第1章-20


 不忍池の北にある寺の門前に、白い竜の形の雷が落ちた。

 落ちた先にいて、雷をまともに食らったのは、人間姿の少年である。


「火白くん!」


 火白に突き飛ばされ、雷の直撃は避けられたものの、地面に転んでしまった晴秋は、がばと起き上がった。見れば、雷の余波で焼けたのか辺りにはしゅうしゅうと草の焼ける臭いが立ち込めていた。

 その煙を、手で払いながら少年が姿を現す。けほけほと咳き込む少年の姿に、晴秋は安堵仕掛け、だが彼の右腕から煙が上がっているのを見て、さっと顔が青ざめた。


「だ、大丈夫なのかい?」

「……おーう。まあ、ちょっと驚いたがのう」

「驚いたってか、それ煙!焦げてるよ君の腕!ひ、冷やすべきじゃないのかい!?」

「心配無用だ。放っておけば治る。……それよりも」


 焦げた右腕を着物の袖で覆い隠して、火白は門を鋭い目で睨んだ。


「おい、隠れているのは誰だ。この江戸では、来客に雷を撃つのが作法なのか?」


 返答を待つことなく、火白は無造作に扉を左腕で殴り飛ばした。

 元々傾いていた門扉が吹き飛び、門の瓦が幾枚かがらがら剥がれて落ちた。晴秋は口をあんぐりと開ける。少年の細腕だというのに、そこから放たれるのは鬼の剛力である。

 だが、晴秋が驚く間もなく、火白はあっさりと門の中に踏み込んだ。


「ちょちょちょっ!私も行くよ!」

「危ないから外に……と、云おうと思っていたが、言ってられぬな、これ」


 言い合いつつ、寺の敷地に踏み込んだ二人は、伽藍の中から歩いて来る人影に気づいた。

 晴秋と同じような白い狩衣を纏う、優男である。長い黒い髪を、項のところで紐で束ねている。すっきりとした、見目の良い涼やかな顔立ちをしていたが、火白はなんとなくその視線の中にざらつくものを感じた。冷たいとでもいうのだろうか、こちらのどこを見ているのかわからぬ瞳だった。


「……誰だ、あれ?」

「知らぬ。そもそも、おれが知るわけなかろうが。どう見てもあれはお主の同業者だぞ」

「そうだけどさ、私だって知らないよ!」


 ひそひそ小声で言い合う二人の前で、狩衣の男は口を開いた。


「陰陽師なんに鬼を連れて、そちらこそ一体この場に何用や?」


 上方の訛りが入った物言いだった。晴秋が厳しい顔で、彼に向かい合う。


「これは失礼した。だが、そちらこそいきなり雷を放つのは頂けないよ。この子が庇ってくれたからよかったけれど、危ないじゃないか」

「さよか。せやけど、そない剣呑な鬼を連れて来はったんは、そちらさんや」


 故に己は悪くないのだという男に、晴秋の顔がますます険しくなった。火白は左腕で右腕を掴んだまま、黙りこくる。


「剣呑なんて言うけれどね、私たちはそちらに話しかけてすらいなかったんだぜ。だというのに、いきなりあれはないだろう」

「文のひとつもよこさんで、いきなり家に入ろうとしたやろう。しかも、妖引き連れよって。江戸の陰陽師は、妖にやたら甘いようやな」

「家とは笑わせる。ここはとうに捨てられた寺だよ。君こそ、ここに住んでいた妖たちを追い出して居座っているだけじゃないのかい?」

「おいおいおい、晴秋。お主が挑発してどうするのだ」


 火白が小声で止めに入るが、完全に彼女の眼が据わっているのを見て、言葉に詰まる。だが、次の一言で火白も顔色を失った。


「妖に家なんぞいらんやろう。あんなものは、放っておけばぞろぞろ湧いてくる埃のようなものや。そんなものを連れ歩いているあんたこそ、一体なんなんや」

「……だから、怪我をさせても構わないと言うのか。それは些か乱暴に過ぎるだろう、陰陽師。おれたちは、そちらに聞きたいことがあって訪れただけだ」


 だが、火白の言葉を陰陽師は無視した。そこに何もいないかのように、晴秋の方だけを見ているのだ。

 その無関心ぶりに、なんとなく心当たりがあった。妖と見れば途端に頑なになる人間というのに、火白も百年の間に出会ったことがある。こういう形の人間は、妖である火白がまともに話をしようと持ちかけてもまったく受け付けないのだ。


「おまけに、門を殴って壊したやろう。これだから妖は野蛮なんや。人の言葉なぞてんから聞きもせんのやから」

「ほう。それじゃあ、君は野蛮な妖ならば、式神にしても構わないというのかい?」

「それはそうや。そちらかて、その鬼は式神やろう」


 晴秋がまた食って掛かる前に、火白は彼女の袖を小さく引っ張ってかぶりを振った。

 己を晴秋の式神と思わせておいたほうが、この男は話を続けると踏んだのだ。恐らく、式神でもなんでもないただ協力関係にあるだけの妖と人間と知れば、今より不味いことになる気がした。


「……そうだけれどね。それなら君も、人の式神に攻撃仕掛けないでくれよ」

「ああ、持ち物を壊されそうになって怒っていたんかいな。せやったらすまんかったわ、そんだけ強い妖、従えるんには骨が折れたやろう」


 晴秋の隣にいた火白にだけ、そのとき彼女がけっ、と口の中で吐いた罵り言葉が聞こえた。

 だが、晴秋は渋い顔のまま頷いた。


「そうだよ。なにしろ、正真正銘の鬼だからね」


 そういうと、男はほう、とわかりやすく顔を明るくした。


「それは確かに、うちとこの雷でも平気の平左なわけや。純血の鬼なんか?」


 一瞬晴秋の眼が泳ぐ。火白は肯定のつもりで、瞬きをした。


「え……えー、うん、それはもちろんさ」

「ほう、そらまた剛毅なこっちゃ。いや、近頃、北にある鬼の隠れ里からなんや強い鬼が流れ出た、言う話を聞いたが、あんたさんの鬼はそれと同じくらい強い妖気を持ってるんやな」


 十中八九、それは己のことだと思いながら、火白は黙っていた。


「そうなのかい。私はよく知らないけれど、そこまで詳しいということは、君も妖の式神を連れているのかい?」


 晴秋が素知らぬ顔で尋ねると、陰陽師は急に膝を打った。


「そうやで。化け狐や。おなごにも男にも、何にでも器用に化ける狐や。妖気の大きさでは負けてるけんど、鬼にそないなことはできひんやろ」


 何やら、競りにかけた品を争うような物言いだった。だがそれよりも、火白が気にかけるのは化け狐という言葉のみである。

 晴秋も無論気づいたのだろう。肩に力が籠った。


「へぇ。だが、狐の妖なんて珍しくもないだろう」


 挑発するような空気を感じ取ってか、陰陽師の男の細い眉が跳ね上がった。


「そう言うんやったら、見せたるわ」


 陰陽師は、白い衣の袖を振って、背後の伽藍の中に合図を送る。暗闇から姿を現した姿に、火白は思い切り眉を潜めた。

 板張りの床を軋ませながら現れたのは、三尾の狐である。毛並みは見事な黄金こがね色で、ほっそりとしなやかな脚を持ち、大きな尻尾が三本も生えている。立派な化け狐だった。だが、よく見ればその毛並みには所々焦げたところがあった。炎で焦がされたようなその有様に、火白は拳を袂の中で握りしめる。

─────あのちび狐たちを。

 連れて来なくてよかったと、そう思った。黄金の狐からは、福禄屋で今か今かと帰りを待っているだろう小狐たちと、同じにおいがした。

 間違いなく、この黄金色の狐は信乃や毛乃と血の繋がりがあるのだ。

 すい、と動いた哀し気な黒目が、火白の姿を見たとたんに、大きく見開かれる。一目で、火白が人ではなく妖とわかったのだろう。だが、火白は手で、落ちつくよう微かな手の仕草で伝えた。


「どうや?ほれ、化けてみい」


 だん、と男が沓で床板を踏み鳴らすと、狐は宙に飛びあがってくるりと回る。

 次の瞬間には、そこにいたのは白い毛並みを持つ山犬である。晴秋が瞳を大きく見開いた。


「これは……凄いね」


 芝居ではなく、本心から出た言葉のようだった。故に猶更、男には晴秋の驚きが心地よく聞こえたようである。


「そうやろ。この辺りに住んどった狐や。従えるには骨が折れたわ。いや、江戸は広くてええわ。妖も仰山おるわりに、腕の良い祓い屋は少ないようやし」


 己も上手く仕事にありつけそうであると、得意げに言う男である。


「姐さんはそんな式神連れてる言うことは、良い腕持ってるんやろうけど、風の噂では商家の出戻り娘が道楽でもやれるくらい、江戸の祓い屋は緩いようやの」


 夏草を踏み倒し、太陽の光を総身に浴びようとするかのように、男は両腕を広げた。


「君は、何か訳があってこっちへ来たのかい?確かに、腕さえよければここではいくらでも働いて行けるけど。……そうだね、先日も、福禄屋という店の子どもが、何か悪いものに憑りつかれて寝込んでいるそうだよ。上手く祓えれば、十分な金子が出るだろうね」

「そうなんか。そら、ええ話を聞かせてもろたわ」


 そう言った瞬間、陰陽師の顔に嫌な笑いが過った。火白の項に鳥肌が立つ。

 だが、男は一瞬でその表情を吹き消すと、元の通り涼やかな顔に薄い笑みを貼りつけた。


ねえさんは何の用があったんや?いきなり入ろうとしたのには、理由があったんやろ。驚いたもんで、式神に攻撃させてしもたわ。ま、腕の良い陰陽師やったら防げるような火花やけどな」


 いちいち得意げに語る男である。どうも、己の陰陽師の腕に絶対の自信があるようだった。

 どうも勘に障るやつだと、火白は内心で思い切り口をへの字にしていた。

 さっきから言葉の端々で、妖をどうでもいいもののように思っている心がにじみ出ていた。それに、人を殺めかねないような術を放っておいてなんなのだ、とも思う。

 元々火白は、そこまで我慢強い質ではない。生来呑気ではあるが、堪忍袋の緒が切れるときはあっさりと切れるのだ。


「ああ、大したことではないよ」


 こちらもにこやかな笑みを貼りつけたまま、晴秋が答える。


「そちらの狐を、貰い受けようと思っただけだからね」

「は?何言うて……」


 晴秋が言うなり、火白が動いた。一瞬で、六尺の大きさになり、一歩踏み込んで、呪符を構えようとした男の手から、呪符を弾き飛ばす。そのまま、顎の下を殴り飛ばした。

 手元から離れて飛んだ呪符には、晴秋が駆け寄ってびりびりに千切る。ほっと一息ついてから、晴秋は拳を固め、草の上に倒れ込んだ陰陽師を見下ろしている火白に近づいた。


「……もしや、やっちゃったのかい?」

「やっとらんわ!気絶させただけだ!」


 全力で殴れば、人間の頭を豆腐のように潰してしまうのが、鬼の腕力である。無論そんなことにならないよう、火白はきっちり手加減をしていた。


「というか、名前も聞かずにのしちゃったけれど、そっちの君は、狐の実乃くんで間違いないのかい?」

「……はい、確かに俺の名前は実乃です。間違いないです」


 犬の姿から狐の姿に戻り、三尾の狐はそう口を利いた。何が何やらまだわかっていないようで、何度も眼を瞬いている。


「そうかそうか、いやあ、よかったよかった、これで間違いだったら、おれら完全に通り魔になるところであったわ」

「は、はあ……。あの、それであなたがたは?」


 ひたすら訝しげに問うてくる狐に、地面の上で伸びている男を気にする様子は見受けられない。それどころか、心なしか安堵しているように見えた。

 その正面にしゃがみ込んで視線を合わせつつ、火白は尋ねる。


「うむ、その前にだな、お主、信乃と毛乃という名前の小狐と、真木という人間の娘を知っておるか?いや、知っておるよな?」


 たちまち、黒い大きな瞳が一杯に見開かれるのを見つつ、火白は頬を緩めたのだった。


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