないか。埋蔵金だ、コンクリートから人だ、子ども手当だ、あんな茶番はまさに権力欲に取り憑かれた扇動政治家の言説そのものではないか。そして、そんな虚言妄説に踊らされた張本人は誰だ。宇和から言わせて貰えば、自分の政治的無関心は「貴方達と一緒にしないでください。僕は粛々と法律を守って生活して、稼いだ給料から税金はちゃんと払います。だからそれ以上僕の人生に関わらないでください」という、能動的な非国民とでも言うべき一つの信条だった。投票権が現金に換えられるならば、喜んでそちらを選びたい所存だった。
宇和は時間が来たのでタイムカードを押す。機械が時刻を記入する音で、少しだけ息苦しい空気から目が覚めた。そして再度、彼女の方に振り返る。本を閉じ、椅子から腰を上げていた。
「アルバイトに来てまでこんな話をしたくないんだ。インターネットなら幾らでも付き合ってくれる人達がいるから、もう止してくれよ」
「……好き勝手言ってすみませんでした。色んな意味で、個人の自由は憲法で保障されていますしね」
意識の高さを主張したかったのだろうが、彼女が出て言った後、宇和は失笑も浮かばない程に唖然とするだけだった。
数日後、十九時にアルバイトを上がると、店の横からひょっこりめだか女房が姿を現した。徒歩で自宅から半時間は要する距離である。買い物のついでと言っていたが、いつも利用しているスーパーマーケットから足でついでに寄って来れる場所ではない。何やらしてやったりなので、一々反応を見せるのも億劫だと宇和は素気なく通した。めだか女房は肩からマイバッグを提げている。夕凪が数年前に用意して、それから埃を被っていた物だ。中身は食材だけでなく、火にかけるだけのパックのうどんや、お茶漬けの素、インスタントの味噌汁といった食料品も含まれていた。
宇和は重いスクーターをわざわざ手押しで歩き、二人で肩を並べて帰路に着いた。傍から見れば夫婦か同棲中の恋人といったところだろう。世間が自分達の関係を固定させ、既成事実化させようとしているような、釈然としない気持ちで彼はげんなりしていた。
「幾ら日が長くなってきたからって、外は物騒だから、こういう時間帯に一人で外を出歩くもんじゃない」
「あ、はい……すみません」
すとんと穴に落ちるように悄気ためだか女房の声が、宇和の耳朶を微かに湿らせた。彼の想像した通りの反応だった。そんな風にめだか女房の行動に釘を刺すことで意趣返しでもした気になっていた。彼女を恨む道理は無いというのに。そういった感情を露骨に出す事でしか接しようとしない自分に、この頃は歯痒さを感じるようにもなっていた。宇和の中でも、めだか女房という存在について、彼女と自分の関係というものについて、模索めいた心中の円運動が度々行われていた。
アパートでは一足早く夕食を済ませた夕凪が、風呂上がりの香りを漂わせながら携帯電話で友人と電話していた。兄の帰宅に手の平をひらひらさせるだけである。すっかり家人の体で、週一の休みでアルバイトに続けている宇和より、勝手を知っているのも当然と考えられた。
「ねえお兄ちゃん」
手を洗って台所の前を跨いだ宇和に、携帯電話を仕舞った夕凪が傍へと擦り寄っていった。めだか女房は直ぐ、宇和の分の夕食を温める。煮物と魚、それに夕凪が持って来た野菜の漬け物が今日の献立だった。
「大学の友達呼んでもいい?」
「どうしてわざわざここに呼ぶの?」
「だってえ。一人だしいいじゃん」
数の問題ではないが、それを指摘しても無益だろう。相手は含み笑いで誤魔化しているが、腹のうちは見え透いている。友人を巻き込んでめだか女房と戯れたいだけなのだろう。宇和は甚だ冷淡に鼻を鳴らした。所詮、強情を張ったところで負けてしまうのだ。まともに耳を傾けても徒労でしかない。宇和はその場で背中を倒して仰向けに寝転んだ。後はもう妹の言葉には生返事で通した。また肩身の狭い思いをして、宛ても無く外で時間を潰さなくてはならないのか。それを考えると暗澹な気持ちだった。
部屋のテーブルに配膳されると、宇和は小声で礼を言ってから箸をつける。めだか女房は斜めの側にちょこなんと正座し、にこにこと彼の食事を見守っている。中高の制服のような初々しいデザインのスカート、胸元に細いリボンをあしらった凡々とした可憐なブラウス、真っ白なその上衣の中に、キャミソールなのか、うっすらと淡色が透けている。最近は夕凪と一緒に入浴し、整髪や美容もマネージメントされている。頭を少しだけ明るく染めてみたらどうかと助言されても、お洒落の為に体をいじくるのは頑なに首を横に振るのだった。化粧も同様の言である。
「よかったですね、宇和さん。夕凪さんのお友達が遊びにいらっしゃってくださるなんて」
「その通りだよ。何事も前向きに考えなくちゃ」
女同士の姦しい会話にうんざりしながら、黙然と空腹を満たし、彼はさっさと風呂場へと撤退した。
その本命の前に、アルバイト先で招かぬ来客を見た。宇和がレジで佇んでいると、赤坂は気安く手を挙げて声をかけてきた。勤務態度を問われるので、彼は邪慳な目付きで旧友の愛想を跳ね返す。店内できゃんきゃん喋っている女子中学生の一団を、赤坂の一瞥は苛烈な火を点けて睨み付けた。
「休憩って無いのか?」
「もう直ぐ……」と言ってしまったが最後、もう訂正は効かなかった。煙草の番号を口にしたついでに、それなら待っている、と赤坂は言い残して出て行った。宇和は甚だ不条理だったが、この国で一番分厚い硬貨一枚分の付き合いは帳尻を合わせてやろうと言い聞かせた。妹の友人の前座のようで、彼は気が重かった。春は瑞々しく晴れ渡っている。梅雨はじとじとしていて快くない。夏は暑い、秋は寂しくて、冬は未来に恋い焦がれる……。年中憂鬱で、日がな一日気怠い。いっそ世界が終わってしまえばいい、昨年の大惨事でこの国が崩壊していてくれたら――宇和は社会的敗者にぴったりの卑屈な没落願望に囚われながら、それに自己嫌悪を覚えながら、溶けない雪の冷たさで陰気な印象を発していた。立った儘で眠っているのだ。起きながら死んでいるのだ。生きながら息絶えている。瞼はその内側に絶望のプラネタリウムを展開している。誰も、何も、原体験の喪失を埋め合わせられはしないのだ。幼さが足りなくて、諦めが悪くて、現在はとても息苦しい……。何事も無く過ぎ去っていく日々に沈没してしまいそうだ。
「今日は仕事に行かない。最近の餓鬼はどんな教育を受けてんだ、親の面が見てみたいぜ」
煙草を着々と灰に変えていた赤坂は、開口一番そう宣言した。爽やかな青空が憎々しいのか、傲然と顎を反らすと、勢いをつけて白濁の煙を上に吐き出す。何となく宇和も一本、口に咥えて百円ライターを鳴らす。店舗の裏側のちょっとした物陰で、二人はうらぶれた路地を前にして肺を虐めていた。屋根を飛び越えて、雑踏の騒々しさや行き交う電車の残響が伝播してくる。
宇和は屈み込んで項垂れた。人それぞれ職場に不満もあるだろう。いい年をした二人なら、相手に一々物の道理を説くのも野暮というものだ。赤坂は中学時代から、年齢を詐称して日雇い労働で小銭を稼いだり、色々と身軽な男だった。高校二年の夏、単身で無計画に中国に渡り、何故か旅費の数倍の所持金を持って帰ってきた事もあった。父は地下鉄職員だが、瘋癲患者の身内を親戚と協力して養っていたので、家計の方は楽ではなかったそうだ。新幹線の鉄橋建築工事に行った経験もあり、そこで生命の危険に関わる失敗を犯したので、学校と家族が大いに喫驚していたのを宇和は記憶している。幸いにして本人は怪我一つしなかったのだが、中学生の不正就労という点で、大人連中が随分てんやわんやに右往左往していた。その殆どは言い逃れと責任逃れの鬩ぎ合いで滑稽極まりなく、当の赤坂本人は暫く寄せ場は自重しなければと自分の失態に舌打ちしていただけであった。そうした収入があったので、連れ合いの中で一番懐が豊かだったのは赤坂で、中学一年の冬だったそうだが、最初に童貞を捨てたのも彼だった、相手は女子剣道部の主将で生徒会長でもあった。あの真面目そうな生徒会長が赤坂と性交しているのかと、他の男達の妄想を盛んに煽り立てていたのは言うまでもない。
赤坂は欲しいものは何でも自力で手に入れてきた。成績も、金も、女も、自分の人生の羅針盤も。他人の力を借りる事を知らない男だった。
こうして今でも消息が繋がっている旧知は、程度の差はあれ、それぞれの愚貧を味わいながら青春時代を乗り越えてきた者の揃いだった。父がクラスメイトの女子に手を出し、苗字が母方に変わった者もいる。兄が警察の世話になり、半年近く家に帰らないような生活を送っていた者もいる。更に村落部の住まいで人権絡みの偏った教育を受けており、思想転換の際に近所と一悶着巻き起こして少年院に入った者もいる。宇和もそうだった。確かに家の経済は安定していただろう、しかし彼もまた、赤坂とは形は違えど、名状しがたい饑色に苛まれ、満たされない若さの鬱屈を抱えていた少年であるのは事実だった。非行に走った訳ではないが、さりとて品行方正な模範生みたいな人物像とは無縁だった。心の中には、熱を放たない暗い炎が常に揺らめいていたのだ。"キレる一七歳世代"の一人として、昭和の末期に生を得た旧き世代の末裔として、世紀末の空気が重く渦巻く時代を生きてきたのだ。
「おやまあ、もしかして浦賀君かい? 懐かしいねえ」
「……え?」
正面の路地の足音なんて気にも留めない。だからそれが眼前で立ち止まっても、自分とは無関係に思うのが正常だろう。しかし名を指されたら無視は出来ない。顔を上げた宇和は、見覚えの無い老齢の男性に訝しむ。今更店の名札を隠しても意味は無い。腰を上げて要領を得ない応対をする。続いて出身高校まで言い当てられたら、もう退路は完全に塞がれたようなものだった。
「印刷所のおっちゃんか? おいおい老け過ぎだろ。哀しくなっちまう」
赤坂が弾みでそう言うと、栓が飛んだみたく記憶が溢れ、宇和も合点が行った。漸く相手が思い出したので、男性は嬉しそうに想像を崩した。
「そりゃあれから十年も経てばねえ。どうだい浦賀君、今も小説を書いているの?」
「え、あ……まあ、小説は……ぼちぼち……いや、そんなに……」
高校で文芸部に所属していた頃の光景が、優しい閃きの激流となって宇和の頭蓋の中を洪水にする。部で文芸誌を幾度か作ったのだが、ちゃんとした製本に仕上げたいという意見の採択により、印刷を依頼したのがこの男性が経営する零細印刷所だった。帰宅部の赤坂がどうして一言的中したのか摩訶不思議だが、異様に記憶力の抜群な人物というのは身近に一人や二人はいるものである。
しどろもどろの宇和の胸中を察しに察しているのか、印刷所の男性は深く近状に立ち入らず、朗らかに笑っていた。輝かしかった時代の人間に、今の落魄れた姿を見られるのは、宇和にとってこの上なく屈辱的だった。
「おっちゃん、こんな所で何してんの」
「それがうちにいるのらくら息子がね……」
不甲斐無さを自嘲するような乾いた笑い。この路地を歩いている方向に進むと、電車の沿線にしなびた旧市街が並んでいるだけである。その手前には多少新しめの建物もあって、一日中流行っているパチンコ屋や、寂れたアウトレットストア、十字を掲げる教会や場違いに煌びやかな装いの美容院が見受けられる。
「働きもしないで遊びほうけていて、しょうがない奴なんだよ。今日は職業安定所に行くって言っていたんだけどね……それで、家に連れ戻しにね……。どうせパチンコに決まってるんだあいつは」
「そいつは、また。どこも気苦労が絶えないね」
「君達は今どうなの」
残酷な質問に黙秘権を行使しようとした宇和だが、赤坂に洗いざらい暴露された。自虐でも虚勢でもなく、混じり気の無い事実を羅列されるだけでも、今の宇和には五臓六腑が痙攣するような痛みを与えられる。
「そうかそうか。いや、いいじゃないか。アルバイトでも結構だよ。ちゃんと働いて、生活していけているんなら立派なもんだ。今はただでさえ景気が悪いからねえ。おじさんみたいに、中卒でもそれなりに就職がある時だったら話が違うけどね。頑張って偉い大学を出ても、社会に馴染めなくてニートをしている若い子ってのもいるらしいし……可哀想だよ本当に、そういう子は」
それから二、三、雑談を交わした。そろそろ男性の足はパチンコ屋への道に戻ろうとしていた。
「最近、地域振興組合の方から仕事を頂戴していたりね、それなりに忙しいんだ。あいつにも、働き口が無いならうちの手伝いをやればいいって言ってるんだけど……あいつにはあいつなりの考えがあるのかもしれないね。正直、人手が欲しくてね。正規の求人を出すのも考えるんだが、うちの待遇なんてたかが知れてるから、気後れしてしまってね。折角仕事に来て貰っても、生活保護と変わらん給料しか出せないんじゃ、逆に申し訳無く思って……本当に困ったもんだよ。厳しい時代になったもんだ」
「まあ……」
男性の背中を見送り、宇和はすっかり無駄にした煙草を揉み砕いて灰皿に投げ入れた。何とも言えない気分にさせられた。空になった手の平に、初めて自分達で作った本を触った時の感触が、何の悪戯か変に生々しく蘇ってくる。それが無性に腹立たしかった。何に自分が不愉快になっているのかわからなかった。こんな苦い気持ちに落ち込むのなら、いっそ記憶なんて跡形も無く消し飛んでしまえばいいと思った。
振り返るというのは、過去への未練や、情けない執念に己が負けた劣等的行為でしかないのだ。だから宇和は、昔日の美しさに惑わされたりしない。消極的な現状の肯定で、自身の逆光線の核心を誤魔化し続けるしかない。
こじつけのプラトニスム。人生自体が黄泉路なのだ、あの父神は振り返ってしまった、自分は決して振り返らない。腐った屍と化した愛する己が半身は、燻る絆の残滓を完璧に断ち切って、真っ暗な洞窟を脱け出すべきだと言っているのだから。宇和はむしゃくしゃして、もう一本、吸いたくもない煙草のフィルターを噛み締めた。
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Op.02「ウィダー・ガール」 文芸サークル「空がみえる」 @SoragaMieru
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