Op.03「畸形の業」

文芸サークル「空がみえる」

畸形の業

畸形のカルマ




愛し疲れた 墨色の犠牲

子宮で者を語り 朽ちる色彩

雁字搦めの思想

いつからこの場所にいるの?

雁字搦めの思想

股開く嘘に笑い合う

――『業』DIR EN GREY(作詞 京)より




 人間の定義とは何なのだろう。どんな基準をもってして、人間を定義付けられるのだろう。人間が人間たりえる為には、どんな条件が必要なのだろう。言葉を喋ったら人間なのだろうか。

 しかし、言葉は単なる意思伝達の手段でしかない。言葉の代替物は、他の動物も会得している。イルカは口から音波を発し、他の同類とコミュニケートしている。知能は人間より高いかもしれないとも言われている海中のエリートだ。それに、イルカに限らず、犬や猫だって人の言葉を理解する。猿の赤子は人間のように育てると、少なくとも幼稚園児なみには人間と同等に成長するという。生まれたての鳥のひなのインプリンティングは、対象が人間であっても発生するのだそうだ。自分の親と認識することに生物としての違いがさほど重要でないならば、人間固有の特性とは何なのだろう。二本足で歩いているなら人間なのだろうか。翼を持たず、自力で空を飛べないのが人間なのだろうか。そして、一体いかなる見地から人間の基準を設ければいいのか。

 真理の所在。

 究極的な論決の判定。

 哲学的に人間たりえると、それが正真正銘の人間と言えるのか。哲学的に人間ならばその他の不該当事項は黙認されるとでも言うのか。生物学的に人間であるならその他の不確定要素は切り捨てても構わないのだろうか。過去にも人間とは何なのかを定かにしようと挑んだ人々がいた。人間はあしであったり、万物の尺度であったり、根源的に時間的存在であったりと説かれてきたのだが、そのどれもが真実をついているとは思えない。

 人間とは何なのか、この設問は永遠に解き明かせないものなのだろうか。そもそも、正解があるのかさえもわからない。どうしてそんな疑問を抱いてしまうのかさえもわからない。思考停止して、動物的本能のままに生きていくだけなら、こんなにも出口の見えない迷路を堂々巡りに彷徨わなくても済んだのだろうか。少なくとも人間であると認められるのなら、それ以上にその部分を追究しなくてもいい筈なのだ。更に、人間の条件を満たしながら厳密には人間でない存在はありえるのか。非人間とは何者なのか。人間未満とは本当に存在するのか。人間の埒外らちがいの誰か、隣人の範疇を逸している何者か。

 一個の問題は新たな問題を全方位に派生させ、際限なく増殖し分化していく。そしてとりこにした相手を撹乱させ、重層的な幻惑の中へと取り込んでしまう。人間という巨大な世界の縮図から、僕たちは逃れることは叶わない。

 僕は触手しょくしゅになっていた。

 ある日、突然、触手になっていた。原因はわからない。

 そもそも、触手になった人間なんて聞いたことがない。けれど、原因や経緯はともかく、僕は触手になってしまっていたのだ。何の前触れもなく。唐突に。

 生活に支障がなければ、触手と化していようがどうでもいい。もっと異形の怪物に変貌してしまわなかった分、まだましだと言えるかもしれない。僕自身、第一印象としてはそうだった。触手も当然、驚嘆にあたいするものなのだろうけれど、僕は取り乱したりはしなかった。

 洗面台の鏡で自分の姿を確かめてみる。一見して普通の人間と変わりがないように見て取れる。実際、外見的には何の変哲へんてつもないのだ。どうやら人間の姿形すがたかたちを維持していられるらしい。自分が触手になってしまったと感じ、それが勘違いでないと確信したのは、上辺の肉体で気付いたのではなかった。手を洗う。水を出しっぱなしにして、それを黙然と見下ろす。水は絶え間なく排水溝に飲み込まれていく。亡者の呻き声のような音が泡立つ。無駄に流された水は、綺麗きれいなままで下水道へと運ばれていく。そして暗闇の中で汚物や悪臭に塗れながら、元の透明な姿を失ってゆく。

 何か特別に対処が必要なのかもしれないと考え、しかし具体的な案は思い浮かばなかった。誰かに相談できる事柄でもない。失恋の辛さや、仕事の悩み程度だったら、誰でも応じる用意はあるだろう。けれど、どれだけ親しい間柄だとしても、突然触手になったと打ち明けられて、返す言葉がなくなるのが当たり前だ。現時点で僕は触手になったことに関して深刻に受け止めていないし、まだどんな日常生活上でのさわりがあるのかも想像がつかない。まだ自分自身を正しく把握していないのに、そんな状態で他人に説明もできないだろう。仮に誰か信頼のおける知り合いに相談するとしても、タイミングをちゃんと見計らわなくてはならない。下手に暴露して回って、僕自身の立場が危うくなってしまえば本末転倒ほんまつてんとうだ。

 取り敢えず、肉体が触手になった程度で、僕の人生が劇的に厳しくなるとは思えない。むしろ、触手の有効利用はあるかもしれない。そういう意味では、触手によって生活の便利が向上する可能性だってあるのだ。僕は前向きに考え、自分が得体えたいれない人物になってしまった事実を悲観しないように決めた。何事も卑屈になっていては精神衛生的に害でしかないのだから。

 触手として変わり果てた現状を、前向きに捉えてみることに決める。どうせ、この状態を改善する方法を見つけ出すのも一苦労だ。それなら、利口に現状維持を選んでおくべきだろう。いちいちどうにもならない事柄に取り乱していては、社会生活を健全にやっていけない。そして、そんな思考を働かせている僕は、触手になっても頭脳はまだ人間らしさを残しているのだという証拠なのではあるまいか。触手が人間らしさを奪っていくのだという前提があってこそ、の仮定だけれど。

 つまり、現状、僕が触手か人間かの問いは、解答が明白だ。僕はそのどちらでもない。あるいは、そのどちらでもありうる。何事なにごとも白黒で線引きしなくてはならない法理は存在しない。世の中には曖昧あいまいにしておいた方がいいことだって沢山ある。そうしなければ社会が円滑に回らない事態だって数えきれない。僕はまだ人間を棄てたという自覚も決意も持っていない。それは逃避なのだろうか。何かに対して目を塞いでいるのだろうか。わからない。一つだけはっきりと断言できるのは、これから触手と化した事実が僕自身に何らかの影響を及ぼしたとしても、僕はそれを甘んじてれるだろうし、そうすることで僕は諸々もろもろの現実的問題を難なく解消していくだろうと思われる。

 とにかく、悲観的にはならない。触手は沈黙を保っている。僕の中の異形の表出。人ならざる存在の烙印らくいん。人間である僕にそれが授けられたということは、僕はもう非人間なのだろうか。それとも、元から僕はその宿命を背負っていたのだろうか。

 しかし、そんな鶏が先か卵が先かの議論を突き詰めてもナンセンスだ。鶏が先だったとして何になるだろう。鳴き声が変わるわけでもない。卵が先だったとして何になるだろう。足を生やして歩き出すわけでもない。一人暮らしの僕は、グレゴール・ザムザを演じる為に触手という非日常を抱え込んでいるわけではないはずだ。もっと異質な要因が秘められているはずなのだ。部屋の片隅で無様ぶざまに息絶える結末は想像するのも困難だ。思い浮かべてみたとしても、それはすり硝子ガラス越しの映像みたいにひどくぼやけている。具体的に頭に描けない時点で、それは僕自身にとって微かな重みも含まれていないのだ。一秒に数億もの量が我が身を透過していくのに何の作用にも気付かない、宇宙からの極微細な漂流物にも似た塵芥ちりあくただ。


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Op.03「畸形の業」 文芸サークル「空がみえる」 @SoragaMieru

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