Op.01「兵士としての自画像」

文芸サークル「空がみえる」

兵士としての自画像

兵士としての自画像




あなた 僕の手をひいて 何処へ連れて逃げていくの

あなただけを信じていた 真昼に見た夢だけ

優しい午後の太陽だけが 僕の何かをさらしてくれた

――『白昼夢』Laputa(作詞 aki)より




 自分の全部を放出してしまったのだ、どうしてあんなにも幻想的な後ろ姿を手を伸ばしても触れられない程度の距離に置いていたのか、妻の花嫁衣装に値札を探したが見当たらなかった、一般人の代名詞か一般人であるのか、結婚とは夫婦のちぎり……、親兄弟親戚一同これだけでも彼にとっては充分過ぎる面子めんつなので血縁者以外は結婚式に招待しなかった、氏は幸福の絶頂にいたのではない、恐らく妻も同様の心境だったのだろう(彼が思い返してみれば妻の本当の笑顔を見たことはなかったのかもしれない、それは明々白々な意思表示ではなかったか……あるいはこの時点で妻の本意がまだ常軌じようきそくしていたのならば、やはり自分の非も認めざるを得ないだろうと氏)、だが彼も彼の妻もさいげられたのであるから、今更無分別に駄々をねたりはしなかった、《導かれるがままにしたまえ、出来事は延期されることをゆるさない》、かくも茫然自失に近い精神的状況で、氏は妻との結婚が己の人生の最善の選択とは到底信じられなかった、結婚初夜は? ……まさか二人して人形や鷹狩りの話にこうじたのではあるまい、人は時として自ら決定した事柄にも責任を持ちきれないのだ、それが社会動物としての限界なのか、己が己を知るゆえの弊害なのか、結婚を前提にした何らかの合意事項は二人の間で一つも交わされていなかったのだ、あたかも初対面の関係から微動もしない懸隔けんかくしの暗中模索でしかなく、あらゆる生成が否定され拒絶され断じて許容されず、氏は夫としての義務は何なのか思索に努めるのだが、妻の花嫁衣装、純白の天さながらの美麗なよそおい、似合っていたか否かで言えば似合っていた、だが世の女性は大半が似合っているのではないか、和式の方が良かったと彼の親戚から一人、氏は一にも二もなく内心で同意していた、洋式を毛嫌いしているのではないが、選択権が委ねられている上で態々わざわざ望まぬ方向を採用するのは愚挙であるのが彼の意見だった、妻は結婚式に関して積極的ではなかった、人並ひとなみの希望や理想は持っていたのだろうが、照れだったのか恥じらいだったのか表に出そうとしなかった、妻は最初から彼を包み込むつもりではなかったのか? ……夫婦生活における有益な生産活動が行われていたのか? 規範と倫理的判断でしか物差しを扱えない愚かな男女の、ありもしない傷の舐め合いでしかなかったのかもしれない、生殖行為の頻度は西洋人が夢精し想像妊娠してしまいかねない程度で、だが妻は子供を強請ねだっていた(自分の夫が種無し男であるのは危惧していなかった)、男としての夫はいて要求していなかった、妻の体温は彼にとって心地好ここちよく、すべすべした素肌にもれる時、氏は極上の健康法を施されている気持ちになり、それでも寝台ベツドの上で部屋の電気を消し全裸で絡み合うことが彼の中で妻の身も心も全肯定し独占したい欲求の源泉にはならなかった、汗ばみ火照ほてった呼吸に妻の豊かな乳房がふくららんではしぼむその官能的な運動、薄い茂みの下で閉じ合わされた妻の娘が苦しげに喘いでいる、氏は時計の画面に一瞥を向ける、時間や回数の制限された役務サービス、互いの快楽を充足させる共同作業だった、妻は夜の夫に不満を抱いていなかったし、頻度も物足りないわけではなかった、現状をれ自分をく日常に妥協して可能的な未来に進んで行く女であったのだ、翻って考えると妻は可能であれいかなる損害もいとわぬ気骨の持ち主であるとも言えた、絶対に望む結果を獲得出来るならば、妻は周囲が唖然とするほどに容易たやすく現在の全てを葬り去ってしまうだろう、現実として氏はそうして妻との水面下の抗争を(個人間だけで片付けられれば両者共が望みもしていない問題の処理)行わずにはおれなかった、何もかも一致しているというのに、それとは別に、彼も彼の妻も互いに自分が何か損をしてないか、相手が自分を出し抜いてはいないかと疑心暗鬼に陥り、氏は妻に対して服従の意を示していたのではなく、妻の方も彼を一方的に抑圧していたのでもない、これまでの曖昧で着地点のもうけられなかった夫婦生活の何処どこに未来への輝かしい希望が秘められていただろうか、《人間が単なる個人以上のものであることは明らかだ》、二人は相手に対して霊感を、温かな縁よりも深遠で確かな運命の共有を感じなかったのだろうか、そら見たことかいくら夫婦といえども所詮しょせんは赤の他人なのだと氏、妻は何事にも動じず夫の配偶者としての責務を粛々しゅくしゅくと果たしていると見受けられた、愚痴も吐かず放恣も漏らさず、ただ、黙然と、一般論的な模範解答を日々積み重ねて行った印象、彼にとっても夫の目から妻は何も欠点が無かった、結婚当初から及第点に到達していた夫婦だった、本当は彼も彼の妻も心の片隅でわずかな、実にほんの僅かな隙間をひそませながら、変哲のない家庭、朝昼晩と常温で満たされた家庭を築き、それはあたかもひつぎを模して作られた寝台のごとくに、氏はやがて現実のものとして来襲するだろう不和に万が一の予防も完備せず、甘えていたのだ、最も甘えたくない相手に甘えてしまっていたのだ、自覚していなかったあるまじき愚行の累積、何故なぜに妻は無言を保っていたのだ、妻は言わずもがな彼の心境は察知していたはずで、彼が自ら毒の沼に首までかる真似をするのを平然と黙殺していたのだ、朝早く先に起床する妻に氏は来る日も来る日も律儀な女だと感心し人間的に尊敬もしていたがやはり譲れない部分、寿命が縮もうと容認されない部分が確然かくぜんとあったのであり、そうした懸念について二人は真剣に検討相談もしなかったし、未来が野放図に拡大して行くとつたない想像に身を任せていたのだろうか(それにしては実生活の全般は抜け目なく調整していた、役割分担は截然せつぜんとさせていた)、この女は過去の男とも冷然と、また、何食わぬ顔で既存の形に収まっていたのだろう、あるいは無知に由来ゆらいする(無知を装いながらも本当に核心を知らずにいる彼の特有の無邪気さ、恬澹てんたんさ、そして罪深さと)時として冷酷な一面を垣間見せる相対性理論にのっとった彼我関係ひがかんけいを保持していたのかもしれない、《国を出る道は二つしかなかった》、関西空港は嫌だと妻が言ったので氏は新婚旅行を羽田から発つ方に調整した、東京に引っ越しましょうよと妻、貴男に務まる仕事ならいててるほどに転がっているわ、掃いて棄てる程度の仕事を任される職場は願い下げだと氏、新婚旅行初日の飛行機の中で、隣の座席に並んで座りながら、彼と彼の妻は小さないさかいで空気を軋らせどんよりと重気圧を放射していた、だがそうした出鼻を挫かれた二人にとって地中海の気候はよく治癒する作用をゆうしていた、時差惚じさぼけで氏は宿泊先にもっていたかった、妻は非常に活力を発し、現地の名所や文化遺産や定番の観光先を全部網羅もうらしなくては帰国出来ないとでも言いたげに意気込んでいた、氏はきたるべき疲労に慨嘆がいたんしながらも妻に従い街にした、氏はこの時胡乱うろんな気持ちをいだいていた、彼と彼の妻の関係性の性質、夫婦という外面的なものではなく、内面的な形勢が肉付けされて行く過程に感応していたのである、多心な戸惑いに後ろ髪を引かれながら、氏は妻との最初の想い出を作って行くのであるが、二人は旅行代理店の引率に任せる若者さながらに無軌道で無計画だった、言語の障壁は少なく異国を歩くのに苦難は待ち受けていなかったが、彼も彼の妻も異国を楽しむ伊呂波いろはを学んで来なかったのだ、結論として二人は自国の温泉旅行で満足していた方が利得だった、外国人を見るだけで無性に心的疲労がかさむ、そして外国の外国人旅行者である己の身分を反芻はんすうするたび益々ますます気分に斑模様まだらもようが拡がって行くのである(ことに彼個人の場合は)、だが氏は本心をおくびにも出さない、彼の妻はそうした夫の辛抱症にいささか閉口していたが妻の方も他人の態度に一々指摘する人間ではなかった、地中海の開放感が、澄明な世界が、透き通る風が、彼の中の社会のしがらみという夾雑物きょうざつぶつを洗い流してくれる、そうだそれらこれらは所詮私にとって不純物でしかないのだと氏は思わず呟きそれでも人は自ら所属する社会の中で生きる糧を得なくてはならなくてよと妻は独り言の調子で応酬した、墺太利オーストリアの《平行運動》に参加した数学者でもあるまいに私は未知の可能性を信じたりはしないと氏は若干熱を込めて言い返す、氏は新婚旅行の日程をこなすごとに自分がこの妻を愛しているのか愛していないのかわからなくなって行った、何もわからないのだ、何故に結婚したのかも、何故にこの女性を妻に選んだのかも、氏は何もわかっていなかった、何もわからずに選択してしまっていたのだ、血迷い彷徨い人生の分岐点を軽率に通過して来たのだ、《善人は不幸が度を超えたときに、悪人は幸福が度を超えたときに、人生に訣別すべきである》、凡人はいたところに人生を訣別すべき時がある、そもそも平凡な人間に幸福や不幸などという価値観は本来的に適用不可能なのだ、平凡な人間が自分を幸せだと思っているのなら、周囲の家族や知人はその彼に水を浴びせて無益な夢から醒ましてやるべきである、帰国すると互いに離婚を間近に現実的に非常に生々しく酷く淡泊に虚心に二人の関係の嘘偽りのない完成形態として辿り着き提示し合えるだろうと氏は妻の横顔に半月後の未来を予見していた(その予見は結局、半分的中で半分的外れだった)、ハネムーン・ベイビーねと彼の妻、場違いな台詞せりふに思えた氏は返答を濁し適当なそれでいて反論を赦さない理由を口にして宿泊先に引き返した、ほこりっぽい寝台の上で後悔していた、もっと良い部屋を用意して欲しかったのと、結婚自体が失敗だったのだと氏、氏はそれが予定調和の最上の二人の関係の終局なのだろうと一人で合点がてんがいっていた、この現実が嘘なのだ、虚構なのだ、太陽と空が結託し共謀し白昼夢を演出しているのだ、影から、死角から、名状しがたい圧倒的な実感の痙攣けいれんじみた蛇の抜け殻、妻が居る孤独、妻が消えて行く、地中海の真昼の蜃気楼……、(却説きゃくせつして氏はひとりぼっちになっていた)どちらが悪いか等の幼稚な言い争いは一切しなかった届の書類に捺印するだけの簡単な作業でしかないのだから私は白夜に生きる月で妻は熱帯雨林の未開の民族だったのだ全てが自動的で己の意志を無視して進んでいる感覚だったがそれは錯覚だったのだろう実際に私は私自身を見失ってはいなかった私はしっかりと地に足を着けて妻との離婚を完了した夫と妻のどちらかに結婚生活の破綻の非があるのかという追究は固く拒断していた若しも逃れられぬ事実の鬩ぎ合いに足を絡め取られても私は確固たる現実に怖じ気付いたりはしなかったであろう私の胸に穿たれたのはほんの小さな裏切りの銃創だけであり致命傷は受けておらず霧の中に隠れた何かを掴み取ろうと躍起になるがすぐに飽きて歩みを止めてしまい割れた硝子窓に映る自分に禍根を見出すのだが私は自己から取り繕うことの至難な過不足の欠如であると思っており妻は最後まで優しかったそれは紛れもない事実であり妻は己の罪悪感に苛まれてはいなかったし私もそうした妻の羸弱した様子を見たくはなかったので(人に隠れて繊細な女らしい神経を戦慄させていたのかもしれないが)少なくとも私の目には妻は最後の日にも平生の何処か掴み所のない恬澹とした声色の清明な大多数の人間がこの人間に対して好意的になるだろうと肯かせる颯然たる黒髪艶やかな毎日の手入れを欠かさない長い黒髪の暗示的な発言を私は見て見ぬ振りをしたのでありそうした反応が二人にとって自然であり身近な人間が互いに若かったのだと慰めて来たのだがそれは誤解でこの夫婦の内実を微かも理解していなかったのだ《世界には犠牲者もなければ、悪人もいない。誰も、他者の選択の犠牲者ではない》私達は円満離婚だったのだ寧ろ結婚自体が私と彼女にとっては災難でありしかし己の人生には他の誰でもない自分自身の責任が課せられる点を熟知していた妻は潔く自ら犯した不義密通の報いを完遂するのだと主張した私は専ら後手の対応に迫られる立場だったかもしれないがある意味において私は結婚初日から何もかも見通していた気がする離婚が正式に決まった時職場の同僚は色々と気遣ってくれたが私にはそうした心温まる配慮は不必要だったのである却って惨めであったし熱い珈琲に氷を入れるのごとくあべこべで頓珍漢な善意は私を苛立たせた妻より以上に周囲の人間の短絡的でその場限りの善良な言動に暗い湿気た感情を芽生えさせられたのである私は自由になれた独り身に逆戻りして何も未練はなかったそう言い聞かせていたし疑う余地なくその心境は正しいと胸を張って言えたのだ併し周囲は私が命の洗濯を終えて随意放縦な立場に落着した事をあたかも舞い込んで来た不幸のごとく解釈しているのだが頗る心外だったそれは私の不名誉でもあるし妻への不当な蔑視ではないのかと私は不平を感じていたのであるが態々口には出さなかった私は常に前進している妻との離婚も何らか展望が見えていた気がした何故に赤の他人は私達の決断を否定しようとするのかどう好意的に見ても連中は私達の離婚を認めたくないのだ認めてしまえばどうなるというのであろうか無論私には与り知らぬことであるし想像の範疇にはない私は取り立てて心身の変調を感じてはいない(執拗に体調を窺って来る専務の友人が一人いるのだが、彼とは社内でも一番付き合いが長い間柄で私は些か彼の憂慮に辟易させられてしまっている)、冥冷な時間は私の性に合っているある日枯れていた自宅の観葉植物も無心に処分した妻の残滓に支えられている家の物は一つ残らず抹消したかったが手間がかかるので現実的な企図ではなかった私は罪を犯したのだろうか今回の離婚が人間の罪に起因しているとなればそれは妻の方に認められるのであるし私は被害者面をして周りの同情を一身に集められるだろうが妻を悪者に仕立てたくはないこれは私の女々しさではなく極めて理性的な認識なのだ感情は廃している感情で物を言うとややこしくなる《感情にはものごとを引き寄せる力がある》私は心の仕組みを信用していない目に見えず手に触れられないものが自分の中で自己を牛耳っているのに私は断固として反対の意を呈する知覚から来る刺激を記憶から来る述懐を心に支配されて黙認していられないのである私は四六時中自分自身と格闘しているのであり妻との離婚も信念に関わる問題だったのかもしれない妻の度量の大きな態度は問題の本質を捕まえてはいなかった私は気付いていたが敢えてその点を俎上に載せなかった裏切りの烙印を顔全体に刻まれた妻を尚も尊敬していたし人間的名誉を汚したくなかったからである社内食堂で皿饂飩を食べていると専務が寄って来て執務室に連れられた海外出張から帰国したばかりだと言い常務ともあろう男が平社員の中に混じって食事とは物好きなものだと笑っていたが終わったことに関する近況を知りたがっているのは目にも明らかであった彼の執務室で二人きりで私は下手に口を滑らせたりしなかったそう仏頂面するものではないよと彼は上機嫌そうにして言うのだ君は世界に徘徊する一匹の物の怪を知っているかいと訊ねられ関心の持てない話題だと返す実際に私は白々しく彼から視線を逸らした私と彼は大学時代からの旧知で実の親以上の歳月を共にして来た間柄だった赤の他人を隅々も理解するのは不可能だが(自分自身さえ何もわかっていないのだ……)私は彼の肯綮を中てられるし彼も私の首根っこを締め上げるのは朝飯前の関係である二人の学生時代は土砂降りだった記憶が鮮烈に残っている粗末な日々にせめて彩りを添えようと一輪の花を探していただけなのかもしれない様々な新奇に直面したそして挫折した彼は地方から出て来た男でしかし私は彼の郷里について何も語ってもらった経験がない彼には故郷がないのだろうか彼には帰ると慈しみ安らぎを授けてくれる人々を持たないのだろうか私は初対面の時から入学式の後の電車の駅でどちらからともなく言葉を紡いだあの一瞬から彼の奥底に息衝いている駅の乗り場の屋根と屋根の間の軌条が走る頭上に朝なのか夕なのか時間が一直線状の軸から外された渾然一体となった空色が水に垂らした油の模様めいた薄雲を棚引かせ重力が天を引き摺り落とそうとしているかのごとく没落する感覚が肋骨に覆われた空洞で顕晦し執務室で煙草を吹かす彼は人口建築物に埋め尽くされた景色を見下ろして俺達が初めて出逢った日もこうしたよくわからない空模様だったなと突然何の前触れもなしに囁く《女なんか軽蔑すべきですよ、だからぼくは軽蔑してるんです。頭っから、とことんまで!》毒の花を瞳の裏側と心の内側に咲き誇らせて彼はこの世を呪っていた退屈な田舎町で彼はいかなる苦境と辛酸に見舞われて来たのか私は存じ上げないもしかしたら閉鎖的な土地柄が彼の全身を身体の中身さえ打擲し彼の存在を彼が自分自身の存在を根底から窮地に貶められそうだったのかもしれない彼には平素から一言では言い表せられない陰翳が漂っていた自分以外の人間全員を侮蔑するかのごとく振る舞い辺幅を着飾りそれは翻って常に何かに怯えているのだ女っ気がないのでもないが彼は現在も未婚でその話題になると口煩い親に反発する中学生めいた癇癪を起こすのだ心的外傷の発露なのかもしれない彼は大学進学を引き換えに過去のあらゆる自分の構成要素を排除して来たのだろう確かに初めて彼と会話した時の彼の純粋な感じ世情に暗いではないが一種の浮世離れ永い歳月を眠り続け今まさに意識を取り戻した人間の軽やかで闊達な気風が感じられただから私は彼を好きになったのだろう毎日同じことを……飽き足りない児戯を……私は彼の魅力を演じる化けの皮の下で息を潜めるものの正体は突き止められなかった生涯に自画像は二枚しか残さなかった仏蘭西フランスの画家のごとく幽玄に満ちた世界が彼と過ごす時間には寄り添っているしかし彼は私と胸襟を開いて交際していた筈だ苦楽を共にして来た自信がある彼は己の辛み悲しみを押し殺す自己憐憫の独壇場の演者ではない彼は痛みや苦しみを何かしらの内的な組織で純化させているのだ無添加の苦痛は特定の人種にとっては麻薬以上の愉楽を提供する自己破滅型の人間は現実に打ち勝てず敗者の誇りを与えられないから絶望するしかない彼は夢を見ただろうか私に人生観を打ち明けるのだがそこには受け売り以上の中身はなく彼の口から誰か他人の信条を代弁している空々しさが漂い彼は常に演じていた自分自身を演出していたそれはこうして一部上場企業の専務に出世してからも変わっていないだろうどうだい今晩と誘いをかけられ私は有耶無耶に済まそうとしたが彼に予定を訊ねられると空白も強制的に埋まってしまうのだ自由気儘な独り身生活の特権を満喫しなけりゃ嘘さと彼は人の気も知らず嘯く我々の青春は灰色でくすんで汚れて色褪せていた何処にも光り輝く水飛沫は飛び散っていなかった秋が過ぎようとしていたいきつけの古本屋から右手に出て路地に曲がった先の喫茶店に立ち寄った時に彼は紅茶を飲んでいた読書趣味の女を口説き始めた私は軽食を注文して二人の様子を遠巻きに観察しているだけだった中世西洋の尼僧院を舞台とした同性愛を題材にしたユーゴスラビア王国の小説(『満たされぬ告白』オストラーエナ・ミナーチ著、若林清美訳、H社、一九八四年刊)を読んでいたその女は満更でもなく彼の美辞麗句に耳を傾けていたが頁を捲る手も休めていなかったこれから我々はどうなってしまうんだろうと喫茶店で二人して語り合い社会人になって数年後再会して泡沫経済が破裂し昭和天皇の崩御と世紀末目前の新時代と宇宙的浪漫の終焉が幾つも幾つも重なり輻輳し濃縮され言い知れない暗鬱として重苦しい空気を充満させ赤い彗星大佐の地球寒冷化作戦は成功しなかったのだ地球に蔓延る俗物は粛清されなかったのだ私も彼も誰かの悪戯で生き存えた世界の涯で虚像の未来に映し出された希望の傀儡でしかなく……、(足首に毛屑けくずが付着していた、氏は彼の口上を遮る為にもそちらに注意を注いだ)彼は奴隷に成り果てるのだけは絶対に嫌だと密かに戦慄していた、この無秩序の渦に上下左右前後四方八方を包囲され、逃げ道は塞がれ退路は潰され、孤独、妻の不在、離婚歴の刺青だけが彼を記述する上での私的な項目の追加に寄与しているだけなのだ、二人は休みを取り名古屋に来ていた、下らないよみやこめぐりなんてと氏、君は働き過ぎだ少しは羽目を外したまえと彼の友人、行き先は大抵決まっていた、傍から見ると年季の入った男性二人が親しそうに街を歩いているのは一種異様な光景かもしれない、幸いにしてか彼も彼の友人も社会人生活に草臥くたびれた中年男とは一線を画する若々しい雰囲気を持つ人物なので未だ働き盛りの年頃だと言っても通じるであろう、夏が終わり秋が過ぎようとしていた、氏は盂蘭盆うらぼんには両親のもとに顔を出した、妹は度々たびたび孫を連れて足を運んでいるらしくその時も予期せず遭遇そうぐうした、妹は彼と素気そっけなく接していたが恐らく二番目の兄が妻に逃げられどんな表情を浮かべればいいのか困っていたのだろう、あるいは卑俗な感情を隠し持ち険しく二番目の兄の現況を観察していたのかもしれない、孫は彼に懐かなかった、妹に似て可愛くないと氏はしかつらの沈黙の裏で吐き棄てる、彼は父親の十五回忌か何かで先の夏期休暇を使ったのだそうだ、名駅前の超高層塔で彼が自動車の展示区画を回り同施設の四十階の料亭を夕食に選んだ、和室で向かい合い氏は彼と明日の予定を相談するが、口に上がって来るのは今日一日の感想と話題が脱線した挙句あげく支離滅裂しりめつれつな雑談の蛇行へ転がり落ちて行く、肉親以上に互いを知った上で今更微笑ましい想い出の積み重ねも余地がないのだが、妙に馬が合う、いや明日は所用で会社に戻らなくてはならない朝一でねと彼、広島で合流しようと提案して来た、新幹線の乗り場で友人を見送った氏は名古屋で宿を取るかいっそ大阪か神戸へ西下しようか思案しながら高島屋十一階の本屋で海外文学区画に立ち寄り知り合いの翻訳家の最新の仕事を実際に手に取って見た、文学はてんで専門的には門外漢もんがいかんで素人だが他人に勧められると拒絶はしない、人智の研鑽けんさんを追うと英米は欧州の中において文化的に伝統の重さに先達の背中を見る位置にあるのだなとわかる、英国王室の権威、日の沈まぬ帝国と謳われた時代を経て、……氏は古代インド哲学の文庫を一冊購入した、それが絶対的な真理であるか否か正誤は脇に置き、最後の頁に辿り着くまでは記述の内容に埋没していられる、眠気が寝惚ねぼけているので氏は宿泊先で半分近く読み進めた、速読していたわけでもないが割とすんなり頭に入って来た、叡智の掃き溜めが悪臭を放ち始めた頃、氏は文庫本を閉じて腕で額を伏せた、次は広島へ新幹線で直行した、一歩進めば墓標に突き当たる街だった、昼前には追い着くと彼から連絡が入り氏は駅近郊で時間を潰そうと考えたがえん所縁ゆかりもない場所で融通の利く手持ても無沙汰ぶさたの解消も難しく、氏は憐憫を誘う様子で一人、ぽつねんと佇んでいるだけであり、風簫の音色が旋律が耳の奥で鳴っている、何の楽曲だったか図に当たらないが氏は微酔に似た心地でその錯覚の発症するに任せていた、非社会的芸術家に美大生が憧れる風潮への慨嘆、高等教育を受けながら生前に成功の栄光を掴めなかった負け犬を賞揚する感覚不随、平和記念資料館に行こうと彼が言うので氏は渋面を拡げたが強いて反対はしなかった、いやはや戦争に勝っていたらなあと彼、時折これ見よがしな台詞を吐いてはへらへらと無思想を装い歩を進めている、そうして合理性だけが信じられる根拠とでも言いたげに殊更ことさらに反人間的所感を述べるのである、家族の愛情を知らない人間なんだなと内心で氏、この彼の友人には自分と他人という枠組みで人類は存在していない、館内を無表情で巡る氏はこの施設が包括しどぎつい色彩と密度で自己醸成しているえも言われぬ熱量にかえり逆上せてしまいそうだった、五感の首を絞めて無意識に出口を探し求める、中学の修学旅行以来だと彼、奇遇だな私もだよと氏、もう二度と来ないと彼が外に出た途端とたんに血相を変えて禍々しく言い切った、いつまでも過去に執着してこれと法隆寺が同じ世界遺産とは反吐へどが出るなと彼は気息きそくも熱く続ける、何に対して憤慨し敵意を剥き出しているのか氏は皆目見当が付かない、情緒不安定ではないかとうれうが彼の頭の中が蕩けるぜと捨て台詞を彼、景気を直そうと瀬戸内海で心の換気を行い、氏は彫琢ちょうちくされた新婚旅行が脳裏に閃きやはり海外でなくて良かったのだと改めて確信するのである、本土に戻り偶然空いていた旅館の一室で二人はくつろぎそろそろ休暇も潮時かと言葉には出さず感じ取っていた、切り出したのは彼の方だったが本題に載せたのは氏、真面目に働き過ぎると言うがそれ以外に取り柄のない人間もいるのだと氏、財布を紛失した氏はそれに気付いてからずっと後になって彼に教えた、だが至近の実害は皆無であった、何故なら旅の金銭面は全部彼が肩代わりしたからである、広島も飽き、次の最後の目的地を日本地図の上から選択するがこれ以上西へは向かいたくなかった氏は東京に直行するのを何気無く発言する、その裏腹で物足りなさを感じている、まだ何処かを見聞けんぶんしなくてはならない気がしていた、また、いつか適当な時に仕事を空けて訪れたらいいのだが、そうした問題ではないのだ、今、ここで、彼と連れ立ちそこに辿り着くことで氏は芽の段階に差しかかっているばかりの樹木を知る機会が得られると思っている、奈良の吉野へ、新大阪で新幹線を降りると二人は私鉄で奈良中部の山深い地域へと南下して行った、河川を越えて終着駅の改札を抜けるとすぐそこは吉野山のとば口であった、二人は坂道を上がり家屋の並ぶ通りをぶらつく、名物の桜は秋模様で山景色は紅葉でただれていた、彼は残念がったが、ひねくれものの氏は最盛の季節でなくて好都合に思っていた、中年男の二人旅だ、年齢相応の社会的地位を持つ独身男の彷徨ほうこう(魂の流離などという観念的な表現ではなく荒廃した長途ちょうとであったのかもしれない)、閑散とした山村と入り組んだ道、途中までは乗合が駅前と往来している、山の斜面は大地と木々の世界であった、視界に収まりきらない山腹を真正面にあるいは見下ろす形の望観が奇妙だった、彼は詩的な感性を訴えられるのを無縁に街中の騒々しさを忘れた清浄な山気さんきを味わっている、氏は彼とは異なり現実の構成要素が感覚や認識を通じて質的に変容し情報として頭脳に行き届いているのだ、彼は冴えた直感で物事を処理している、そういう意味では二人は両極に位置する人間であるし、だからこそ気性が合うのかもしれない、互いの足りない部分を補い合い、欠けている箇所を埋め合わせられる関係だった、上辺だけの友情が入り込む余地よちがない、本人の意思など振り払い双方は一定の距離を保った道連れを続けているのだ、前に勤めていた職場を辞めた時、大学卒業以来数年振りに偶然再会した彼に今の会社に入らないかと誘われた際、氏はしばらく考える時間を要求したが実は返答は既に決まっていたのだ、決定事項に対して気持ちの面で納得の行く形に仕上げたかったのだ、身嗜みだしなみの最後の手入れ同然の自己点検であった、彼と音信が途絶えていた数年間、氏は自分は一体何をしていたのだろうかと顧念してみた、生まれ変わった心地だった、大学を卒業し就職し新社会人として自分より上しか見る先のない暮らしを送り氏は当時精神的にかなり参っていたのは事実である、日々内外から自身が膠着こうちゃくしぱらぱらと朽ち果てて行く悪寒に苛まれていた、特に背中に滴る氷の雫は、手の届かない場所だからこそ神経を騒がせる、就職し毎日背広に束縛される日々は異郷での流浪に似ていた、自分以外の誰もが自分と酷似した、しかし決定的な相違を持つ何者かに思えた、怪物か、宇宙人か、動く肖像画か、大猩猩ゴリラ黒猩々チンパンジーが服を着て人間社会に溶け込んでいるのか、氏はこの頃言葉が通じ意思疎通が可能というだけで相手を真っ当な人間と認識していなかった、自分もその範疇に入っているとも思えなかった、人は誰しも大なり小なり己の内部に歪な本性を眠らせており、断絶の齟齬が表面化する時、その本性も、また、目覚めるのだ、氏は人間の怪物に、実際に遭遇したわけでもあるまいが、だが空想とは言いきれない肉感的な輪郭、虚構の位相に属していない人間内面の仮定を取り除けなかった、月日を経る毎に氏は背広が自分の身丈に合っていないと感じ、窮屈で窒息しそうな鎖骨の辺りからの締め付けに喘ぎ喘ぎしながらも誤魔化し、欺瞞的な正当化で現実を折り合わせようと努めたのだが、友人との再会が、自分の日常における彼の出現がいとも容易よういに虚しい隠忍いんにんを瓦解させてしまった、かつて誰かが主張していたがこの時に彼の眼前に切り開かれた自由への道は決して彼を完全な理想の成就に導きはしなかった、現実としてそうであった、だが当時の彼には選択肢がなかったのだ、他にが見付からず旧友の誘いに乗る以外に自分自身を解き放つ術を用意されなかったのだ、運命論者でもない氏は人智を超越した何かによってあらかじめ定められていたえにしだとも思わなかった、あの時もっと賢ければ正しい判断を下せたのかもしれないと氏、こうして想定する過去の不明瞭な述懐を度々するので友人に呆れられる、最善の結果か否かを検証するのは簡単だと友人、最善でなかっただろうと今思えばそれが最善だったのさ、詭弁だなと氏は無関心そうに言い返した、吉野の桜の山はえぐれているのかくずれているのか急斜面を前面に露出している、何一つ正しさに微笑まれた経験はないと氏は思ったそうである自分は常に間違って来たのかもしれない単に違法行為ではなかったのだ人間という者は御咎めがないとなると気持ちが大きくなり分別が弱くなりより一層の大胆不敵な行動に出てしまうものだ親や学校の教師や自分を叱り付けて来る目の上の瘤と手が切れると厚顔無恥に自分が偉くなったと錯覚するのだ斯うして知り合いと二人して無頼な旅に出ていても罰せられはしない(有給休暇を申請してあるのでけちを付けられる謂れはないが日本人という人種は法律で認められた権利であっても一種の共同体の調和を乱す行為であれば圧力的に封殺して来るものなのだが)一見すると不審者だろう私は彼みたいに表立って堂々としていられないまるで彼は亜欧大陸を自分の足で横断して帰って来たかに見える自信と壮大な気宇を感じさせる時がある物怖じせずこの世の理不尽に屈しないのが彼という人間であり私には到底真似の出来ない性格なのだ私も唯々諾々と道理に悖る暗黙の了解に従いはしないが彼ほどに我を押し通そうとする肝っ玉は持ち合わせていない面の皮が厚いとは思わないが彼には反感を持たれない図々しさがある彼は社内でも人望が厚い私も信頼されてはいるみたいだがそれは仕事上の尺度であり人間的に云々とは別なのださりとて嫌悪されているのでもないが彼のごとく自然と周りに人が集まる徳を積んで来たのでもなく今の会社の中での私の立場役職を伏せた上での私の立場というもの私の名刺は自動販売機の裏か下に貼り付いていても不思議ではない前の会社でもそうだった私は下らない表現をすれば部品であり歯車の一部でありいつでも交換の利く消耗品でありそれは現在でもそうなのではないか所詮は企業に飼われている人間でしかなく世間なるその不鮮明な領域で己を律しているのであり不自由ではなく隷属でもなく一念発起すれば晴耕雨読の身分に鞍替えするのも無きにしも非ずだが依然として私は背広を着ており名札を首から提げ会議や接待や出張や諸々会社の利益となる社会人を演じているのであり時折自分が何の為に生きているのかと薄ら寒い沈思に耽るのだが結着は訪れない気休めなのだろう私自身も重々承知している全てに意味を求めるのは私の悪い癖でありとあらゆる物事は無意味なのだと結論するのも私の悪癖であり別に無理して直さなくてもいい筈だと言ってくれたのは彼だった自分で自分を変えられはしないと彼は訳知り顔で言うのである何故かと私が訊ねると彼は一笑してそれ以上は言葉を続けない私は変化を望んでいるのでもなく普遍的な真理の下僕でもないのだがふとした瞬間にそうした人間の認識を超越した高次の原理原則めいたものに世の中が矯正されるのを待っている自分を知るレフ・トルストイの幸せな結婚論を何かの書籍で読んだが詳しくは思い出せない彼に確かめれば正解が出て来るだろうが面倒臭くて放っておいた私は最早新たに何かを知り何かを教わり何かを学ぶには遅い余りにも遅過ぎる人間には個人の限界が定まっている中途半端であろうと未熟であろうとそこに到達してしまえばそれ以上の成長も飛躍も叶わないのだ、魂が絶叫しているごとくよじ凸凹でこぼこに歪められ緊迫している肉体、白骨の死体と化す自分が鮮明に展開されていようと人は明日を夢見て生きて行くのだろう、その先に空虚な足跡しか残せなくとも、人は生きて行くのだろう、生きて行かなければならないのだから……新しい嫁さんを……また……貰えば……と母に言われ氏は一言も発さず頭を振った、氏は見抜いている、母は息子を案じているのではなく嫁に逃げられた事実と男の母親としての面子に関して執着しているだけなのだ、彼にとって離婚は喪失ではないのだ、きっと、一度は愛し、そして別れることが彼にとっても彼の妻にとっても望ましかったのだ、その発端が妻の不義密通であろうとも……、ちまたで見聞する狂おしい嫉妬は彼の中で不完全に燃焼していた、一体いったい、彼の身体の何所どこに離婚の傷痕が刻まれているというのであろうか、仮に心に暗い影を落としているのであれば、氏に何故にそうした無責任な言葉を投げかけられるだろう、否、出来はしない、ゆえに氏は漸進的に血を薄めて行くのだ、最も濃い部分から白黒時代の温度を抜いて行く、蕭条しょうじょうたる並木道を一人、一陣の秋風に枯葉が舞い、街中に差しかかればモーリス・ユトリロの色彩で寂寞せきばくの往来が孤独を一入際立たせて来る、地面にへばり付く鮮やかな己の影に、華飾なき風体は悲喜交々ひきこもごも等身大とうしんだいの自分をその画面に配置する、空はくもっており(それ以外の表現が難しい)、にごった湖面にも似て不確かで、人気のない、否、雑踏はにぎわいでいる、氏は孤独を羽織はおるのは苦ではない、しかし淋しさは、自分が淋しい男だと痛感するのは若干沈鬱だった、フルートの独奏が絡み付くこうした無目的の外出は、風雨に打たれる通りの外観が砂上さじょう楼閣ろうかくでしかなく、一つをとっても安定しておらず、春になれば元気になるわよと妻、あれはいつの頃だっただろうか、二人で栃木とちぎ日光にっこうに旅行した時の、旅館が夕食まで少し時間がくとのしらせだったので薄暮の中を近所ぶらついていると、何の話をしていた最中さいちゅうだっただろうか、妻が退職して初めての秋だった筈であり、氏は二月になれば否応なしに悲しくなって来る……自分が自分であり続けられる場から、人間としての根源的名誉を剥奪され、それが原因で激しい嘔吐の発作を起こしてしまう、生理的に妻を求めているのか、生理的に妻の幸福を求めているのか、氏は骨から痩せ細るので他人は彼の変貌を把握していなかった、彼の妻だけは夫の皹割れた人間像を了解出来なかったのかもしれない、函館はこだての夜景だったのだろうか、妻をたまさか想い出し甘い追憶を与えてくれるちっぽけな空想の慰みにはしたくないのだ、決断は遅過ぎた、決断以前に結果を騙し討ちしておくべきだったのだ、月給三ヶ月分の結婚指輪……むしろ三ヶ月分で済んだと思わなくてはならない、全休符に占領されてしまった幼い家庭、子供部屋は作られる前から否定され、断続的に鳴り鼓膜を打つ電話の着信は彼と彼の妻を動じさせない、夫婦間の問題に他人が介在して来るのはいかがなものか、血縁者であろうとも……妻が素描へと分解されて行く、世紀末を生き延び、新世紀を門出かどでとし、氏はうんざりだった、今日も明日も朝昼晩と繰り返される、人生が続く保証に強制的に捺印なついんされ許可が下されるのだ、二〇〇〇年一月一日のあの日に世界中が暗転してしまえば良かったのだ、これまでの人類の歴史が全て劇中劇であり、壇上の照明が落ち客席から拍手喝采が沸き起こり、氏は出演者の末席で記念撮影にも入らず立ち尽くしているだけで良かった、場にそぐうにこやかな表情を満面に貼り付け……目隠しで手探り、視界の利かない真っ白な現実に監禁され、知らぬ間に終わりたった一人、十中八九、独占し我が物顔で大手を振るうのだ、氏は彼も逃げ腰だったではないかと非難めいて言った、返事は聞きたくもなかった、この俺が他人に社会に国家に世の中に情けも恵みも乞食した経験は一度もない神に誓うよ俺は徹底的に無神論者だがねと彼、氏はこの年齢になると友人のそうした依怙地な言動が浅はかで未成熟に思われる、人並ひとなみの社会生活を四半世紀も継続すると人は嫌でも何かを学習する筈である、自己と世界の包括的な折衷を行う筈である、彼にはそうした円熟した社会人としての当然の成長は起こらなかったのだろうか、彼が大学生から知るこの友人という人物は、成程なるほど、氏は現在と過去の相手を重ね合わせ判別不可能であった、彼はいつから進歩を止め(あるいは拒絶し、小学生か、中学生か、高校生か、それとは異なる時系列区分で比較検討せねばならないのか、彼には大半の人間が共有している一年三六五日とは離脱した次元に所属しているのかもしれない、前生との因縁を持たず真に素肌の無地な人間なのかもしれない)最低限の義務の履行で最高の権利と利得を画策しているのか、人件費は吝嗇りんしょくするな、これが彼の口癖だった、そして一人に多く配るより大勢に安く配る方が利点があるとも加える、責任を取れ、そうだ無責任に匙を投げ、同じ分の指弾しだんなら、卑怯者と罵られ後ろ指を射される方が気楽なのだ……彼は肛門性交愛好者でもあったのだ、新社長は世襲ではないのだなと彼は病的に当たり散らす、養う家族も持ち家の月々の支払もない彼をこうも業腹ごうはらにさせるのは、自分たちを拾ってくれた現社長が最後の最後に裏切りをしようとしているからで、顔を合わせると同じ話題を蒸し返す、彼の関心はもっぱら社長後任人事に集中していた、株主なんぞはあてにならない奴らは安易で浅薄で自分たちがどれだけの株保有者なのかすら把握していない程度の間抜けな雁首を揃えた連中だと彼、全員が殆ど顔見知りに近いのは事実である……寧ろ外様役人であるのが彼ではなかったのか、氏は彼と全く同じ分際であるのを利巧に弁えており、社内の政治事とは一線を引いて勤めて来た、彼の方も立身出世に貪欲ではないし昇進の権謀術数けんぼうじゅっすうをのらりくらりかわして来た人物ではあるが、覆水ふくすいにされそうな事案に気が気でない様子であった、彼は自分の執務室で下唇を噛む、若い芸能人の宣伝広告を貼った机に腰でもたれ瞼の下でゆらゆらと陰翳を灯す、氏は努めて対照的に応接用の長椅子で本を読んでいる、今日はちょっとした打ち合わせ程度の会議だけで別件はいて急ぐたぐいのものではなかった、まだ彼に余計な遠慮を呈してしまう、したり顔を皮膚の裏側に匿い……氏は友人から夕食に誘われたが都合が悪いと断った、どちらかの自宅でも構わないと食い下がられたが素直に気分ではないと表情で防戦した、彼は捨てられた猫の瞳で消沈する、また、明日は予定は入れないでおくと(子供じみた罪悪感に背押され)言い残し、彼の執務室から退出した、空白の予定こそ是が非でも死守するのだ、自宅に帰れば独り、物音もないがらんどうの空間が電気に照らされ炙り出される、かくして氏は何をするでもなく椅子の上でまんじりとしているのだ、湯が沸いた、しかし氏は何も飲む気にはなれなかった、書斎には人体に有害な花粉を発散する花が一輪、妻の置き土産にしては趣味が悪く、あるいは思わせ振りな妻の伝言とも推し量られる、俺の嫁さんは要するにサラ・マイルズだったのかもしれないと氏、氏は二人の女性を脳裏で二重にして見る、一致する箇所の一つもない姿は、彼をもっと深く掘り下げてみようかと考えさせる、氏は間の抜けて呆然と放心状態だった、唖然として、時間が禍根かこんを連れ去ってくれたのだ、世界の速度が低下し砂時計は流れを止める、ありえたかもしれない値札の付いた確率と共に。




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Op.01「兵士としての自画像」 文芸サークル「空がみえる」 @SoragaMieru

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